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帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。やがて、清少納言や紫式部の「伊勢物語」読後感と一致する、正当な読みを見いだすことが出来るでしょう。
伊勢物語(七十一)大宮人の見まくほしさに
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、伊勢の斎宮に、内の御使として参上したところ、その宮に、すきごと(好きなこと…好色なこと)を言っていた女(斎宮女房)が居て、私ごとして、
ちはやぶる神のいがきも越えぬべし 大宮人の見まくほしさに
(千早やぶる神の斎垣も越えてしまいそう、大宮人が見たさ逢いたさに……血早ぶる女が、斎宮の・斎垣も越えてしまいそうよ、大身や人が見たく、貴身・欲しさに)
男、
恋ひしくは来ても見よかしちはやぶる 神のいさむる道ならなくに
(恋しかったら、斎垣を越えて・来てみて見ろよ、千早ぶる神の禁じる恋の道ではないのだから……乞いしかったら、きてみて見ろよ、血早ぶる女が、自ら制止する道ではないのだから)
貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る
「すきごと…好き勝手な言…好色な言」「ちはやふる…神の枕詞…千早ぶる…霊力ある…威力ある…血早ぶる…氏や人の枕詞…血気盛んな」「神…かみ…上…女」「おほみや人…大宮人…宮中に仕える人…大身や男…大いなるおとこ」「大…ほめ言葉」「みまく…見まく…見たく…あいたく」「見…覯…媾…まぐあい」。
「見ろ…見よ…見の命令形・勧誘の意を表す」「見…まぐあい」「いさむる…禁じる…諫める…制止する」「みち…人の道…恋の道」。
斎宮女房と「好き言」を言い交わした。女の歌は、女の心に思うことの本音である。斎宮女房として溜まった欲求不満を歌にした。
言の戯れを知らず、なかでも「見る」には、結婚する、異性と関係を持つ、などという意味の有ることを知りながら、ここでは削除してしまう。たぶん、近代人の理性的判断なのだろう。そのため、歌の真髄は永遠に顕れない。
歌とは何か、原点に帰れば、古今集仮名序の冒頭に書いてある。「世の中に在る人、こと(事)、わざ(業・ごう)、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)