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帯とけの小町集
小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。
小町集 73
あだ名に人のさわがしういひわらひけるころ、いはれける人の、とひたりけるかへりごとに、
(仇名について、他の女たちが・騒がしく言い、笑っていたころ、言われた人・小町が、消息尋ねた人への返り事に・詠んだ歌)。
うきことを忍ぶる天の下にして 我がぬれ衣ほせどかはかず
(憂きことを耐え忍ぶ、天の下でして、我が事実無根の噂、濡れ衣は、天日に・干しても乾かない……浮きことを偲んでいる、吾めの下でして、わが濡れた身と心、ほしても乾かないの)。
言の戯れと言の心
「うき…憂き…浮き」「しのぶ…忍ぶ…偲ぶ」「あま…あめ…天…女…吾め…吾間」「衣…心身を包むもの…心身の換喩…身と心」「ほせど…干せども…(飲み)ほせど…し尽くしても」。
小町に付けられたあだ名は、枯れ草(離れ女・涸れめ・破れめ)、滝(多気・多情)、浮かれめ(根なし海草・浮かれ女)など、容易に想像することができる。或る親王が失せられて、小町はタガの外れた桶のように壊れ破れるほど、他の女たちから、そしられ、笑われたようである。
この歌は、『後撰和歌集』 雑四に「小町が孫」が作者としてある。
あだなる名たちていひさわがれけるころ、あるをとこ、ほのかにききて、あはれいかにととひ侍りければ、
(あだな噂が立って、言い騒がれていたころ、或る男、ちらっと聞いて、憐れ、どうしているかと問うたので)、
うき事をしのふる雨の下にして、わがぬれきぬはほせどかはかず
(憂きことを耐え忍んで、しとしと降る涙雨の下でして、我が濡衣、干しても乾かないの……君との・浮きことを偲び、しっとり降る吾めの下でして、わが濡れる身と心、ほしても乾かないのよ)。
言の戯れと言の心
詞書「あだな名…徒な評判…仇な噂…婀娜な噂…色っぽく艶めかしい評判」。
歌「しのふる…忍ぶる…偲ぶる…しとしと降る…びしょびしょに降る」「あめ…雨…吾め…女」。
知る人ぞ知る祖母小町の歌を、見ごとに自らの歌にしている。それも、あめ(天)の表記を雨に変えただけで、「しのふる」の意味も変わり、別の歌にリメイクされている。
『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり同じではない。
以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
古今集真名序には「彼の時、澆漓(軽薄な)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。
優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。
貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。
歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。