創世記21章11節である。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」という。アブラハムの妻サラの言葉によって彼が非常に苦しんだという。そのはずである。腹違いの子供であっても夫の側(そば)女に産ませた子は、自分の子供である。老齢の子であることはもとより永い間後継者を考えて来た彼に、その思いの転換には困難があった。
サラの言葉「あの女とあの子を追い出してください」は彼に厳しい。解決は一つである。この場合は、サラの言うとおり、「追い出す」以外にないのである。問題を解決するには、サラの夫であるアブラハムの心の痛みを斟酌するわけには行かない。その痛みは夫であるアブラハムがその生涯を掛けて心に秘めていかねばならないであろう。癒しがたい苦悩であった。
12節である。「神はアブラハムに言われた。『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。~』」アブラハムの苦しみに神は助け舟を出された。
アブラハムの人間的な苦しみが悪いというのではない。神の世界は神が責任をとっておられる。その意味で、神からの課題を避けようとするのではなく、その課題を引き受けねばならない。しかし、それはアブラハムにとって決して軽い課題ではなかった。先ずその課題の第一は「あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」というものであった。