「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

5・6歳(昭和22・3年)のころ   2

2010-12-02 | 日記
私の家が酒屋だったことはすでに書いているのだが、このころの我が家には、家事をする女中さんと、店の仕事を手伝う男の人(二十歳くらいだったかも)がいた。

女中さんは何かと世話を焼くのが好きだったようなのだが、私はこの女中さんが大嫌いでいつも逃げ回っており、結果として幼い弟が捕まってしまうのである。

このことが大きく影響したのだろう、私と弟の性格はかなり違っていて、一緒に遊んだ記憶は殆どなく、たまに一緒にいてもけんかになるのが落ちである。

書き忘れていたのだが、私が生まれた家は昭和20年の空襲で焼けてしまい、2キロほど離れたところにある、配給所を兼ねたお米屋さんが疎開して空き家になった家に住んでいたのだが、22年に疎開していたお米屋さんが戻ってくることになり、急遽100メートルほど離れたところに土地を見つけて引越しをすることになったのである。

この頃は未だ食糧難の時代で、今では想像も出来ないだろうが、「食糧の配給」と言うことが行われており、配給所を兼ねていた我が家は食べきれないほどの食料が山積みになっていたのである。

何故このようなことになるのかと言うと、配給される食料の中には「米軍の放出品」もかなり含まれており、「日本人の口に合わない」と言ったような理由で引き取られないものもかなりあったのである。

また、一部には「サクランボやパイナップルの缶詰」などもあったのだが、その大きさは「教務用サイズ(粉ミルクの缶と同じくらい)」もあり、「数軒に一缶では配給が難しい」と言った理由で残ることが多く、後に私たち兄弟が争って食べたことを覚えている。

ウインナーソーセージの缶詰も良く食べたのだが、一種類だけ誰も手をつけようとしなかった缶詰があり、最終的には、庭に大きな穴を掘って埋めたことを覚えている。

この「誰も手をつけなかった缶詰」は、「ジャガイモの缶詰」で、今思い出して見ると「ポテトサラダ」だったのではないだろうか。

置き場所に困って屋外に出していたため、一部の缶が錆びて穴が開き、中身が腐って悪臭を放つようになってしまい、仕方なく穴を掘って埋めたのであるが、穴の深さは3メートルくらい有ったのではないだろうか。

コメント
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