日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-01-06 00:06:46 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(394)      近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その34)

⒙ 他人によって加えられた情欲の暴行は道徳的悪事であろうか。肉体はそれを忍ぶように強いられても、こころは同意を与えることなしに堪え忍ぶのである。

 もしも慎みというものがこのような種類のものであるとすれば、なぜそれを失う恐れがあるからと言って、われわれの生命そのものまでも危険に曝さなければならない道理が(前回はここまで) あろうか。もし慎みがこころの美徳であるならば、たとえ肉体は強いられることがあっても、それを失うことはあり得ない 。さらに、慎みの美徳が不順な欲望の汚染的影響に屈することを拒絶するとき、それは肉体そのものまでも聖化する、というのが慎みの特性である。それゆえに、こころがこのような汚れた思いに屈することをひたむきに拒み続けるならば、肉体そのものもその貞節を失わない。なぜなら、意志は肉体を慎み深く用いようという意図を堅持し、能う限り努めるからである。…

19.ルクレティアはその貞操が汚されたというので自決して果てた。  20.どのような状況の下においても、キリスト者に自らの生命を断つ権利を与える者は存しない。  21.人を殺すことはいつでも殺人罪になるとは限らない。  22.自殺は必ずしも精神の偉大さのしるしではない。  23.カエサルの勝利を見るにしのびず自殺したカトーの場合。24.レグルスがカトーに優るように、 キリスト信者はさらにレグルスよりもすぐれている。(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-01-06 00:04:35 | 大分中央ウィークリー

創世記24章16節である。「際立て美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、」とある。前節で、「リベカが~やってきた」とあったが、そのとき、僕本人はその美しい娘の名前「リベカ」

の名を知っているはずがない。編集段階での挿入であった。僕自身は旅の人の一人としての素知らぬ顔をして、水汲みの前後心の変化を考えながら丹念に観察していたのであった。

 

「際立て美しく」とある。彼は気心の美しさを求めていた。従って「際立て美しく」のその美しさにかえって警戒心を寄せていたのかもしれない。その意味で「水を満たして上がって来ると、」どうなのか。その苦しみによる美しさの変化が参考に

なりそうである。

 

17節である。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。『水がめの水を少し飲ませてください。』」という。いよいよそのときが来た。待ちに待ったそのときである。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた」と。相手にびっくりさ

せないように、優しく話しかけたのであろうか。その口から出てきた言葉はなんども心の中で反芻していた言葉のようである。いかにも咽が渇いて旅人のようにであろう。

 

彼女が泉に来るときから水がめを肩に載せてやって来た(15節)のであるから、水がめに水を満たして上がって来るときは、重いのを肩に担いで上がって来たのであろう。それを飲ませてほしいと頼むのであるから、頼む方としては、よほど

丁重な頼み方でないとその要求を叶えられなかったかもしれない。霊的な意味で一つの戦いの瞬間である。いま、神のときの一瞬である。言葉以上のことに心を向けられたい。