帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(七十三)月のうちの桂のごとき君にぞありける

2016-06-29 19:06:59 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。やがて、清少納言や紫式部の「伊勢物語」読後感と一致する、正当な読みを見いだすことが出来るでしょう。



 伊勢物語
(七十三)月のうちの桂のごとき君にぞありける

 
 むかし(昔…若かった頃)、そこにはありときけと(其処には在りと聞いたけれど…息には・生きては、在りと聞いたけれど)、せうそこをだにいふべくもあらぬ(便りさえできそうにない…消息さえ・わが生き死にさえ、言えそうにない)女の身辺を思ったのだった。

 めには見て手にはとられぬ月のうちの 桂のごとききみにぞありける

 (目には見て手には取れない月の内の桂のような姫君だったなあ・雲をつかむような人だったなあ……女には、まだ見得て、手にはできない、おとこの・尽きのうちの、且つら・さらに又、のような、わが貴身だったなあ)

 

 貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る

 「せうそこ…消息…便り…安否…生き死に」「め…目…女…おんな」「見…覯…媾…まぐあい」「手に取る…思うままにする」「あたり…辺り…身辺…当たり…感触」「つきのうちのかつら…月に生えるという桂樹…高嶺の花以上の手の届かない存在…おとこの尽きのうちにあってなお且つという女の情態」「月…月人をとこ…突き…尽き」「かつら…桂…且つら…なおも又」「ら…状態を表す」。

 

 歌の清げな姿は、或る女人の事を述懐した。高根の花どころか、月の桂のような姫君だったなあ。我を捨て去って、女御になってしまった女人への愛憎は消えない。

 心におかしきところは、女の立場で詠まれてある。且つ又と求めても、尽きのうちに在る、わが貴身だったなあ。睦ましかった時の女の姿態を露わにするのは、下劣な嫌がらせで、愛憎の憎の部分である。それを、大淀の遊びめの次に置くとは、またまた、憎が煮えくり返ったようようである。


 (2016・6月、旧稿を全面改定しました)