「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

小学3年(昭和26年)のころ

2010-12-07 | 日記
半世紀近く経ってから真相が判明したのだが、この年は私にとって「大きなターニングポイント」となった年なのであるが、実際にはこのころの記憶は殆ど残っていないのである。

学校で写した写真を見ても殆ど思い出せず、先生の顔さえ殆ど記憶に残っていないのである。

普通は写真を見れば思い出すことが多いだろうが、1年・2年の時の担任の先生はすぐに思い出せるのに「何故か3年のときの先生だけ思い出せない」のである。

唯一記憶にあるのは、「児童の数が多すぎて教室が足りない」と言う理由から、午前と午後で違う児童が学習する「二部授業」だったことくらいで、言わば「空白の一年」と言った感じなのである。

半世紀近く経って偶然わかったことは、このころ父と母の間では「激しい諍い」が起きていて、このとき母が言った言葉で「父の人格が破壊された」のだそうである。

このことがわかったのは「全くの偶然」からのことで、たまたま訪れた場所で「父方のお祖母さんの実家の人」と出会ったことがきっかけになっているのである。

父方のお祖母さんは、私の人格形成にも大きくかかわっていた人で、行儀作法には厳しいが、それ以外では非常に優しい人で、このお祖母さんの悪口を言う人を私は見たことが有りません。

私には特に優しかったのだが、父と母の諍いで私が泣かされていたことを知っていて優しくしてくれていたのだと言うことを後になって知るのです。

父と母の諍いの原因は「7人目の子供を作る、作らない」と言うことが原因で、この諍いの最中に言った母の一言で「父の人格が破壊された」そうなのだが、どのようなことを言ったのかは教えてもらえなかった。

「無類の子供好き」の父に対し、母は「子供が嫌い?」なのだから何を言ったのかはおよそ想像もつくが、そのようなことで人格が破壊されるような父も父である。

これを裏付けるようなことが後年起きている。

下の姉が二人目の子供を出産してまもなくのことだが、子育てと家事、店(酒屋)の仕事が重なり、過労から肝臓を悪くして長期の入院を余儀なくされたときのことである。

生後間もない幼児を残して入院するわけにもゆかず、入院中はお祖父さん(父)が引き取って世話をすることになったのだが、父にすれば「毎日孫の世話が出来て大喜び」と言ったところなのだが、母にとっては「迷惑この上ない」と言ったところだったのだろう。

私も時折様子を見に行っていたのだが、1ヶ月くらい経ったころだったろうか、父のいないところで母が「あたしゃ子供なんて嫌いなんだが、おじいさんが喜んでいるから我慢しているんだよ!」と言っていたことを覚えている。

このような事実があったことがわかってからは理解できたのだが、それ以前は「何故3年生のときの記憶だけが抜け落ちているのだろうか?」と不思議でしょうがなかったのである。
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