「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

小学5年のころ   2

2010-12-15 | 日記
この頃の庶民の生活がどんなものだったか知らない人が多くなっているので少し書いてみることにしよう。

私が5年生になる少し前(昭和28年2月1日)に、日本で始めてテレビ放送が始まったのである。

初期に売り出されたテレビ受像機(白黒で14インチ)は「20万円から30万円」だったようで、当時の郵便貯金の預け入れ限度額が「10万円」だったことを考えると、とても庶民が手に入れられるような代物ではなかったのである。

このため、今ではとても想像出来ないだろうが、「街頭テレビ」と言うものが主要な駅の広場に設置され、その周りには人だかりが出来たものである。

「街頭テレビって何?」と思うだろうが、駅前の広場などにテレビが設置されていたのだが、高さは3メートルくらいだったろうか、柱のようなものの上に取り付けられており、大勢の人が集まって見ていたのである。

テレビには雨が当たらないようになってはいたが、見る側には屋根もなく、雨の日は傘をさして見ていたのである。

私もよく見に行ったものだが、まもなく近所の一人暮らしのおばあさんが買ったのでよく見せてもらったものである。

私はもともとこのおばあさんに可愛がられていたこともあり、私だけが特別に見せてもらえたのである。

しかし・・・・。

その少し後(半年くらいだっただろうか)、突然我が家にテレビがやってくるのである。

まさに「突然」の出来事なのだが、それは、ある酒造会社が販売促進のためにテレビを景品にした「三角クジ」を付けていたのだが、販売期限切れで売れ残った中に「特賞(テレビ)のクジ」があったのである。

この頃は少し値段も下がっていたのだが、それでも「14万9千円」と言う値札がついていたことを今でも覚えています。

これでもサラリーマンの年収に匹敵(それ以上かも)するくらいだったのですから、如何に高価だったかがわかるでしょう。

しかし、この後大変な騒ぎが起きるのです。

この頃は力道山を中心とした「プロレス」が非常な人気を得ていて、私の家が酒屋であることから「放送時間前になると近所のお得意さん数十人が集まってくる」と言うことになるのです。

商売柄断ることなどとても出来るはずもなく、テレビが置いてある部屋は人であふれかえるのである。

初めは私も一緒になって見ていたのだが、徐々にある疑問が湧き出し、「プロレスは見世物(ショー)」だと言うことがわかり、急速に興味を失ってしまい、それ以後は見る気がしなくなってしまった。

コメント
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