「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

小学5年のころ   1

2010-12-13 | 日記
この年の秋、何がきっかけになったのかは思い出せないのだが、私は突然「俺は早稲田に行く」と宣言したのである。

理由はいたって簡単で、野球が好きだった私は、当時野球が強かった早稲田大学に憧れただけのことで、それ以外に理由は何も無いのであるが・・・・。

今にして思えば「私が早稲田を選んだことは必然的なこと」だったように思えてならないのだが・・・・。

学校以外のことでも、私が好きになるようなことには「それなりの必然性」と言うものがあるようで、始めは何となく好きになったものが、後で考えると「なるほど」とうなずけることがよくあるのです。

このことは後々折に触れて書くことにするので、今は省略します。

早稲田に行くことを宣言したとき父は居なかったのだが、後で聞いた話では「非常に喜んでいた」らしく、このころから少しではあるが「私への風当たりが弱くなった」ように感じる。

そして、私が早稲田に行くことを宣言したことで母からある提案が出されたのであるが、その提案とは、当時の小学校では「今で言うところの、統一テスト」に当たる「標準テスト」と言うものがしばしば実施されていたのだが、このテストで「90点以上なら5円、95点以上なら10円」のご褒美がもらえると言うのである。

この標準テストだが、今ではとても信じられないと思うようなことが極当たり前に行われていたのであるが、それは、採点されて返却された答案用紙には、「参加した生徒(数万人だったか数十万人だったか忘れたが)の中の順位」までもが記載されていたのである。

今なら大騒ぎになるであろうが、当時はこの程度のことで騒ぐ人は余りいなかったようで、私はこのご褒美目当てにがんばったものである。

そして、この事がきっかけになって、それまで余り目だたなかった成績が急上昇するのである。

今の人には「5円と言うお金の値打ち」が実感できないだろうが、この頃の5円は「現在の100円以上」の値打ちがあり、1円どころか「五十銭硬貨(紙幣もあったが)」でお菓子を買うことも出来た時代なのです。

参考までに、1952年(昭和27年)4月(私が4年になった年であるが)時点の「郵便貯金の預け入れ限度額」が「10万円」だったことを参考に考えると想像出来るのではないだろうか。

最近では「2,000万円」に引き上げることが検討されていることを考えると、まさに「隔世の感」と言うほかないだろう。

弟や妹も同じように貰える事になっていたのだが、残念ながら何時も点数が足らず、殆ど貰うことが出来なかったのであるが、自分の努力不足を棚に上げて「お兄ちゃんばかりずるい!」と文句ばかり言っていたことを今でも思い出すのである。
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小学4年のころ    2

2010-12-11 | 日記
新たな問題は、父の怒りの矛先が私に向いていたために起きてきた問題で、始めは弟一人だったのだが、徐々に妹も加わるようになってくるのである。

2年のころまでは優しかった父が、前回書いたことが原因で「別人」のように変わってしまい、家にいる時間は「恐怖の時間」に変わってしまったのであるが、このことを弟や妹が巧妙に利用するようになってしまったのである。

弟や妹は、自分の思いどうりにならないと、うそ泣きをして父に「お兄ちゃんが・・・・!」と一言父に訴えればいいのである。

そうすれば、理由など全く関係なく、私は「いきなり飛んできた父に殴られる」のである。

このため、極力昼間は家にいないようにするのだが、居なければ居ないでまた別な問題が起きてくるのである。

このころの我が家では、「酒屋」と言う商売柄、企業が景品用として作った「商品名の書かれた鉛筆」と言うものが沢山有り、普段使う鉛筆には困らなかったのだが、私はその鉛筆が好きになれず、自分のお小遣いで「トンボ鉛筆」を買っていたのだが、弟や妹は私が居ない隙に盗んで行くのである。

当然私は取り戻しに行くのだが、私が取り戻すと妹は「お兄ちゃんが私の鉛筆をとったーーーー!」と泣き叫ぶのであるが、こればかりは妹が盗んだことが明白なため、自分の言い分が通らないと見るや「廊下に落ちていた」などと言う見え透いたウソを並べたてるのである。

消しゴムもまたしかりで、常に私の物が狙われていたのである。

正月にもらうお年玉を盗まれたこともあるのだが、私はこの事をきっかけに「使わないお金は郵便局に貯金する」ようになるのであるが、私が6年(妹は2年)になった頃だったと思うが、ナント、妹が私の通帳と印鑑を持ち出して郵便局にお金をおろしに行ったのである。

