帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(一)今は昔、男二人して女一人を ・その一

2013-10-09 00:06:55 | 古典

    



              帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今集には載せられなかった和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。「
平中」は、平貞文のあだ名で、在中将(業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今和歌集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。

この物語は、今では一般には、ほとんど知られていない。その原因は色々あるけれども、国文学の助けを借りて現代語にして読むと、面白くないからである。登場人物の心情を伝える和歌が、国文学的解釈では、清げな姿しか見えず、「色好み」な部分が、すべて消えるためである。

和歌は、古今集仮名序にいう「歌の様を知り、言の心を心得える人」には、わかるおかしさがある。それを今の人々にも感じらように紐解きながら、色好みな歌と物語の帯を解いてゆく。「歌の様」や「言の心」については、理屈より慣れることで、おいおいわかる。

 


 平中物語(一)今は昔、男二人して女一人をよばひけり ・その一


 今は昔、男二人して、女一人を、よばひけり(言い寄ったのだった……夜這いしたことよ)。先にたって言い寄った男は、官職が優っていて、その時の帝の御身辺近くでお仕えしていて、後から言い寄った男(平中)は、その帝の母の縁者(甥の子)で、官職は劣っていたのだった。それでも、女はどう思ったのだろうか、後の人に、つきにけり(従ったのだった……くっ付いたのだった)。それで、この先の男は、この女を得た男をだ、たいそう、あたみて(仇にして……恨んで)、よろづのたいたいしき(あれもこれも怠けがちであること……あれこれとよろしくないこと)を、ものの折り毎に、帝が無礼であるとお思いになられるようなことを、作りだしながら申し上げ、後の男の評価を・損なっている間に、後の男、はた(案の定……やはり)宮仕えを苦しいと思って、遊行・行楽ばかりして、衛府の司での宮仕えもしないということになって、官職を取りあげられたので、世の中も思ひうじて(男女の仲もいやになって)、うき(憂き…浮き)世には交じらずに、一途に仏道修業行について、野にも山にも交わろうと思ったけれど、一寸たりとも離さず、父母がたいそう可愛いがっておられる人なので、憂きも、これにぞ(父母の愛情にだ)、出家の思いもさし障ったのだった。

時しも、秋の頃であったので、たいそう何だか心細い気がして、わが心一つを慰めかねる夕暮れに、このように言う。

うき世には門させりとも見えなくに なぞも我が身をいでがてにする

(憂きこの世では、門を閉ざしているとも見えないのに、何が、なぜ、我が身をこの憂さより出られなくするのか……浮き夜では、身の門閉ざしているとも見えないのに、何が、なぜ、我が身の一つを、出られなくするのか)。 


言の戯れと言の心

「うき…憂き…つらい…いやな…浮き…心うかれた」「よ…世…世の中…男女の仲…夜」「かど…門…女…身の門」「いで…出で…出家…出門…やめて女より出る」。


と言いつつ、ながめゐたる(眺めていた…思いに耽っていた…長めていた)間に、なまいどみてものなどいふ(未熟なまま張りきって言葉などかける……なまはんかに思いをかけ情けを交わす)女のもとより、蔦(つた)の、いみじうもみぢたる(たいそう紅葉した……ひどく飽き色した)葉に、「これはなにとか見る(これは何だと見るか……これは何だと思う・飽き果てたのよ)」と言って寄こしたので、このように言って遣る。

うき名のみたつたの川のもみじ葉は もの思ふ秋のそでにぞありける

(憂き評判ばかり立つ、龍田の川のもみじ葉は、もの思う秋の涙に濡れた袖の柄であるなあ……浮き汝の身立つ多の、女のも見じ端は、もの思う飽きの別れに振る、袖なのだなあ)。


言の戯れと言の心

「な…名…評判…汝…親しきもののこと」「のみ…だけ…の身」「川…女」「もみぢ…紅葉(黄葉)…も見じ…見ないつもり…逢わないつもり…合わないつもり」「も…もう…もうまた」「見…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す」「は…葉…端」「そで…袖…別れに振るもの…端…身の端」。

 

女・返しもせず。(つづく)


 

貞文の二十歳ぐらいまでのできごとのようである。先輩と同じ女に、たまたま前後して言い寄って、おそらく、言葉の巧みさ、色好みなわざは上だったのだろう。平中は女を得たために、仇にされ、あること、ないことも告げ口され、宮仕えがいやになり、怠けて出勤せず解雇されて思い悩んだのである。そして彼女にも振られてしまった。今でも有りそうな話である。これが平中物語の発端である。

 

作者は誰か、目ぼしぐらいは付けておかないと読みづらいので、「大和物語」の作者とおぼしき藤原千兼が、この物語も書いたと仮定する。父の藤原忠房の残した資料をもとに物語にしたのだろう。父の忠房は宇多法皇の寵臣であった。雅楽を奏する時は笛の名手として、歌合いでは判者(批評して勝ち負けを決める審判)として、居なくてはならない人だったのである。古今集には貫之との贈答歌もある。父忠房は同時代を生きた平中の歌にまつわる資料を持っていても当然の人である。千兼は父の才能も受け継いだのだろう。


 

文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。


 
 以下は、物語と歌を読むための参考に記す。


 紀貫之の言う「歌の様(
和歌の表現様式)」については、藤原公任に学べばいい。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べた。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてある。これが「歌の様」である。


 紀貫之の言う「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それをただ心得ていけばいいのである。