今夏も 日本の終戦の日 が来ました。
66回目。
小さな頃は、8月15日は世界でみんなが、
悲しい思いをしていると思っていましたが、
小学生の高学年頃には、日にちも違い、
喜んでいる国もあるんだ・・・・
と不思議な思いでした。
明日は、お盆も最後の日。
ご先祖様に元の彼岸の岸へお戻りいただく
送り火が寺院で焚かれます。
そして、また、社会もいつもの様に
歯車が回り始めます。
浅草のほうずき市で購入した
我家の ほうずき も
お店のマダムがおっしゃっていた通り、
「 うまく育てられたら、お盆の頃に、全部色付きますヨ 」
見事、色付きました・・・
でも、色付くと、葉は枯れてしまうんですね。
自然は、いつも何かの終わりと始まりが
ひとつなんですね。
私も若い人達を輝かせてあげられるような
女性(ひと)になりたいです。
またひとつ、自然から教えてもらいました。
今日は太平洋戦争について
(感情は入れずあくまでも歴史にとどめます)
振り返ってみました 。
■ 太平洋戦争(たいへいようせんそう)■
1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、
日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、
1945年(昭和20)9月2日、
日本の降伏文書調印によって終わった戦争。
日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。
<終結に向かっての日本>
アメリカの対日反攻戦略は、
日本陸軍の主力と戦うことによる
人命の損失と消耗を避けるため、
中国本土を避け、フィリピンから沖縄を経て
日本本土へ迫る島伝い作戦の形をとった。
◆ 1944年(昭和19)10月、米軍はフィリピンに上陸し、
日本の地上兵力を壊滅させたほか、
レイテ沖海戦などで海軍兵力と
航空機の大半を失わせたので、
日本本土と南方資源地帯との連絡は
完全に遮断された。
◆ 1944年(昭和19)11月、
サイパンを基地として大型爆撃機B‐29が
大挙して飛来、
東京をはじめ各都市の空襲を開始し、
本土の国民も直接の戦禍を受けるようになった。
◆ 1945年(昭和20) 1月、
最高戦争指導会議で本土決戦即応態勢
確立の方針が決まる一方、
10代の少年から40代の老兵までが召集され
て本土決戦用の兵力が増強された。
◆ 1945年(昭和20) 2月、
米軍の硫黄島(いおうとう)上陸。
4月には沖縄本島上陸が開始された。
沖縄に米軍が上陸した直後、小磯内閣は辞職し、
鈴木貫太郎内閣が成立したが、
5月ドイツが降伏と、最高戦争指導会議は、
ソ連を利用する和平工作を進めることを決定、
和平の仲介をソ連に申し入れることとした。
<終結に向かっての連合国>
◆1943年(昭和18) 1月、
カイロ宣言を発し、
対日戦の目的を明らかにするとともに、
日本の無条件降伏まで戦争を続ける態度を明らかにしていた。
さらに日本本土上陸作戦が具体化するにつれて、
アメリカはソ連の対日参戦を熱望。
◆1945年(昭和20) 2月、
米英ソ首脳によるヤルタ会談では、
ソ連の満州の権益や北方領土確保と引き換えに、
対独戦終了後における対日参戦の約束がなされた。
しかし対独戦が終わったころから、
米ソ対立が表面化し、
米政府内部では、天皇制の保持を約束することによって
日本の早期降伏を促進しようとする機運が高まった。
◆1945年(昭和20) 7月初、
その趣旨を盛り込んだポツダム宣言の原案が作成された。
しかし、7月16日に原爆実験が成功すると、
ポツダム会談に臨んだトルーマン大統領は、
天皇制条項を日本が受諾しにくい形に書き改め、
7月26日に公表して日本に無条件降伏を呼びかける一方、
25日には原爆投下命令を出した。
それは、8月1日以降天候の許すときには日本の4都市
(広島、小倉(こくら)、新潟、長崎)のいずれかに
原爆を投下することを命令したものであって、
ソ連参戦以前に対日戦を終了させようとし、
または対ソ示威の効果をねらったものと解されている。
<終結>
日本の終戦決意を最終的に固めさせたのは原爆ではなく、
ソ連の参戦であった。
8月9日、ソ連が参戦し、
満州・朝鮮で軍事行動を開始すると、
同日夜半から10日にかけて開かれた御前会議は、
国体護持の条件のみでポツダム宣言を受諾することを
決定した。
これに対し、アメリカは12日、
日本側の条件を暗に認めた回答文をバーンズ国務長官の名で
通告してきた。
その表現があいまいであったため、
陸軍を中心とする主戦派は
あくまで本土決戦を主張したが、
14日の御前会議は、天皇の「聖断」によって
無条件降伏を決定した。
この決定は翌15日、天皇のラジオ放送(「玉音放送」)
によって国民に告げられ、
戦争は終わったのである
(なお正式の降伏文書調印は9月2日)。
<戦争の犠牲>
【広島・長崎原爆】
●1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下され、
市街地を壊滅させたほか、
被爆による死者は、1945年末までに、
広島で約14万人(誤差1万人)、
長崎で7万人(誤差1万人)
に上ったとされている(ISDA JNPC編集出版委員会編
『被爆の実相と被爆者の実情――
1977NGO被爆問題シンポジウム報告書』による)。
【沖縄戦】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
●日本軍による組織的抵抗の終わった6月23日まで
3か月近く続いた沖縄戦では、県民も戦闘に義勇軍
として動員される一方、戦闘の巻き添えをくったり、
日本軍にじゃま者扱いにされて殺される例も多かった。
当時50万の人口をもつと思われる沖縄で、
県民非戦闘員を含む日本側の死者は、約18万人
(県援護課資料による)をはるかに超えたものと推定される。
[ 以上 執筆者:荒井信一 ]
【学徒出陣】
●1943年10月21日、
全国を代表して東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で
「出陣学徒壮行会」が実施された。
当時の報道によれば秋の強い雨の中、
観客席で見守る多くの人々
(引き続き徴兵猶予された理工系学部生、中等学校(旧制)生徒、
女子学生などを含む)の前で東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県
の各大学・専門学校から召集された出陣学徒の隊列行進
(伴奏・陸軍分列行進曲)、
海ゆかばの斉唱、
宮城(皇居)遙拝、
岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、
東條首相による訓辞、
東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞
などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して
終わったとされる。
なお、全国で学徒兵として出征した対象者の総数は
日本政府による公式の数字が発表されておらず、
大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって
失われた例があるため未だに不明な点が多い。
出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、
死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
【東京大空襲】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
●1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、
特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の
空襲は大規模であった。通常「東京大空襲」と言った場合、
特に規模が大きかった1945年(昭和20年)3月10日に
行われた空襲を指すことが多い。
1945年(昭和20年)3月10日、爆撃は325機。
B-29爆撃機(うち爆弾投下機279機)によるもので、
0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りに
その後城東地区にも爆撃が開始された。
0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する
爆撃も開始された。
爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、
秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた。
原爆ド―ム
沖縄戦
学徒出征
東京大空襲鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)
以上 ウキぺディアより