「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

小学5年のころ    5

2010-12-20 | 日記
ここで少し補足的?な話を書いておくことにしよう。

この頃は未だ「ガキ大将」と言う言葉がまかり通っていたのだが、このころの私はある意味で「ガキ大将」であったかもしれない。

この頃の小学校では、夏休み中は地区を区切って幾つかの「班」が決められ、その班長は6年生の役目だったのだが、私が5年の時の6年生は「めんどくさい」と言う理由で私にその責任を押し付けていたのである。

この結果、5年・6年と続けて班長をすることになってしまうのである。

一つの班は、1年生から6年生まで10人から15人くらいの編成で、上級生が下級生の面倒を見ることになっているのだが、実際は遊ぶことのほうが中心になっていたが、時には宿題の手伝いもしたものである。

宿題を手伝うと言っても、当時の「夏休みの宿題」と言えば「昆虫採集」はつき物で、私は「昆虫採集の名人」と言われ、珍しい昆虫も良く捕ったものである。

この頃の東京(中野区)は未だ畑も沢山残っており、河川の護岸も未整備なところが多かったので、昆虫採集も、ザリガニ・小鮒捕りも出来、今では全国的に絶滅が危惧される「タマムシ」さえ東京にいたのである。

テレビを持っている家庭など「全く無い」と言ってよい時代だったので、雨でも降らない限り「昼間家の中に居る」と言うことは無かった時代で、夜は「満天の星空」だったため、「流れ星」も良く見えたものである。

今ある便利な電化製品など殆ど無かった時代だが、子供たちが遊ぶ場所は屋外に沢山あったのである、が・・・・。

ここまで書いてある悲しいことを思い出した。

今は「消火栓」と言うものが整備されているのでわからないかもしれないが、当時はそのようなものは殆ど無く、火災が起きたときに備えて「防火用水(貯水槽)」と言うものがあちこちにあったのだが、「貯水槽」とは名ばかりで、実際は「池」といっても良い代物が多かった。

私の家の近くには「10メートル四方」のものがあったのだが、そこには小魚や金魚が住み、春にはオタマジャクシが生まれ、夏にはトンボのヤゴまで発生するため、立ち入れないように鉄条網の柵はあるのだが、その隙間から子供たちが入り込んでしまうのである。

その結果、毎年のように子供が1人2人と溺れて死ぬのである。

かく言う私も池に落ちたことがあるのだが、普段より水が少なかったためか、幸いにも溺れることなく助かりましたが、「余りにも危険だ!」と言う住民の声で、近所の別の場所に「地下貯水槽」を作ることが決まり、翌年には埋め立てられましたが・・・・。

今であれば「管理者の責任を追及する訴訟」が起こされるであろうが、この頃は「訴訟を起こす」などということは殆ど無かったようで、ある意味「のどかな時代」であったのかもしれない。

そして、この頃は校庭にある大きな木に登ることも良くあったのだが、当然?の話「落ちて怪我をする子もいる」のだが、木登りが禁止されることはもとより「先生が注意をする」と言うことも記憶にありません。

私も一度落ちて怪我をしましたが、この時も親が騒いだ記憶は全くないのです。
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