このときは窓口の人が受け付けなかったので被害はなかったのだが、通帳と印鑑はどこかに捨てられてしまったのです。

このことは局の人から聞いてはじめてわかったことで、すぐには通帳と印鑑がなくなっていることに気がつかなかったのです。

これ以外にも数多くの問題が起きているのですが、書くのが面倒なので省略します。

しかし、後になって考えると「妹のおかげで貯金をする習慣がついた」と言うこともあり、その後の人生で大いに役立ってはいるのだが・・・・。

たぶん、貯金をする習慣がついていなかったら「今の自分は無い」のではないだろうか。

或る意味「災い転じて福となす」を地で行っているのかも・・・・。
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小学4年のころ    1

2010-12-09 | 日記
4年生のときの担任の先生は優しい女の先生で、ピアノが上手だったことを覚えている。

生徒たちに人気があった先生で、電車を乗り継いで1時間くらいのところにある先生の家に、日曜日に友達10人余りと2度遊びに行ったこともあるほどで、近ければもっと行っていたでしょう。

しかし、次の年にはよその学校に転勤が決まっていて、終業式が終わった後私たちクラスのみんなを音楽室に呼んで、最後のお別れにと「エリーゼのために」を弾いてくれたのだが、この時の感動がきっかけとなって「クラシック音楽」に興味を持つようになったのである。

このときの感動は非常に強烈で、今でも「エリーゼのために」を聞くたびに先生の顔(初代コロンビアローズに似いています)を思い出すほどです。

このように、学校での生活は楽しいことだらけだったのだが・・・・。

しかし・・・・、このころからである、以前は優しかったはずの父が、夜私が寝る頃になると酒を飲んで荒れはじめるのである。

始めは母を相手に怒鳴っているのだが、余程母の対応が気に入らなかったのだろうか、「お祖父さん(母の父)の生まれ変わり」と言われていた私にその矛先が向かってくるのである。

寝ている布団の中から突然引きずる出され「殴られたり蹴られたりする」のである。

私にすれば何がなんだかさっぱりわからず、ただひたすら「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と謝るのだが、ひとたび怒り出すとどうしようもなく、じっと嵐が収まるのを待つしかなかったのである。

一般的な母親であれば、このような状態になると「身を挺して子供を守る」と言う行動を取るのだろうが、私の母は殆ど助けてはくれなかったのである。

一度は雪の降る庭に放り出されたこともあるのだが、そのときでさえ助けてくれようとはせず、このときは見かねた上の姉が助けてくれたことを覚えている。

「そんな馬鹿な!」と思う人が殆どだろうが、前回書き忘れていたのだが、親戚から聞いた話の中には「私は子供なんか欲しくなかったのに無理に生まされた」と言っていたと言う事実から考えれば「当然?」のことなのかもしれないが・・・・。

母は食事を造ることも嫌いだったようで、このころは、上の姉は高校を卒業して店を手伝い始めており、下の姉も中学2年になっていて、2人で食事を作っていたようであるが、このことも父にとっては面白くないことだったようである。

このことからわかるように、我が家には「お袋の味」と言うものは存在せず、強いて言うなら「姉たちの味」と言うべきかも知れないだろう。

そして、このころからまた新たな問題が起きてくるのである。
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小学3年(昭和26年)のころ

2010-12-07 | 日記
半世紀近く経ってから真相が判明したのだが、この年は私にとって「大きなターニングポイント」となった年なのであるが、実際にはこのころの記憶は殆ど残っていないのである。

学校で写した写真を見ても殆ど思い出せず、先生の顔さえ殆ど記憶に残っていないのである。

普通は写真を見れば思い出すことが多いだろうが、1年・2年の時の担任の先生はすぐに思い出せるのに「何故か3年のときの先生だけ思い出せない」のである。

唯一記憶にあるのは、「児童の数が多すぎて教室が足りない」と言う理由から、午前と午後で違う児童が学習する「二部授業」だったことくらいで、言わば「空白の一年」と言った感じなのである。

半世紀近く経って偶然わかったことは、このころ父と母の間では「激しい諍い」が起きていて、このとき母が言った言葉で「父の人格が破壊された」のだそうである。

このことがわかったのは「全くの偶然」からのことで、たまたま訪れた場所で「父方のお祖母さんの実家の人」と出会ったことがきっかけになっているのである。

父方のお祖母さんは、私の人格形成にも大きくかかわっていた人で、行儀作法には厳しいが、それ以外では非常に優しい人で、このお祖母さんの悪口を言う人を私は見たことが有りません。

