今年も残すところ数日となった。
今年の年賀状は元旦に配達できるという締切日になんとか間に合った。
例年、年賀状の受付が始まるたびに気だけは焦るもののなんとなく億劫で先延ばし先延ばし
しているうちに期日が過ぎて最後にはエイヤッとやる悪いパターンの繰り返し。
今年も結果的には締切最終日に間に合ったものの、締切日を一日間違えていたというだけ
でいつものパターンは変わっていない。
むしろ締切日を間違うということは老化の兆しなので状態は退行しているのかもしれない。
その年賀状の宛名の中に3人の未亡人がある。いずれも知人、友人の連れ合いで本人が
亡くなったあとも年賀状のやり取りだけが続いている。
そのうち二人は全く面識がない。一人は大学時代の友人、もう一人は6社協同でやっていた
プロジェクトのメンバーの一人であった人の未亡人である。
この大学時代の友人とはたびたび山に登った。彼は大学に残らず先に就職したが2年後に
自分が就職した時に入社式で上京する旨連絡したところレストランでコース料理を御馳走し
てくれた。結局これが彼との最後の面談となった。
その後年賀状のやり取を続けていたが、数年後の年末に彼の夫人から突然喪中欠礼の挨拶状が届いた。挨拶状にはただ彼が7月に亡くなったとだけあった。
思わず前年の年賀状を見返しててみたら、手の込んだ版画に、近況報告が認めてあり、そ
の年の7月に亡くなるといった兆候は全く見られなかった。
30代半ばの若すぎる死。なぜ、どうして・・・・。
その時のショックは大きく、当時大ファンだった小椋圭の「あいつが死んだ」のメロディ
を口ずさみ涙したのを思い出す。下手なギターをつま弾きながら。
-あいつが死んだ
天国へ行くつもりも 俺にはないと言いながら
みんなが愛したのに 恋人も捨ててどうして
あじさいの花を愛した あいつが死んだ
夢なんて望みなんて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼の歿後、未亡人は自分の実家に戻りそこで二人の息子さんを育てあげられたと聞く。
彼の実家は福岡・太宰府。彼女の実家は大分・豊前市。一度墓参に行かねばとは思ってい
ながらまだ実行するに至っていない。
もう一人の6社協同プロジェクトのメンバーで知り合った方の人は本人ですら全く顔が思い出
せない変な関係である。というのも、このプロジェクトでは月一で2、3日間東京の幹事会社
に集まって会議を行い、各社分担作業の進展状況、次の課題を議論していくといった形式を
とっていたので、プロジェクトに参画していた約2年間で50回程度しか顔を合わしていない。
30年前の当時はまだ山陽新幹線が全線開通しておらず東京出張は寝台特急が主流。
当方は山口からだが彼は四国の今治から宇高連絡船(岡山・宇野―香川・高松)を乗り継い
でやってきていた。当時まだ本四架橋はまだ夢の中の夢だった。
方向が同じだったからか、あるいは気心が御互い触れたからか年賀状のやり取りをはじめ
プロジェクトメンバーを交替で抜けたあとも続いた。
だがこちらも数年後突然夫人からの喪中欠礼の挨拶状が届いた。たぶん40歳前後だろう。
こちらも同じく若すぎる死である。
以後、定例文だけの賀状が京都から届く。だから御子息の有無は知る由もない。京都は彼の
実家かあるいは彼女の実家かについても知る由がない。彼は京都大学卒の秀才だったので
或いは下宿先のお嬢さんだったのかも知れないと思ったりする。
だが彼女は我々がこんな希薄な関係であることを御存じないだろう。
今振り返ってみると大学時代の友人にしてもたかだか4年の付き合いであり、長い人生の
なかで一瞬のひと時に思えてきた。やりたかったことはまだあったろうに、と思い、賀状
を書くたびにこれまで無事に永らえられてきたことを感謝するこのごろである。
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