学校は歩いて3分くらいにところにあったのだが、近道?を通ると1分で行くことが出来た。
近道は私だけが通ることを許された?秘密の通路で、弟や妹は通ることが出来なかったのである。
秘密の通路は、裏の垣根の隙間から裏の家の庭に抜けるもので、裏の家は学校の前にあるので、遅れそうになったり、忘れ物を取りに帰る時によく通ったものである。
私だけが通ることを許された理由は、幼いころより私だけがその家に遊びに行っており、その家のお爺さんとお婆さんに可愛がられていたからで、弟や妹は一見怖そうなお爺さんと仲良くなれなかったからである。
このような訳で、私にとって裏の家は「自分の家同様」に思っていたようで、お爺さんたちも当たり前のこととして考えていたのだろう。
さて、今でも1年のときの担任の先生の顔は良く覚えているのだが、今で言うところの「イケメン」と言ったところだったのだが、アメリカに留学することが夢だったようで、授業中にもしばしばアメリカの話をしており、時には英語の歌を歌ったりダンスを踊ったりもしていて、当時の日本の先生としては「異色の存在(ある意味、かっこいい存在)」のように感じたものである。
このころの日本は未だ貧しかった時代で、授業中に写した写真などを見ると、「つぎはぎだらけの服」を着ていた子も珍しくなかったもので、私も殆どが古着を着て学校へ行っていたのである。
昭和24年、アメリカの援助で「学校給食」と言うものが始まったらしいのだが、学校給食についての記憶は全くなく、記憶にあるのは4年生になってからである。
1年のときの記憶はこの程度しか残っておらず、2年のときの記憶も余りないのだが、その中で一つだけ鮮明に覚えていることがある。
それは、2年の2学期に入ってからのことで、左足の土踏まずの奥に「原因不明の膿」がたまりはじめ、次第に歩くのが困難になってしまったのである。
病院で治療してもらってもよくならず、結局、冬休みの間に手術することになったのである。
麻酔をしたかどうか不明で、うつぶせに寝かされて足を押さえられていたのだが、メスで切られた瞬間は猛烈に痛くて泣き叫んだことを覚えている。
今であれば、切開したあとは「縫合」して終わるのだろうが、このときは縫合はせず「消毒用のガーゼ」が詰め込まれ、毎日だったか一日おきだったかは忘れたが「ガーゼを交換する」と言うことが何度かあったのだが、この交換のときもかなり痛かったことを覚えている。
傷口が完全にふさがっていないため、3学期に入っても学校に行ってはいけないと言われたのだが、私はそれを無視して学校に行ったのである。
このころは学校に行くことが楽しくてしょうがなかったようで、少しぐらい具合が悪くても学校へ行けば治ってしまい、小学校の6年間は「無遅刻無欠席」で通し、6年になって「健康優良児」の候補に挙がったのだが、結局「背が低い」と言う理由で候補からはずされてしまったのであるが・・・・。
さて、始めのうちは注意していたつもりでも所詮は子供である、休み時間遊びに夢中になり、気がつくと包帯が緩んでしまっていて、結局は傷口をドロだらけにしてしまったのである。
家に帰るとすぐに父が病院に連れて行ってくれたのだが、医者からは「こんなことをしていると化膿して足を切断するようになるかも・・・・」と脅かされたのだが、幸い?なことに「化膿もせず無事に完治」したのである。
今でも傷跡ははっきり残っており、一生忘れることはないであろう「強烈な思い出」なのである。
近道は私だけが通ることを許された?秘密の通路で、弟や妹は通ることが出来なかったのである。
秘密の通路は、裏の垣根の隙間から裏の家の庭に抜けるもので、裏の家は学校の前にあるので、遅れそうになったり、忘れ物を取りに帰る時によく通ったものである。
私だけが通ることを許された理由は、幼いころより私だけがその家に遊びに行っており、その家のお爺さんとお婆さんに可愛がられていたからで、弟や妹は一見怖そうなお爺さんと仲良くなれなかったからである。
このような訳で、私にとって裏の家は「自分の家同様」に思っていたようで、お爺さんたちも当たり前のこととして考えていたのだろう。
さて、今でも1年のときの担任の先生の顔は良く覚えているのだが、今で言うところの「イケメン」と言ったところだったのだが、アメリカに留学することが夢だったようで、授業中にもしばしばアメリカの話をしており、時には英語の歌を歌ったりダンスを踊ったりもしていて、当時の日本の先生としては「異色の存在(ある意味、かっこいい存在)」のように感じたものである。
このころの日本は未だ貧しかった時代で、授業中に写した写真などを見ると、「つぎはぎだらけの服」を着ていた子も珍しくなかったもので、私も殆どが古着を着て学校へ行っていたのである。
昭和24年、アメリカの援助で「学校給食」と言うものが始まったらしいのだが、学校給食についての記憶は全くなく、記憶にあるのは4年生になってからである。
1年のときの記憶はこの程度しか残っておらず、2年のときの記憶も余りないのだが、その中で一つだけ鮮明に覚えていることがある。
それは、2年の2学期に入ってからのことで、左足の土踏まずの奥に「原因不明の膿」がたまりはじめ、次第に歩くのが困難になってしまったのである。
病院で治療してもらってもよくならず、結局、冬休みの間に手術することになったのである。
麻酔をしたかどうか不明で、うつぶせに寝かされて足を押さえられていたのだが、メスで切られた瞬間は猛烈に痛くて泣き叫んだことを覚えている。
今であれば、切開したあとは「縫合」して終わるのだろうが、このときは縫合はせず「消毒用のガーゼ」が詰め込まれ、毎日だったか一日おきだったかは忘れたが「ガーゼを交換する」と言うことが何度かあったのだが、この交換のときもかなり痛かったことを覚えている。
傷口が完全にふさがっていないため、3学期に入っても学校に行ってはいけないと言われたのだが、私はそれを無視して学校に行ったのである。
このころは学校に行くことが楽しくてしょうがなかったようで、少しぐらい具合が悪くても学校へ行けば治ってしまい、小学校の6年間は「無遅刻無欠席」で通し、6年になって「健康優良児」の候補に挙がったのだが、結局「背が低い」と言う理由で候補からはずされてしまったのであるが・・・・。
さて、始めのうちは注意していたつもりでも所詮は子供である、休み時間遊びに夢中になり、気がつくと包帯が緩んでしまっていて、結局は傷口をドロだらけにしてしまったのである。
家に帰るとすぐに父が病院に連れて行ってくれたのだが、医者からは「こんなことをしていると化膿して足を切断するようになるかも・・・・」と脅かされたのだが、幸い?なことに「化膿もせず無事に完治」したのである。
今でも傷跡ははっきり残っており、一生忘れることはないであろう「強烈な思い出」なのである。