私には特に優しかったのだが、父と母の諍いで私が泣かされていたことを知っていて優しくしてくれていたのだと言うことを後になって知るのです。

父と母の諍いの原因は「7人目の子供を作る、作らない」と言うことが原因で、この諍いの最中に言った母の一言で「父の人格が破壊された」そうなのだが、どのようなことを言ったのかは教えてもらえなかった。

「無類の子供好き」の父に対し、母は「子供が嫌い?」なのだから何を言ったのかはおよそ想像もつくが、そのようなことで人格が破壊されるような父も父である。

これを裏付けるようなことが後年起きている。

下の姉が二人目の子供を出産してまもなくのことだが、子育てと家事、店(酒屋)の仕事が重なり、過労から肝臓を悪くして長期の入院を余儀なくされたときのことである。

生後間もない幼児を残して入院するわけにもゆかず、入院中はお祖父さん(父)が引き取って世話をすることになったのだが、父にすれば「毎日孫の世話が出来て大喜び」と言ったところなのだが、母にとっては「迷惑この上ない」と言ったところだったのだろう。

私も時折様子を見に行っていたのだが、1ヶ月くらい経ったころだったろうか、父のいないところで母が「あたしゃ子供なんて嫌いなんだが、おじいさんが喜んでいるから我慢しているんだよ!」と言っていたことを覚えている。

このような事実があったことがわかってからは理解できたのだが、それ以前は「何故3年生のときの記憶だけが抜け落ちているのだろうか?」と不思議でしょうがなかったのである。
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小学1・2年(昭和24・5年)のころ

2010-12-06 | 日記
学校は歩いて3分くらいにところにあったのだが、近道?を通ると1分で行くことが出来た。

近道は私だけが通ることを許された?秘密の通路で、弟や妹は通ることが出来なかったのである。

秘密の通路は、裏の垣根の隙間から裏の家の庭に抜けるもので、裏の家は学校の前にあるので、遅れそうになったり、忘れ物を取りに帰る時によく通ったものである。

私だけが通ることを許された理由は、幼いころより私だけがその家に遊びに行っており、その家のお爺さんとお婆さんに可愛がられていたからで、弟や妹は一見怖そうなお爺さんと仲良くなれなかったからである。

このような訳で、私にとって裏の家は「自分の家同様」に思っていたようで、お爺さんたちも当たり前のこととして考えていたのだろう。

さて、今でも1年のときの担任の先生の顔は良く覚えているのだが、今で言うところの「イケメン」と言ったところだったのだが、アメリカに留学することが夢だったようで、授業中にもしばしばアメリカの話をしており、時には英語の歌を歌ったりダンスを踊ったりもしていて、当時の日本の先生としては「異色の存在(ある意味、かっこいい存在)」のように感じたものである。

このころの日本は未だ貧しかった時代で、授業中に写した写真などを見ると、「つぎはぎだらけの服」を着ていた子も珍しくなかったもので、私も殆どが古着を着て学校へ行っていたのである。

昭和24年、アメリカの援助で「学校給食」と言うものが始まったらしいのだが、学校給食についての記憶は全くなく、記憶にあるのは4年生になってからである。

1年のときの記憶はこの程度しか残っておらず、2年のときの記憶も余りないのだが、その中で一つだけ鮮明に覚えていることがある。

それは、2年の2学期に入ってからのことで、左足の土踏まずの奥に「原因不明の膿」がたまりはじめ、次第に歩くのが困難になってしまったのである。

病院で治療してもらってもよくならず、結局、冬休みの間に手術することになったのである。

麻酔をしたかどうか不明で、うつぶせに寝かされて足を押さえられていたのだが、メスで切られた瞬間は猛烈に痛くて泣き叫んだことを覚えている。

今であれば、切開したあとは「縫合」して終わるのだろうが、このときは縫合はせず「消毒用のガーゼ」が詰め込まれ、毎日だったか一日おきだったかは忘れたが「ガーゼを交換する」と言うことが何度かあったのだが、この交換のときもかなり痛かったことを覚えている。

傷口が完全にふさがっていないため、3学期に入っても学校に行ってはいけないと言われたのだが、私はそれを無視して学校に行ったのである。

このころは学校に行くことが楽しくてしょうがなかったようで、少しぐらい具合が悪くても学校へ行けば治ってしまい、小学校の6年間は「無遅刻無欠席」で通し、6年になって「健康優良児」の候補に挙がったのだが、結局「背が低い」と言う理由で候補からはずされてしまったのであるが・・・・。

さて、始めのうちは注意していたつもりでも所詮は子供である、休み時間遊びに夢中になり、気がつくと包帯が緩んでしまっていて、結局は傷口をドロだらけにしてしまったのである。

