(原 光訳 2000年、沖積舎)
ダンテの「神曲 地獄」編 第9歌(カッコ内は筆子、その12)
◯それから穢(けが)れた道を引返したが、わたしらには話しかけず、前にあるものと別のことにたいする配慮に、
せきたてられてるもののやうに見えた。神聖な言葉のすぐ後なので安心して、わたしらは門の方へ歩みを進めた。
いかなる争ひもなく中に入つたが、このやうな城塞が閉込めてゐる状態を、見究めたくてたまらなかつたわたしは、(ここまで前回)
◯入るなりぐるりと見まはした、左右に大きな平地が見え、激しい悲鳴と苛酷な苦痛に満ちてゐた。
ロダノ河(仏蘭西のローン川)のよどむところ、アルリ(河畔の町)や、イタリヤを仕切りその境界を洗つてゐる、カルナロ湾の近くのポーラ(現在のイタリヤ領の南端にある町)では、
さまざまの石の墓が全地をでこぼこにしてゐるが(伝説に言う、「一夜にして無数の墳墓出現した」と)、ここでもいたるところそんな風で、違つているのはここではずつと苛酷だつたことだ、(つづく)
◯2015年4月26日は、今年の第十七主日。日聖協の「聖書愛読こよみ」は、ローマ3章9~22節、その9節「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。」と。その答えは「全くありません」です。これには誰でも驚く。人に何か優れているところがあるもの。しかし人と人の比較ではなしかしここでは、神の真実に比べるなら、どうかである。
◯写真は4月21日、小倉教会で開催の中会伝道委員会。右から南茂昭夫、権藤国光、名古屋義弘の教師委員と木村愛子長老旧委員。