「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

小学1・2年(昭和24・5年)のころ

2010-12-06 | 日記
学校は歩いて3分くらいにところにあったのだが、近道?を通ると1分で行くことが出来た。

近道は私だけが通ることを許された?秘密の通路で、弟や妹は通ることが出来なかったのである。

秘密の通路は、裏の垣根の隙間から裏の家の庭に抜けるもので、裏の家は学校の前にあるので、遅れそうになったり、忘れ物を取りに帰る時によく通ったものである。

私だけが通ることを許された理由は、幼いころより私だけがその家に遊びに行っており、その家のお爺さんとお婆さんに可愛がられていたからで、弟や妹は一見怖そうなお爺さんと仲良くなれなかったからである。

このような訳で、私にとって裏の家は「自分の家同様」に思っていたようで、お爺さんたちも当たり前のこととして考えていたのだろう。

さて、今でも1年のときの担任の先生の顔は良く覚えているのだが、今で言うところの「イケメン」と言ったところだったのだが、アメリカに留学することが夢だったようで、授業中にもしばしばアメリカの話をしており、時には英語の歌を歌ったりダンスを踊ったりもしていて、当時の日本の先生としては「異色の存在(ある意味、かっこいい存在)」のように感じたものである。

このころの日本は未だ貧しかった時代で、授業中に写した写真などを見ると、「つぎはぎだらけの服」を着ていた子も珍しくなかったもので、私も殆どが古着を着て学校へ行っていたのである。

昭和24年、アメリカの援助で「学校給食」と言うものが始まったらしいのだが、学校給食についての記憶は全くなく、記憶にあるのは4年生になってからである。

1年のときの記憶はこの程度しか残っておらず、2年のときの記憶も余りないのだが、その中で一つだけ鮮明に覚えていることがある。

それは、2年の2学期に入ってからのことで、左足の土踏まずの奥に「原因不明の膿」がたまりはじめ、次第に歩くのが困難になってしまったのである。

病院で治療してもらってもよくならず、結局、冬休みの間に手術することになったのである。

麻酔をしたかどうか不明で、うつぶせに寝かされて足を押さえられていたのだが、メスで切られた瞬間は猛烈に痛くて泣き叫んだことを覚えている。

今であれば、切開したあとは「縫合」して終わるのだろうが、このときは縫合はせず「消毒用のガーゼ」が詰め込まれ、毎日だったか一日おきだったかは忘れたが「ガーゼを交換する」と言うことが何度かあったのだが、この交換のときもかなり痛かったことを覚えている。

傷口が完全にふさがっていないため、3学期に入っても学校に行ってはいけないと言われたのだが、私はそれを無視して学校に行ったのである。

このころは学校に行くことが楽しくてしょうがなかったようで、少しぐらい具合が悪くても学校へ行けば治ってしまい、小学校の6年間は「無遅刻無欠席」で通し、6年になって「健康優良児」の候補に挙がったのだが、結局「背が低い」と言う理由で候補からはずされてしまったのであるが・・・・。

さて、始めのうちは注意していたつもりでも所詮は子供である、休み時間遊びに夢中になり、気がつくと包帯が緩んでしまっていて、結局は傷口をドロだらけにしてしまったのである。

家に帰るとすぐに父が病院に連れて行ってくれたのだが、医者からは「こんなことをしていると化膿して足を切断するようになるかも・・・・」と脅かされたのだが、幸い?なことに「化膿もせず無事に完治」したのである。

今でも傷跡ははっきり残っており、一生忘れることはないであろう「強烈な思い出」なのである。
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昭和24年   小学校に入学する

2010-12-06 | 日記
昭和24年4月、私は小学校に入学をしたのだが、その日私は非常に恥ずかしい思いをしたことを今でも鮮明に覚えている。

「非常に恥ずかしいこと」とは、それまで姉たちと一緒に遊ぶことが多かったことから、自分のことを「ワタシ」と言っており、入学式の後皆から笑われてしまったのである。

それまで殆ど年上(姉たちの同級生)の女の子と一緒にいたため、自然に自分のことを「ワタシ」と言っていたのです。

親も特別何も言わないのでそれが当たり前だと思っていたのだが、入学式の後突然からかわれ、いわば「半べそ」で帰ってきたのである。

今思い出しても「赤面」の思いだが、この頃の私は「ひ弱な弱虫」だったのである。

そして、入学式の翌日、悲しい出来事が起きるのである。

「悲しい出来事」、それは、近所に住む1歳年下の可愛い男の子が「疫痢」で突然死んでしまったのである。

姉たちが学校に行っていて居ない時によく遊んだもので、突然の死にショックを受けてことを覚えている。

この頃は今ほど医療が充実しておらず、今なら助かるような病気で死ぬ人も多かったのだが、貧しいがために医者にかかれず死ぬ人も多かったようである。

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