日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック 

2017-02-15 22:28:35 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(399)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その39)

  26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか

 わたしたち相互の間の交わりを考えても、このような内的な知識に達するであろう。わたしたちはそれに関する

情報を持たずしては、何事についても判断を下す権利を主張できない。「いったい、人間の思いは、その内にある

人間の霊以外に、だれが知っていようか」(第一コリント二・二一)。(前回はここまで)わたしはあえて躊躇すること

なく言う。それゆえに、なにびとも現世の悲惨事を回避するために、進んで自らに死を課することがあってはならな

い、と。彼は永遠に続く悲惨事に落ち込んでいるのに気づくかも知れないのである。さらにだれも他人の罪のゆえ

に自殺すべきではない。彼が他人の罪によって汚されることは決してないのに、彼は自分自身の重い罪によって

責められる者となるかも知れない。さらに、人は自分の過去の罪のゆえに自殺すべきではない。彼は改悛の中に

いやしを見いだすため、生きることをいっそう必要としている。さらに言えば、人は死後によりよい生を熱望して、

死を計ったりしてはならない。自殺する者には、死後のより良き生などはあり得ないからである。

 

27.罪を避けるため自殺することは許されるか

わたしが前に述べたように、人が自らの死を招来する方が有益に思われるただ一つの理由が残

されている。(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-02-15 22:20:25 | 大分中央ウィークリー

創世記24章22節である。「らくだが水を飲み終わると、重さ半シェケ

ルの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、」と

いう。「らくだが水を飲み終わると」、ここにいたって、「祈った」(12~14節)

通りであったことを見届け、ここで彼女の行動をじっと見て確認することが出来たのであった。

 

彼はすぐに彼女を確保すべき行動に出た。それはまず、出発のときから用意してきた大事な

贈り物を荷物の中から取り出した。それらは高価なものであった。重さ半シェケルの「金の鼻

輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、」という。「金の鼻輪」にしても「金の

腕輪二つ」にしてもわざわざ取り出しながら話しかけた。それらは、彼の話の言い出し、次の

一言で、嫁と決定したときの贈り物であった。

 

23節である。「あなたはどなたの娘さんですか、教えてください。お父様の家にはわたしど

もが泊めていただける場所があるでしょうか」と尋ねた。」という。多分カナンからの出発に

際して、この僕は、主人の使いですから、主人アブラハムの親族関係をつぶさに聞いてい

たと思われる。それで「あなたはどなたの娘さんですか、教えてください。」という言い出しに

なったのであろう。あまりにも祈りの通りに驚きつつ、ほぼ間違いなくアブラハムの親戚の

一人であろうと予想したようである。

 

「泊めていただける場所があるでしょうか」とは、万が一、もし、間違ったときのこと

というより、何もかも知っているという立ち入り方を避けて、わざと知らない部分を

作って、時の旅人のように見せた言葉のように思われる。従って、一つ知らない

部分を作って尋ねるのは、儀礼的な質問であろう。そして彼女からの答を待った。

(次週、24節)

 

 

 


牧 会 通 信

2017-02-15 21:52:31 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)   ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その14)

◯それから後を振向いて走り去つた、ヴェロナの競争(徒歩競争)で緑の絹布(勝利賞)を得るために、野原を突つ走る(徒歩)ものそつくりに、

しかも負ける(最終着者には雄鶏)ものではなく勝つものそつくりに。

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その1)

◯わたしはすでに次の圏(たに)に落下する、水の轟きが聞こえるところにゐた、夥(おびただ)しい蜜蜂の巣箱が立てる騒音に似てゐた。

(前回ここまで)

◯そのとき苛酷な苦痛の雨を浴びて通り過ぎる、一群の中から三人の亡霊が一緒に走り出て、わたしらに近づきながら

  めいめいに絶叫した、「立止まってくれ、服から察するとわたしらの邪悪な土地のものらしいそなたよ。」

  ああ、なんといふ傷がその五体に見られたか、づきづき新しいのと古いのと火に焼かれ傷口が!思ひだすだけでも苦痛だ。 (つづく)

 

◯本日、2017年2月12日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主

題は「真の断食」という。聖書の箇所はマタイ4・1~11である。その1~2節、「さて、イエスは悪魔

から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食し

た後、空腹を覚えられた。」という。このイエスの「断食」は、旧約聖書にしばしば出てくる宗教的行事

としての「断食」ではない。「断食」による祈りと瞑想のことである。祈りによって神からの力を求め、

イエスはわたしたちのために悪魔の誘惑を受けられ、信仰による戦いを闘ってくださった。

これを唯一、「真の断食」という。

 

◯写真は2月6日(月)、福岡城南教会で年二回の内の、最初の九州中会教職者が開催された。