日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2015-06-08 22:55:08 | 大分中央ウィークリー

創世記21章11節である。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」という。アブラハムの妻サラの言葉によって彼が非常に苦しんだという。そのはずである。腹違いの子供であっても夫の側(そば)女に産ませた子は、自分の子供である。老齢の子であることはもとより永い間後継者を考えて来た彼に、その思いの転換には困難があった。 

サラの言葉「あの女とあの子を追い出してください」は彼に厳しい。解決は一つである。この場合は、サラの言うとおり、「追い出す」以外にないのである。問題を解決するには、サラの夫であるアブラハムの心の痛みを斟酌するわけには行かない。その痛みは夫であるアブラハムがその生涯を掛けて心に秘めていかねばならないであろう。癒しがたい苦悩であった。 

12節である。「神はアブラハムに言われた。『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。~』」アブラハムの苦しみに神は助け舟を出された。 

アブラハムの人間的な苦しみが悪いというのではない。神の世界は神が責任をとっておられる。その意味で、神からの課題を避けようとするのではなく、その課題を引き受けねばならない。しかし、それはアブラハムにとって決して軽い課題ではなかった。先ずその課題の第一は「あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」というものであった。


牧 会 通 信

2015-06-08 20:19:43 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第10歌(カッコ内は筆子、その4)

◯わたしは言つた、「親切な師よ、わたしの心をあなたに隠したままでゐるのも、できるだけ言葉を慎みたいからです、あなた御自身すここし前にさうするように命じられたのです。」

  「おおトスナカ人(びと、ダンテの故国、フィレンツェの人々もこの中に入る)よ、生きたまま礼儀正しく話しながら、この火の市(まち)を進むそなたよ、どうかここに立止まつてくれ。

  そなたの言葉ではつきり分る、そなたはあのぬきんでた祖国のものだと、恐らくわたしはあすこをあまりにも苦しめすぎたやうだが。」

(ここまで前回 横線部分は追加

◯だしぬけにかうした言葉が石棺(はか)の一つから迸(ほとばし)つたので、わたしはぞッとしてもう少し先達に近寄つた。

師は言つた、「振向け、どうしたのだ? 直立したファリナーター(フィレンツェの政治の1239年、有力な政党の首領)を見ろ、腰から上がすつかり見えるから。」

わたしはすでに眼をあのものの眼に釘づけにしてゐたが、あのものは地獄を蔑みきつてでもゐるやうに、ぐつと胸と額をもたげて直立してゐた。(つづく) 

◯2015年6月7日は、今年の第二十三主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は、創世記22章1~8節、イサクが「小羊はどこにいますか」と問いかけた。その8節である。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」という。ここにアブラハムの行動と心の分離を見る。行いの伴った信仰の厳しさを読み取らねばならない。

 

◯写真は、教会敷地に隣接する県立美術館のケヤキ並木(6月6日前11時撮)


プロテスタントとカトリック

2015-06-04 02:41:42 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(314)

4.近代の教会の夜明け

―宗教改革―スコットランド

「わたしの霊と心と身体とをあなたの御手におゆだねます」と、彼の言葉はもつれながらいったという。このとき彼の目は見えなくなったようで、続く言葉が、「ヨハネによる福音書17章を読んでください。そこにわたしの最後の錨をおろします。」と言い切ったとき、呼吸が乱れ重いうめき声になり、ノックス夫人らが入って来て最後を見守った。11月24日深夜11時ころ発作もなく息を引き取った。歳は(ここまで前回)

58歳であった。彼の遺体は当時エディンバラに滞在中の数人の貴族たちと、その他親しい者たちに付き添われ聖ギレス教会に運ばれた。あのノックスと争ったスコットランドの女王メアリーがこの二ヶ月前にロンドン塔に監禁された。そのこともあって、スコットランドの全国民はノックスの死を心から哀悼した。彼の告別式は二日後の11月26日、エディンバラのセント・ジャイルズ教会で盛大に行われ、その教会の南に接する教会墓地に葬られた。ノックスの死の当日、摂生に任命されたモントル伯は、簡単な言葉で墓の前で告別の辞を述べた。「ここにいかなる人間をも恐れず、また何人にもおもねることをせず、剣しばしば彼を脅かしたにもかかわらず、平和と栄光のうちにその生涯を終わった人がここに眠る」と。その言葉がノックスの墓碑銘に刻字され、その複製が今日も残っている。(つづく)


聖書研究

2015-06-04 02:39:00 | 大分中央ウィークリー

創世記21章10節である。「アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。』」という。「あの女」という呼び方には、あえて名前を呼びたくないというさげすみの感情が込められた呼び方である。原語は「ハ・アマーハゾート」、すなわち「あの(ハゾート) 奴隷の女(ハ・ハマー)」である。

 階級の違いではない。階級の違いを用いた人間としてのあらん限りの憎しみが込められている。人間であること自体の中に持っている、言うも恐ろしい憎しみの罪の実態、その根源である。自分自身の中のこの罪、他人の中のこの罪との闘いの方法はいろいろ、わたしたちの毎日の闘いである。 

11節である。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」という。アブラハムの妻サラの言葉によって彼が非常に苦しんだという。そのはずである。腹違いの子供であっても夫の側(そば)女に産ませた子は、自分の子供である。老齢の子であることはもとより永い間後継者を考えて来た彼に、その思いの転換には困難があった。 

サラの言葉「あの女とあの子を追い出してください」は彼に厳しい。解決は一つである。この場合は、サラの言うとおり、「追い出す」以外にないのである。問題を解決するには、サラの夫であるアブラハムの心の痛みを斟酌するわけには行かない。その痛みは夫であるアブラハムがその生涯を掛けて心に秘めていかねばならないであろう。癒しがたい苦悩であった。


牧 会 通 信

2015-06-04 02:24:44 | 大分中央ウィークリー

◯すると答へた、「あの上に残してきた肉体をつけて、ヨサファト(渓谷の名で、最後の審判の行われるところ)からここへ戻つてくるとき、みんな錠を掛けて閉込められるのだ。

霊は肉体とともに死ぬと説く、エピクロ(ギリシャの哲学エピクロス、前三四一―二七〇、エピクロス学派を起こす。使徒17・18以下参照)とともにそのすべての信奉者たちが、こつち側の墓地にゐる。

だからそなたがわたしにした質問と、さらにそなたが言はずにゐる切望は、ここに入るなり満足させられよう。」(ここまで前回)

◯わたしは言つた、「親切な師よ、わたしの心をあなたに隠したままでゐるのも、できるだけ言葉を慎みたいからです、あなた御自身すここし前にさうするように命じられたのです。」

  「おおトスナカ人(びと)よ、生きたまま礼儀正しく話しながら、この火の市(まち)を進むそなたよ、どうかここに立止まつてくれ。

  そなたの言葉ではつきり分る、そなたはあのぬきんでた祖国のものだと、恐らくわたしはあすこをあまりにも苦しめすぎたやうだが。」

(つづく)

◯2015年5月31日は、今年の第二十二主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は、使徒2章1~13節、その12節である。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。」という。わたしたちが信仰の従順を得るということは簡単なことではない、神の出来事に出会ったとき、驚きがあり、とまどいがあり、そして深く考えねばならない。

 ◯写真は、教会堂の南側周りのブロック塀の青々とした蔦が、二年間の美術館工事の影から見事に復活した。(5月30日午後3時撮)