家に帰るとすぐに父が病院に連れて行ってくれたのだが、医者からは「こんなことをしていると化膿して足を切断するようになるかも・・・・」と脅かされたのだが、幸い?なことに「化膿もせず無事に完治」したのである。

今でも傷跡ははっきり残っており、一生忘れることはないであろう「強烈な思い出」なのである。
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昭和24年   小学校に入学する

2010-12-06 | 日記
昭和24年4月、私は小学校に入学をしたのだが、その日私は非常に恥ずかしい思いをしたことを今でも鮮明に覚えている。

「非常に恥ずかしいこと」とは、それまで姉たちと一緒に遊ぶことが多かったことから、自分のことを「ワタシ」と言っており、入学式の後皆から笑われてしまったのである。

それまで殆ど年上(姉たちの同級生)の女の子と一緒にいたため、自然に自分のことを「ワタシ」と言っていたのです。

親も特別何も言わないのでそれが当たり前だと思っていたのだが、入学式の後突然からかわれ、いわば「半べそ」で帰ってきたのである。

今思い出しても「赤面」の思いだが、この頃の私は「ひ弱な弱虫」だったのである。

そして、入学式の翌日、悲しい出来事が起きるのである。

「悲しい出来事」、それは、近所に住む1歳年下の可愛い男の子が「疫痢」で突然死んでしまったのである。

姉たちが学校に行っていて居ない時によく遊んだもので、突然の死にショックを受けてことを覚えている。

この頃は今ほど医療が充実しておらず、今なら助かるような病気で死ぬ人も多かったのだが、貧しいがために医者にかかれず死ぬ人も多かったようである。

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5・6歳(昭和22・3年)のころ   3

2010-12-05 | 日記
実際はもう少し後だったかも知れないのだが、今ではとても経験できないような思い出が私にはある。

父の生まれた家は高崎線の「鴻巣」と言う駅から歩いて40分くらいのところにあり、年に2・3回だったろうか、よく父に連れられて行った事を覚えている。

今で言う、京浜東北線の赤羽駅から列車(電車では有りません)に乗るのだが、その頃は戦争で客車の多くが破壊されて失われていたため、少ない客車は「超満員」と言った感じで、客車に乗ることが出来ないこともよくあったのである。

この頃は、客車不足を補うため「ワム型有蓋貨物車両(屋根のついた箱型の貨物を運ぶ車両)」を客車の代用として使っており、2度その車両に乗った覚えがある。

しかし、この「トム型有蓋貨物車両」、ナント「入り口の扉がない」のである。

戦争で失われてなかったのか、取り外されてなかったのかはわからないが、転落防止のためのロープが1本張られているだけで、今ではとても考えられないような有様であった。

そして、タッタ1回ではあるが「トム型無蓋貨物車両(石炭や鉱石などを運ぶ屋根のない貨物車両)」に乗ったこともあるのである。

「乗ったことがある」と書いたのだが、実際は、「駅員の警告を無視」して無理やり乗ったように記憶しているが、当時は客車の後に貨物が連結されていたことも多く(機関車が少なかったのだろう)、ある意味「貴重な体験が出来た」と言ってもよいだろう。

季節ははっきり記憶していないが、たぶん天気の良い日だったのだろう。

駅員の目を盗んで先に上がった父に手を引かれて上に上がったのだが、折悪しく?駅員に見つかってしまったのだ、が・・・・。

そのとき、幸運?と言うのもおかしいが、そんな騒ぎが起きているとも知らずに列車は発車してしまったのである。

おかげで、めったにできないような経験が出来、子供心には非常に楽しかったように記憶している。

実際は私たち以外にも乗っていた人がいて、当時はそれほど珍しいことでもなかったのだろう。

今ではとても想像も出来ないことであろうが、このころの日本は、今では当たり前のようにある便利な電化製品など全く無かった時代で、「ラジオさえ無い」と言う家も珍しくなかったのです。

「ラジオさえ無い?」と思われる方も多いだろうが、当時のラジオは非常に高価だったようで、今で言うところの「大型テレビ」と同じような存在だったのではないだろうか。

しかし、「物質的・金銭的」には貧しかった時代ではあるが、今のように、物質的・金銭的には豊かだが「無味乾燥な時代」ではなかったように思うのだが・・・・。
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5・6歳(昭和22・3年)のころ   2

2010-12-02 | 日記
私の家が酒屋だったことはすでに書いているのだが、このころの我が家には、家事をする女中さんと、店の仕事を手伝う男の人(二十歳くらいだったかも)がいた。

