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帯とけの枕草子〔百九十〕島は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔百九十〕しまは
清げな姿
島は、八十島、浮島、戯れ島、絵島、松が浦島、豊浦の島、籬の島。
原文
しまは、やそしま。うきしま。たはれしま。ゑしま。まつがうらしま。とよらのしま。まがきのしま。
心におかしきところ
肢まは、八十しま、浮きしま、戯れしま、笑しま、女の心しま、豊らのしま、ま餓鬼のしま。
言の戯れと言の心
「しま…島…肢間…股魔…おんな・おとこ」「八十…多い…多情…八十歳」「浮き…浮かれ…憂き」「たはれ…戯れ」「ゑ…絵…笑」「まつ…松…女…待つ」「うら…浦…心」「とよ…豊…豊潤…豊か」「ら…状態を表わす」「まがき…籬…粗い垣根…魔餓鬼…渇き餓えたもの」。
「やそしま」は、古今和歌集の小野たかむら朝臣の歌では、次のように用いられてある。
隠岐の国に流されける時、船に乗りて出で発つとて、京なる人のもとに遣わしける
わたのはらやそしまかけてこぎでぬと 人にはつげよあまのつりふね
(海原を八十島かけて漕ぎ出したと、京の人には告げよ海人の釣り舟……腸の腹、多情の士間かけて・老婆の肢魔めかけて、こぎ出たと宮この女には告げよ、おんなの吊りふ根)。
「あまのつりふね…海人の釣り舟…おんなの小さな吊りふ根」「京…都…山ばの極み…感の極み…宮こ」。
歌の「心におかしきところ」から、はらわた吐き捨てるような男の「深き心」の声が聞こえるでしょうか。「清げな姿」からは、心を推し量ることは出来ない。
「たはれしま」は、伊勢物語の歌にある。
むかし、男、筑紫まで行ったときに、「これは、色好む好き者」と簾の内の女が言ったのを聞いて、「染河を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからん(あの・染川を渡る男がどうして色に染まらないことがあろうか・好き者なんて濡衣だよ)」というと、女、返し、
名にし負はばあだにぞあるべきたはれしま 浪の濡れ衣きるといふなり
(名に負わされているので、あだにぞあるべき戯れ島 浪の濡れ衣着ると言うなり……戯れしまと・名に付けられているのだから、あだに違いない戯れし間、無みの濡衣着ていると言訳け言っているよ)。
「あだ…徒…浮気な…中身が無い…はなかい」「たはれ…戯れ…ふざけ…淫れ」「しま…島…肢間…士間…おとこ」「なみ…浪…無み…無実」「ぬれぎぬ…無実の噂」。
「しま」を「島」と一義に聞く限り、歌からも物語からも、おかしさは聞こえてこない。
枕草子のこの章は、ただの島の名の羅列とは聞かないで、「しま」の戯れを知り、「島…肢間・肢魔…おとこ・おんな」と聞けば、しまの名が、それぞれに、それなりに「をかし」くなるでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。