日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2015-10-20 22:13:51 | 大分中央ウィークリー

 

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その6) (原 光訳 2000年、沖積舎)

◯だから最小の圏、つまりディテ(神話、地獄の王、既出8・67)が上に居る。世界の中心点では、裏切るものが永遠に憔悴(しょうすい)させられてゐる。」

わたしは言つた、「師よ、あなたの議論はじつに明確で、この奈落とここを占めてゐるものたちを、実によく分類してゐますが、

どうか教へて下さい、あの泥沼でふやけてゐるもの、烈風に運ばれるもの、雨に打たれるもの、衝突して毒舌を弄するものたちは、」

(ここまで前回 )

◯なぜこの灼熱する市(まち)の中で罰せられないのですか、神の怒りを受けてゐるのなら。また受けてゐなければ、なぜあのやうにされてゐるのですか?」

  師は答へた、「そなたの知力はなぜいつもの道からそんなにも逸(そ)れてゐるのだ?そなたの心は外のどこをみつめてゐるのだ?

  思い出なさぬのか、そなたの倫理学が天に忌み嫌はれる三つの性質、放縦と悪意と狂つた獣性を詳しく論じてゐるあの言葉を?

(つづく)

◯2015年10月18日は、今年の第四十二主日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「イエスは何者」という主題である。聖書はマタイ24章23~31節、その30節、「そ

のとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」と。

いわゆる主イエスの来臨である。このときを人は待望している。ゆえに、いかなる天変地異にも、恐れてはならない。

 

◯写真は9月22日、大阪での全国信徒大会の閉会礼拝(司会、高松牧人教師、鶴見教会牧師)スクリーン上に讃美歌[228番]を映し出されて、それを観て共に歌う。

 


プロテスタントとカトリック

2015-10-12 00:28:28 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(333)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

ツヴィングリの説教はマタイによる福音書の連続講解説教からはじめられた。今日では想像しがたいが分らないラテン語の短い説教があっても、

それをラテン語ではなく、日常語、チューリヒのドイツ語で講壇から語られる説教が、聖書そのものしかもこのように聖書を連続して取り上げ、

始めて自分たちの言葉で語られて、身近なものとして耳にした聴衆の感動と興奮は、現代のわれわれには、

ほとんど実感できない。このようにしてチューリヒの地域共同体にも、宗教改革派(新信仰派)とローマカトリックの(旧信仰派)という二つの信仰集団

が並存することになった。中世の大前提は一つの地域には一つの思想、心情、信仰という大前提が定着していて、二つの集団はあってはならない

現象に明らかに反するのである。(ここまで前回)従って、ルターもカルヴァンも、またスコットランドのノックスの場合もそうであったが、穏やかにことが

進むはずがない。この時代の宗教上の分裂は、そのままその社会の政治上の分裂を生み出すことになり、同一社会で民衆庶民が相争うようになった

のも必然の結果であった。事実、1521年から22年早春にかけて、時には路上での実力行使の喧嘩騒動にまで及ぶのであった。たとえば1522年

3月22日の聖灰の水曜日に、忙しい徹夜の印刷物発行のために、ある印刷所に会した両派の信徒のうちツヴィングリ派の人が、ひょいと口にソウセ

ージを運んだ。~(つづく)


聖書研究

2015-10-12 00:26:29 | 大分中央ウィークリー

創世記21章29節である。「アビメレクがアブラハムに尋ねた。「この七匹の雌の小羊を別にしたのは、何のためですか。」といいます。先にいったように、アブラハムの手で「羊の群れの中から七匹(シェバ)の雌の小羊を別にした」という意味でるならば、アブラハムにとって、大事な井戸であったということの意思表明となる。その意思表明のために井戸の数の七つと羊の数の七つとを合わせているようである。 

そのアブラハムの心に、肝胆相照らす仲となったのである。アビメレクが先にいったように井戸の返還をもって応えたことはいうまでもない。この「七」という数字もまた、イスラエルでは完全数であり、神聖なものであった。神にかけて心を相互に通わすという意味があります。単なる肉の人間の友情ではないのである。 