女中さんは何かと世話を焼くのが好きだったようなのだが、私はこの女中さんが大嫌いでいつも逃げ回っており、結果として幼い弟が捕まってしまうのである。

このことが大きく影響したのだろう、私と弟の性格はかなり違っていて、一緒に遊んだ記憶は殆どなく、たまに一緒にいてもけんかになるのが落ちである。

書き忘れていたのだが、私が生まれた家は昭和20年の空襲で焼けてしまい、2キロほど離れたところにある、配給所を兼ねたお米屋さんが疎開して空き家になった家に住んでいたのだが、22年に疎開していたお米屋さんが戻ってくることになり、急遽100メートルほど離れたところに土地を見つけて引越しをすることになったのである。

この頃は未だ食糧難の時代で、今では想像も出来ないだろうが、「食糧の配給」と言うことが行われており、配給所を兼ねていた我が家は食べきれないほどの食料が山積みになっていたのである。

何故このようなことになるのかと言うと、配給される食料の中には「米軍の放出品」もかなり含まれており、「日本人の口に合わない」と言ったような理由で引き取られないものもかなりあったのである。

また、一部には「サクランボやパイナップルの缶詰」などもあったのだが、その大きさは「教務用サイズ(粉ミルクの缶と同じくらい)」もあり、「数軒に一缶では配給が難しい」と言った理由で残ることが多く、後に私たち兄弟が争って食べたことを覚えている。

ウインナーソーセージの缶詰も良く食べたのだが、一種類だけ誰も手をつけようとしなかった缶詰があり、最終的には、庭に大きな穴を掘って埋めたことを覚えている。

この「誰も手をつけなかった缶詰」は、「ジャガイモの缶詰」で、今思い出して見ると「ポテトサラダ」だったのではないだろうか。

置き場所に困って屋外に出していたため、一部の缶が錆びて穴が開き、中身が腐って悪臭を放つようになってしまい、仕方なく穴を掘って埋めたのであるが、穴の深さは3メートルくらい有ったのではないだろうか。

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5・6歳(昭和22・3年)のころ   1

2010-12-01 | 日記
私は6人兄弟の長男であるが、上には2人の姉がいる。

上の姉は私と9歳違いで、下の姉とは4歳違う。

下は、2歳違いの弟と、4歳違いの妹、6歳違いの弟である。

5・6歳のころまでは、外に遊びに行くときは殆どが姉たちと一緒だったそうで、小学校に上がるまでは自分のことを「わたし」と言っていたようで、小学校の入学式の日に皆から「男の癖にわたしと言っている」とからかわれて恥ずかしい思いをしたことを今でもよく覚えている。

このように、普段の遊び相手が年上の女の子だったせいか、私自身は非常に弱虫だったようである。

5歳の頃だったと思うのだが、子供の足で歩いて10分くらいのところに出来た幼稚園に無理やり入れられたことを覚えている。

キリスト教の教会の中にある幼稚園で、初めて行った日に見た神父さんが怖くて「行くのはいやだーーー!」と散々駄々をこねたのだが、父に自転車の荷台に乗せられて無理やり送り届けられたのであるが・・・・。

結果は、1時間くらいは我慢していたように記憶しているのだが、その後じきに逃げ出して家に帰ってしまい、1週間後には父もあきらめたようで、その後はどこの幼稚園にも行っていないのである。

そして、この頃の父は実にやさしい父親だったようで、私も結構いたずらをしたことを覚えているのだが、いくらいたずらをしても怒られた記憶はまったくないのである。

また、この頃の私は「逆さまつげ」だったようで、何度も自転車で目医者に通ったことを覚えており、更には、足の親指に「魚の目」が出来たことも有るのだが、父が一生懸命カミソリで削ってくれたことも覚えているが、この頃に父は実に優しかったのである。

ついでに言うなら、この頃近所の悪ガキ(中学生くらい)にタバコを無理やり吸わされた事があり、猛烈にむせたいやな記憶がある。

この事も一つの原因となってタバコを好きになれなかったのだが、それ以上に大きな要因が別にあるのである。

当時(今でもそうだろうが)、中学生になる頃には、背伸びをして「大人の真似」「大人に見てもらいたい」といったような理由でタバコを吸い始めるガキが多かったのだが、私は「タバコを吸っても大人にはなれない、タバコを吸って大人になれるのなら俺も吸うよ」と言って相手にはしなかったのであるが・・・・。

当時の私は「とっちゃん坊や」と言うあだ名がついていたように、同級生といると常に年上に見られていたため「無理に背伸びをする必要がなかった」と言う事も大きな要因になっているだろう。
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