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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(59)
歌奉れと仰せられし時によみてたてまつれる
(貫之)
桜花さきにけらしもあしひきの 山のかひより見ゆる白雲
歌奉れと帝が仰せになられたので、詠んで奉った・歌 (貫之)
(桜花が咲いたようだ、あしひきの山の峡谷に見えている白雲よ……おとこ花が、さいたようだなあ、あの山ばの、峡より・貝より、見える、白雲よ・白々しい心のもやもやよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「桜花…木の花…男花…おとこはな」「さき…咲き…裂き…破裂…絶え尽き」「けらし…けるらし…(咲いた)にちかいないだろう…推定する意を表す」「も…意味を強める…詠嘆の意を表す」「あしひきの…山などにかかる枕詞」「山…山ば…頂上」「かひ…峡…峡谷…峡間…言の心は女…貝…おんな」「白雲…色褪せた春情…白々しくなった色情…体言止めは余韻が有る」「白…色けなし…白々しい」「雲…心に煩わしくもわきたつもの…欲情・色欲など…広くは煩悩」。
桜花が咲いたにちがいない、峡谷に見える白雲よ。――歌の清げな姿。
おとこ花、さいたのだなあ、尽きないおんなのあの山ばの、貝に見える白々しい心雲よ。――心におかしきとこら。
題詠でも独白の歌でもない、即興の歌なので深き心はない。詠めと仰せになられたので、目に見える景色につけて、「心におかしきところ」を添えて詠んだ歌。皆の男どもが、性愛の果て方に、感じる女の心模様を詠んだのである。帝をはじめ、もののふの心を和ませただろう。悪し引き延ばしの、あの山ばの、貝のありさまよなあ、あるある(笑)。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)