30節である。「アブラハムは答えた。『わたしの手からこの七匹の雌の子羊を受け取って、わたしがこの井戸(ベエル)を掘ったことを証としてください。~』」といっている。28節以下は27節「二人は契約を結んだ」の説明文のようである。その場合、契約そのものは井戸が、アブラハムの所有であることを前提としている、またその所有を確認していることになる。 

したがってここで、「井戸(ベエル)を掘ったことを証としてください」アブラハムがいうのは、アブラハムの所有であることの確認を求めていることになる。心を相通じさせる信頼の証であって、代価として買い戻したのではない。所有者としての主権は損なわれず、永久の所有であって少なくとも将来にわたって同様の争いの再発を防いでいるのである。人間の世界の平和は、信頼関係によって保持される。


牧 会 通 信

2015-10-12 00:20:42 | 大分中央ウィークリー

 

ダンテの「神曲 地獄」編 第11歌(カッコ内は筆子、その7)

◯この後の欺瞞の仕方は、自然の結ぶ人情の絆だけを断ち切るもののやうに思われる、だから第二の圏に巣喰っているのは、

  偽善、甘言、魔術、嘘、窃盗(ぬすみ)、聖職売買、女衒(ぜげん)、詐欺、そのたぐひの卑劣をこととするものたちだ。

もう一つの欺瞞の仕方によつては、自然の結ぶ人情の絆と、後で附加へられ、特別の信頼を生む絆とが忘れ去られる。(ここまで前回)

 ◯だから最小の圏、つまりディテ(神話、地獄の王、既出8・67)が上に居る。世界の中心点では、裏切るものが永遠に憔悴(しょうすい)させられてゐる。

わたしは言つた、「師よ、あなたの議論はじつに明確で、この奈落とここを占めてゐるものたちを、実によく分類してゐますが、

どうか教へて下さい、あの泥沼でふやけてゐるもの、烈風に運ばれるもの、雨に打たれるもの、衝突して毒舌を弄するものたちは、」(つづく)

 

◯2015年10月11日は、今年の第四十一日。日聖協「聖書愛読こよみ」は「御心を行う者」という主題である。聖書はイザヤ30章15~18節、その15節、「『安らか

に信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」という。その結果は明々白々17節、「一人の威嚇によって、千人はもろともに

逃れ、五人の威嚇によって、おまえたちは逃れる。」と。これは、どこやらの日本人とよく似ている。目に見えない神(宗教)を侮って、それゆえ敵の威嚇に弱い。

 

◯写真は21日(月)、大阪北教会で開催された信徒大会プレ青年会。50名参集。集まった喜びが溢れていた。(午後8時撮)


プロテスタントとカトリック

2015-10-08 18:48:43 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(332)

4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―

年が明けて、1519年1月2日の聖日、ツヴィングリはチューリヒの中心にそびえる大聖堂の教会の説教壇に立った。それ以来12年間の彼の活動は、基本的には説教者としての務めであった。この説教壇から語られる聖書の講解説教および時宜に適った主題説教が、チューリヒにスイスに、そして他の諸国に改革派教会の、ルター派とはまた違った、伝統を生み出すことになる。ルターの場合もそうであったが、宗教改革は何よりも先ず〝説教運動〟であったといえる。いつの時代もいえることであるが時代の曲がり角では、聖書の説教が勝負どころとなる。これは今日も同じである。(ここまで前回)

ツヴィングリの説教はマタイによる福音書の連続講解説教からはじめられた。今日では想像しがたいが分らないラテン語の短い説教があっても、それをラテン語ではなく、日常語、チューリヒのドイツ語で講壇から語られる説教が、聖書そのものしかもこのように聖書を連続して取り上げ、始めて自分たちの言葉で語られて、身近なものとして耳にした聴衆の感動と興奮は、現代のわれわれには、ほとんど実感できない。このようにしてチューリヒの地域共同体にも、宗教改革派(新信仰派)とローマカトリックの(旧信仰派)という二つの信仰集団が並存することになった。中世の大前提は一つの地域には一つの思想、心情、信仰という大前提が定着していて、二つの集団はあってはならない現象である。(つづく)