五、「教会とわたしたち」(394) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その34)
⒙ 他人によって加えられた情欲の暴行は道徳的悪事であろうか。肉体はそれを忍ぶように強いられても、こころは同意を与えることなしに堪え忍ぶのである。
もしも慎みというものがこのような種類のものであるとすれば、なぜそれを失う恐れがあるからと言って、われわれの生命そのものまでも危険に曝さなければならない道理が(前回はここまで) あろうか。もし慎みがこころの美徳であるならば、たとえ肉体は強いられることがあっても、それを失うことはあり得ない 。さらに、慎みの美徳が不順な欲望の汚染的影響に屈することを拒絶するとき、それは肉体そのものまでも聖化する、というのが慎みの特性である。それゆえに、こころがこのような汚れた思いに屈することをひたむきに拒み続けるならば、肉体そのものもその貞節を失わない。なぜなら、意志は肉体を慎み深く用いようという意図を堅持し、能う限り努めるからである。…
19.ルクレティアはその貞操が汚されたというので自決して果てた。 20.どのような状況の下においても、キリスト者に自らの生命を断つ権利を与える者は存しない。 21.人を殺すことはいつでも殺人罪になるとは限らない。 22.自殺は必ずしも精神の偉大さのしるしではない。 23.カエサルの勝利を見るにしのびず自殺したカトーの場合。24.レグルスがカトーに優るように、 キリスト信者はさらにレグルスよりもすぐれている。(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)