「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

5・6歳(昭和22・3年)のころ   3

2010-12-05 | 日記
実際はもう少し後だったかも知れないのだが、今ではとても経験できないような思い出が私にはある。

父の生まれた家は高崎線の「鴻巣」と言う駅から歩いて40分くらいのところにあり、年に2・3回だったろうか、よく父に連れられて行った事を覚えている。

今で言う、京浜東北線の赤羽駅から列車(電車では有りません)に乗るのだが、その頃は戦争で客車の多くが破壊されて失われていたため、少ない客車は「超満員」と言った感じで、客車に乗ることが出来ないこともよくあったのである。

この頃は、客車不足を補うため「ワム型有蓋貨物車両(屋根のついた箱型の貨物を運ぶ車両)」を客車の代用として使っており、2度その車両に乗った覚えがある。

しかし、この「トム型有蓋貨物車両」、ナント「入り口の扉がない」のである。

戦争で失われてなかったのか、取り外されてなかったのかはわからないが、転落防止のためのロープが1本張られているだけで、今ではとても考えられないような有様であった。

そして、タッタ1回ではあるが「トム型無蓋貨物車両(石炭や鉱石などを運ぶ屋根のない貨物車両)」に乗ったこともあるのである。

「乗ったことがある」と書いたのだが、実際は、「駅員の警告を無視」して無理やり乗ったように記憶しているが、当時は客車の後に貨物が連結されていたことも多く(機関車が少なかったのだろう)、ある意味「貴重な体験が出来た」と言ってもよいだろう。

季節ははっきり記憶していないが、たぶん天気の良い日だったのだろう。

駅員の目を盗んで先に上がった父に手を引かれて上に上がったのだが、折悪しく?駅員に見つかってしまったのだ、が・・・・。

そのとき、幸運?と言うのもおかしいが、そんな騒ぎが起きているとも知らずに列車は発車してしまったのである。

おかげで、めったにできないような経験が出来、子供心には非常に楽しかったように記憶している。

実際は私たち以外にも乗っていた人がいて、当時はそれほど珍しいことでもなかったのだろう。

今ではとても想像も出来ないことであろうが、このころの日本は、今では当たり前のようにある便利な電化製品など全く無かった時代で、「ラジオさえ無い」と言う家も珍しくなかったのです。

「ラジオさえ無い?」と思われる方も多いだろうが、当時のラジオは非常に高価だったようで、今で言うところの「大型テレビ」と同じような存在だったのではないだろうか。

しかし、「物質的・金銭的」には貧しかった時代ではあるが、今のように、物質的・金銭的には豊かだが「無味乾燥な時代」ではなかったように思うのだが・・・・。
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