「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

小学6年(得意絶頂?)のころ    3

2010-12-24 | 日記
この年私は「健康優良児」として表彰される候補に上がるのだが、最終的には「体が小さすぎる」と言う理由ではずされるのである。

選考基準は正確にはわからないのだが、最低でも「三年間皆勤」であることが条件であったようで、私は「六年間皆勤」なのだから問題はなかったのだが、如何せん「体が小さかった」のである。

しかし、後になって聞いた話では「成績が優秀である」と言うことも条件にあったらしく、三年間皆勤でも候補に入らなかった子が結構いたそうである。

私が六年間皆勤だった理由には「父と母のいさかい」があったことも大きく影響しているだろう。

前にも書いたように、母は子供に余り関心がなく、私が風邪を引いても気が気に留める様子もなく、病院に連れて行ったもらうこともなかったのである。

5年の終わりのころだったと思うが、2ヶ月余りにわたって腰痛(今にして思えば椎間板ヘルニアだったと思うが)に悩まされていたときも気が付いてくれず、結局一日も休むことはなかったのである。

何しろ、踵をつくと腰に激痛が走り、殆ど爪先立ちで歩いていたのだが、結局医者に行くこともなく治ってしまったのである。

これが古傷として残っていたのだろうか、35歳を過ぎたころから毎年のように腰痛(ぎっくり腰に近い)に悩まされるようになるのだが、45歳くらいのころから「少年野球のコーチ」を始めると少しずつ良い方向に変化し、それ以後は余りひどい腰痛に悩まされることは少なくなりましたが・・・・。

私の体はかなり丈夫に出来ているようで、一歳のころ一度死に掛けたことがあるらしいのだが、それ以後は特別大きな病気もせず、風邪で寝込むようなことも殆ど無いのです。

「寝込むことはない」とは言っても、時には風邪で40度近い熱が出ることはあるのですが、中学2年のときはそのまま学校に行って先生に怒られ、会社勤めをするようになっても「発熱が原因で休んだことはない」のです。

これも、子供のころ病気になっても誰も心配してくれなかったことで「精神的に鍛えられた」と言うことが根底にあるのだろう。

「健康診断」は数年前に受けたきりだが、可能な限り「年2回の献血」は欠かさず、先週も献血をしている。

献血をするとある程度のことは調べてくれるので、「健康診断の代わり」と思って後1年半頑張るつもりでいる。

今回の結果は未だ届いていないのだが、今まで、血液成分、肝機能、コレステロール、・・・・など、どれをとっても「正常値」の中に納まっており、68と言う年齢を考えれば「非常に良好」と言えるのではないだろうか・・・・。
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小学6年(得意絶頂?)のころ    2

2010-12-24 | 日記
私が通っていた小学校は「コーラス(合唱)」でかなり有名だったようで、戦前には「全国学校音楽コンクール」で優勝したこともあり、音楽室にはその記念に買ったグランドピアノが有ったのである。

戦災で焼けてしまった学校も多く、当時グランドピアノが有る学校は少なかったようで、殆どがオルガンしかなかったそうであるが、この学校は幸いにも戦災に会わなかったのである。

当時の校長先生も熱心な方だったようで、毎日朝礼が始まる前、1年生から6年生まで全校生徒(1,000人余り)による「輪唱」が行われていたのである。

当然、5年になると「音楽コンクール」に参加するための「コーラス部員」が選ばれるのだが、私はそのメンバーに選ばれてしまうのである。

当時の私は人前で歌うのが非常に嫌いで、音楽の時間に歌わされるのは「拷問?」のように感じていたのだが・・・・。

5年のときは控えだったのでまだよかったのだが、6年になると大変である。

授業が終わった後の練習はまだしも、歩いて1時間余りのところにあるライバル校に遠征に行くこともあり、夏の暑い日などは泣きたくなったものである。

そして、区の代表を選ぶコンクールが「公会堂」で実施されるのである。

観客はおよそ1,000人である。

しかし、「極端な上がり症」の私である。

このような状態になると決まって「頭の中が真っ白になる」ため、ステージに上がったところまでは覚えていても、「歌っている最中のことは全く記憶にない」のである。

メンバーは40人近くいるのだから「一人くらい歌わないやつがいてもわからない」と思う人もいるだろうが、実は私「2番はソロで歌う」という役目を担っているのである。

つまり、2番は私独りで歌うのだから、ちゃんと歌っていなければ大変なことになるのである。

しかし・・・・。

こんな有様なのだから、「落選するのが当たり前」のはずなのに・・・・。

終わって見れば、ナント「区の代表に決定」してしまうのである。

次は「都の予選」で、ナント「日比谷公会堂」で歌わなくてはいけないのだ。

観客はおよそ「3,000人」だそうである。

この時もいつもと全く同じで、ステージに上がって整列したところまでは記憶にあるのだが・・・・。

次に記憶が戻るのは「歌い終わってステージから下りる階段の途中」で、その間の記憶はいつもどおり「全くない」のである。

この時もちゃんと歌っていたそうだが、さすがに「都の予選」は突破できなかった。

音楽の先生からも「よくがんばった!」と言われたのだが、自分としては全く覚えていないのだから困ったものである。

中学に入っても同様で、本人の意思など全くお構いなく、コーラス担当の先生によって「強制的にコーラス部員にされる」のである。

しかし、中学では「音楽コンクール」に参加するようなことは無かったようで、主に、「文化祭(早稲田祭と同時開催)」で歌うことが多く、時には、早稲田祭の余興として「大隈講堂」で歌わされたこともあるのだが・・・・。

しかし、この時も全く歌ったときの記憶が無く、このころの私のとって「人前で歌う」と言うことは「苦痛以外の何ものでもない」のである。
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