日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-01-10 21:41:33 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(395)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その35)

23.カエサルの勝利を見るにしのびず自殺したカトーの場合。

24.レグルスがカトーに優るように、キリスト信者はさらにレグルスよりもすぐれている。(前回はここまで)

25.わたしたちは他の罪を犯すことによって、一つの罪を避けようとすべきではない。

  確かにわたしたちの肉体が情欲の誘惑によってこころを罪への同意へと誘わないように、いやが上にも注意深くあらねばならない。「わたしたちが言っているのは、まさにそのことだ」とわたしたちの敵は主張する。「われわれが自分の生命

を断つのはだれか他の人の罪のためではなく、自分自身の罪のゆえである。すなわち、それを犯すことを避けるために、われわれは自殺する」。答えはこうである。すなわち、こころが本能的情欲に屈することは決して許されない。そのような

情欲は、少なくとも肉体とその欲望よりも神とその知恵とに従順である人の場合には、肉体がだれか他の人によって挑発されるときに起こるのである。

  自殺が憎むべき行為であり、嫌うべき犯罪であるとすれば―事実その通りなのであるが―いったい愚かにもこう言う者はだれであろうか。「のちになって姦淫の罪を犯すことがないように、さあ人殺しをしようではないか」。もしも不義がかく

もはびこり、わたしたちが罪なきことよりも罪を選ぶことになるとしても、~

(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-01-10 21:03:18 | 大分中央ウィークリー

創世記24章17節である。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。『水がめの水を少し飲ませてください。』」という。いよいよそのときが来た。待ちに待ったそのときである。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた」と。相手

にびっくりさせないように、優しく話しかけたのであろうか。その口から出てきた言葉はなんども心の中で反芻していた言葉のようである。いかにも咽が渇いて旅人のようにであろう。

 

彼女が泉に来るときから水がめを肩に載せてやって来た(15節)のであるから、水がめに水を満たして上がって来るときは、重いのを肩に担いで上がって来たのであろう。それを飲ませてほしいと頼むのであるから、頼む方としては、よほど

丁重な頼み方でないとその要求を叶えられなかったかもしれない。霊的な意味で一つの戦いの瞬間である。いま、神のときの一瞬である。言葉以上のことに心を向けられたい。

 

18節である。「すると彼女は、『どうぞ、お飲み下さい』と答え、すぐに水がめを下して手に抱え、彼に飲ませた。」という。このようなときの対話では、最初の言葉が最も大事である。そこで親しみのある聖書の口語訳を見ると、「すると彼女は

、『わが主よ、お飲みください』と言って、」となっている。この「わが主よ、」をほんやくせずに「どうぞ」では、不十分である。

 

「わが主よ、」という呼びかけは、この中東地域では堅苦しい言い方ではない。目上の者への親しみと信頼を現すやさしい言葉である。それゆえ大役を背負っていた彼に、一種の安心感が湧くと共により慎重になったのかもしれない。何時ど

んなタイミングで本音に入っていくのかであった。彼女の次の言葉を待ったのであろう。


牧 会 通 信

2017-01-10 20:32:12 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その11)

◯あれほどひどい邪悪の巣がつくられたとき、あすこにとどまつたローマ人の神聖な種がその中に蘇(よみが)るにのだから。」

「わたしの願ひがすつかり叶えられたら、」とわたしは答えた、「あなたはまだ人間の生(いき)身から追放されずにゐたでしせう、

かう言ふのもあなたがあの世界で時折、人間が不滅になる術(すべ)をわたしに教えて下さつたときの、あの慈父のやうな懐しく親切なお姿がわたしの心に焼きついてゐて、(前回ここまで)

◯いまわたしをいたく悲しませるからです、わたしがあれをどんなに尊重してゐるか、わたしが生きてゐるかぎり、わたしの言葉でそれを見分けられるやうにせねばなりません。

   わたしの行末について話されたことをわたしは肝に銘じて、そばに着いたら真実を知つてゐる婦人に説き明してもらふために、他の言葉とともに貯へておきませう。

これだけはあなたにきつぱり言つておきたい、わたしは良心の呵責を感ぜぬかぎり、どんな運命にも屈せずにゐられます。~(つづく)

 

◯本日、2017年1月8日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「世の光」という、聖書の箇所はマタイの福音書5章1~12節である。いわゆるイエス・キリストの山上の説教の始まりである。八福の教えとしてよく人に知られてい

る。福袋の中の一つは、何か、第一の「幸い」(福)は、3節、「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである。」という、どういう意味であるのか。しょっぱなから、考えさせられる。いいことのようであるが、しかと分らない

というのが正直な感想で

はなかろうか。年の初めだからよう考え

て頂きたい。暗き世を燦然と照らす「光」

があなたの心の中にある。どんな「光」。

写真は、1月1日(日)元旦主日礼拝

後の、日曜学校生徒二人である

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