前回は「肝油」について書いたので、今回は「鯨のベーコン」「鯨肉」について少し書いてみる。
現在は日本の捕鯨が批判の的になっているのだが、敗戦後の疲弊した日本を救ったのは、「アメリカの食糧援助と鯨の肉」と言ってもよいのではないだろうか。
最近は余り鯨の肉を売っていないのだが、当時は非常に安く手に入る「動物性たんぱく質」として重要な位置を占めていたのである。
この頃は捕鯨に対する風当たりは「全く」と言ってよいほどなかったようで、大きな船団を組んで南氷洋まで鯨を捕りに行っていたのである。
鯨一頭で「牛数十頭分」にも匹敵する肉が得られ、しかも「エサが要らない」のだから、貧しい日本にとって鯨ほど有難い存在はなかったのではないだろうか。
今でこそ「鯨のベーコン」は高価(100グラム5,000円?)で非常に貴重な存在になっているが、私が子供の頃は「安物の代名詞」のような存在であった。
私の大好物で、良く近所の肉屋に買いに行かされたものだが、それは今のようにスライスさたものではなく、「1キロから2キロくらいの塊」だったのである。
今であれば「数万円」はするであろうが、当時は非常に安いものだったようで、私はおやつ代わりによく食べたものであるが、殆どが脂身なのに、豚のベーコンと違って「脂っこさを感じない」から不思議である。
そして、今考えると何とも贅沢な食べ方をしていたものである。
その「贅沢な食べ方」とは、大きな塊から厚さ5センチくらいに切り分けたものをそのまま丸かじりしていたもので、今ではとても出来ない相談である。
今なら「一度に数千円分を食べる」と言うようなもので、昔のように安価で食べられる時代が戻ってくることを願わずに入られないのだが・・・・。
さて、鯨の肉の方はどうだったかと言うと、肉質は牛肉と良く似ているが、味は少し淡白で、牛肉のような固い筋は殆ど無かったと思います。
私の家では、鯨の肉を拍子木状に切り、「とんかつソースで煮る」と言う料理が夕食のおかずに良く作られ、私の好物でもあったのだが、普通の家庭であれば、これが「お袋の味」になるのだろうが、残念ながら我が家では「姉の味」と言わなくてはならないのである。
次に良く作られたのが「竹輪の天麩羅」で、全般的に言うと「手の込んだ料理は殆ど無かった」のである。
何故このようなことになるかと言うと、前に一度書いているのだが、「母は料理を作るのが苦手(嫌い)」なために起きたことで、中学生と高校を卒業したばかりの姉たちが作っていた事を考えれば「仕方ない」と言うほかないだろう。
食べ物ついでにもい一つ書いておこう。
これも今では想像もつかない話だろうが、毎年秋になると「腹いっぱいマツタケを食べる」と言うことが良くあったのである。
火鉢(今で言うストーブ)を囲んで食べたのだから、火鉢があるのだから秋も遅い時期だったのだろうが、何処で手に入れてくるのか、子供の腕ほどもある大きなマツタケが沢山あり、無造作に裂いたものを火鉢(炭火)で焼き、醤油をつけて食べたものである。
当然、部屋中にマツタケの香りが充満し、2本も食べると子供の腹はいっぱいになるのであるが、これと正反対なのが「卵とバナナ」であろう。
年代は正確に思い出せないのだが、この当時「ラーメンが一杯30円」位であったのに対し、「バナナは一本30円」で、「卵は一個15円」だったのだから驚きであろう。
現在は日本の捕鯨が批判の的になっているのだが、敗戦後の疲弊した日本を救ったのは、「アメリカの食糧援助と鯨の肉」と言ってもよいのではないだろうか。
最近は余り鯨の肉を売っていないのだが、当時は非常に安く手に入る「動物性たんぱく質」として重要な位置を占めていたのである。
この頃は捕鯨に対する風当たりは「全く」と言ってよいほどなかったようで、大きな船団を組んで南氷洋まで鯨を捕りに行っていたのである。
鯨一頭で「牛数十頭分」にも匹敵する肉が得られ、しかも「エサが要らない」のだから、貧しい日本にとって鯨ほど有難い存在はなかったのではないだろうか。
今でこそ「鯨のベーコン」は高価(100グラム5,000円?)で非常に貴重な存在になっているが、私が子供の頃は「安物の代名詞」のような存在であった。
私の大好物で、良く近所の肉屋に買いに行かされたものだが、それは今のようにスライスさたものではなく、「1キロから2キロくらいの塊」だったのである。
今であれば「数万円」はするであろうが、当時は非常に安いものだったようで、私はおやつ代わりによく食べたものであるが、殆どが脂身なのに、豚のベーコンと違って「脂っこさを感じない」から不思議である。
そして、今考えると何とも贅沢な食べ方をしていたものである。
その「贅沢な食べ方」とは、大きな塊から厚さ5センチくらいに切り分けたものをそのまま丸かじりしていたもので、今ではとても出来ない相談である。
今なら「一度に数千円分を食べる」と言うようなもので、昔のように安価で食べられる時代が戻ってくることを願わずに入られないのだが・・・・。
さて、鯨の肉の方はどうだったかと言うと、肉質は牛肉と良く似ているが、味は少し淡白で、牛肉のような固い筋は殆ど無かったと思います。
私の家では、鯨の肉を拍子木状に切り、「とんかつソースで煮る」と言う料理が夕食のおかずに良く作られ、私の好物でもあったのだが、普通の家庭であれば、これが「お袋の味」になるのだろうが、残念ながら我が家では「姉の味」と言わなくてはならないのである。
次に良く作られたのが「竹輪の天麩羅」で、全般的に言うと「手の込んだ料理は殆ど無かった」のである。
何故このようなことになるかと言うと、前に一度書いているのだが、「母は料理を作るのが苦手(嫌い)」なために起きたことで、中学生と高校を卒業したばかりの姉たちが作っていた事を考えれば「仕方ない」と言うほかないだろう。
食べ物ついでにもい一つ書いておこう。
これも今では想像もつかない話だろうが、毎年秋になると「腹いっぱいマツタケを食べる」と言うことが良くあったのである。
火鉢(今で言うストーブ)を囲んで食べたのだから、火鉢があるのだから秋も遅い時期だったのだろうが、何処で手に入れてくるのか、子供の腕ほどもある大きなマツタケが沢山あり、無造作に裂いたものを火鉢(炭火)で焼き、醤油をつけて食べたものである。
当然、部屋中にマツタケの香りが充満し、2本も食べると子供の腹はいっぱいになるのであるが、これと正反対なのが「卵とバナナ」であろう。
年代は正確に思い出せないのだが、この当時「ラーメンが一杯30円」位であったのに対し、「バナナは一本30円」で、「卵は一個15円」だったのだから驚きであろう。