日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2016-06-15 19:03:12 | 大分中央ウィークリー

創世記23章8節である。「(アブラハムは)頼んだ。『もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォルの子、エフロンにお願いして、~』」という。ここに「亡くなった妻」と翻訳されているが、その原語は「わたしのマウト」であり、その「マウト」の意味は「死人」である。したがって口語訳は原文に忠実に「わたしの死人」と翻訳している。 

たとえそうでなくても、キリスト教会では、一般に、「亡くなった」という日本語を使わない方がよい。キリストが死人の中から復活されたからである。死人となれたキリストの遺体に布を巻きつけて葬るための用意をしてあったが、イエスはその布をそのまま証拠物件として墓に残して、復活された(ヨハネ20・6)のでありました。 

9節である。「『~あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。』」という。アブラハムの熱心な嘆願が続いている。要するに、「十分な銀」をというが、感覚的に「十二分の」という意味でなく、文字通りでは、「相応の銀」という意味である。墓地のための土地をぜひ譲って(売買して)くださいといった。しかも「畑の端にあるマクペラの洞穴を」という。この時代すでに税金制度があって、アブラハムの考えでは、負担の軽減、その税の安いという意味で劣等な場所を指定したのかも。 

初めからこの「マクペラ(地名)の洞穴」を予定していたようであるが、ヘト人の反応から、彼らの腹の内の消極的な姿勢を読み取りながら、この9節でアブラハムの方から積極的に、「あの方の畑」と指定して個人的交渉に入ったようである。


牧 会 通 信

2016-06-15 18:38:42 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その15)

◯自分の持場に猪と猟犬が走つてくるのに感づくもの、野獣が葉繁みをガサガサさせるのを聴きつけるもののやうに。

  すると左側からまる裸で引つ掻き傷だらけの二人が激しく逃げてきた、森の妨害する枝をみんなボキボキ折りながら。

  先立つものが、「さあ走れ、走れ、死だぞ!」と叫ぶと、あまりにもうんと遅れているように見えた、もう一人が叫んだ、「ラノ(トッポの戦いでフィレンツェの町を

助けて出征し戦死)、お前の足は

(ここまで前回)

◯トッポ(地名でなく寺社の領地、1288年)の戦闘(たたかい)でもそんなにすばしこくなかつたぞ!」すると恐らく息が切れたのだらう、その霊は自身と一本の

潅木を一つの縺(もつ)れとなした。

  二人の後(うしろ)の森は鎖から解き放たれた猟犬のように、貪欲に突つ走る黒い牝犬どもでいつぱいだつた。

  奴等は隠れたものに歯を立てて、ヅタヅタに噛み裂いてから、ヅキヅキ痛む肉を運び去つた。(つづく)

 

◯本日は、2016年6月12日は第二十五主日、三位一体後第四主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「神の宮をあずかる者」という主題。聖書はⅠコ

リント3・10~17節である。その17節、「あなたがたはその神殿なのです。」という。わたしたち一人一人は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」

(6・19)ともいいます。良い信仰を宿して働かせましょう。

 

◯写真は神学校の食堂。撮影は6月6日12時30分。A・N


プロテスタントとカトリック

2016-06-10 08:29:15 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(365)      近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その6)

(1、ローマが略奪を蒙ったとき、~)

いずれにしても、これら血に飢えた蛮族たちはキリストの名のゆえに、いずこにおいても、特に聖別された建物(それらの最大のものは聖所として、きわめて多数のものに避難所を提供した)の中で戦争の常のならわしをはるかに超えた憐憫の情を示したのである。わたしたちに反対する者たちはこの幸運を、彼らがキリスト教の時代に生きているという事実に帰すべきである。彼らはこのことについて神に感謝を捧ぐべきである。このことのゆえに(前回ここまで、訳文30頁8行目)~彼らは真摯に神の名を呼び求め、永劫の火による処罰を免れるよう祈るべきである。結局のところ、彼らの多くが目前の破滅という刑罰を逃れるため、偽って口にしたのは神の名だったからである。

 わたしたちは多くの者がいま厚顔無恥にもキリストの僕を侮辱していることを知っている。その中にはもしも彼ら自身がキリストの僕であるかのごとく偽らなければ、大量殺戮を免れなかったであろう者も、数多く含まれている。然るに彼らは忘恩にして傲慢に満ち、狂気ごとき不信心からのキリストの御名に抗(はりあ)い立ち、永遠の暗闇の刑罰へと陥る危険を冒している。彼らがこの世の光のいくばくかを享受せんと欲し、偽って口にしたのは外ならぬこのキリストの名であった。

 2、これまでどのような戦争においても、(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-06-10 08:21:24 | 大分中央ウィークリー

創世記23章7節である。「アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし、」という。4節でアブラハムは、「墓地を譲ってください」と頼んだはずである。6節をよく読んでみると、ヘト人の言い分は、「~わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」という。あくまでもそれは「土地の提供」であって、売り渡すとは、いってもいない。恐らく、売り渡す意思はまったくなかったと観るのが普通である。厳しく感じ取ったのはアブラハムであった。 

これがいつに時代にも通じる土地と人間との関係である。アブラハムは慎重に受けかつ一層積極的に話を進めねばならないと考えたようである。7節の「挨拶をし、」というのは、直訳すると、「立ち上がってひれ伏す」という言葉である。挨拶上の駆け引きが始まった。人間ヘトの言い分をごく当然のように受け対応しようとした。 

8節である。「(アブラハムは)頼んだ。『もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォルの子、エフロンにお願いして、~』」という。ここに「亡くなった妻」と翻訳されているが、その原語は「わたしのマウト」であり、その「マウト」の意味は「死人」である。したがって口語訳は原文に忠実に「わたしの死人」と翻訳している。 

たとえそうでなくても、キリスト教会では、一般に、「亡くなった」という日本語を使わない方がよい。キリストが死人の中から復活されたからである。死人となれたキリストの遺体に布を巻きつけて葬るための用意をしてあったが、イエスはその布をそのまま証拠物件として墓に残して、復活された(ヨハネ20・6)のでありました。


牧 会 通 信

2016-06-10 07:51:39 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その14) 

◯他の霊たちのやうに、わたしら自身の抜殻(ぬけがら)を取りに行くだらうが、しかしまた着るためではない、自ら取去つたものをもつのは正しくないのだから。

  わたしらは脱穀をここへ引きずつてくるが、この暗鬱な森の中で肉体はそれぞれ、自身の残酷な霊の茨に吊されるだらう。」

  まだ外のことを言ふつもりなのだと思ひこんで、わたしらが幹のそばで待受けてゐると、不意打の騒音に愕(おどろ)かされた。(ここまで前回)

◯自分の持場に猪と猟犬が走つてくるのに感づくもの、野獣が葉繁みをガサガサさせるのを聴きつけるもののやうに。

  すると左側からまる裸で引つ掻き傷だらけの二人が激しく逃げてきた、森の妨害する枝をみんなボキボキ折りながら。

  先立つものが、「さあ走れ、走れ、死だぞ!」と叫ぶと、あまりにもうんと遅れているように見えた、もう一人が叫んだ、「ラノ(トッポの戦いでフィレンツェの町を助けて出征し戦死)、お前の足は(つづく)

 

◯2016年6月5日は第二十三主日、三位一体後第二主日という。日聖協「聖書愛読こよみ」は「教会の秩序」という主題。聖書はⅠコリント12・1~10節で

ある。その7節、「一人一人に〝霊〟の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」という。キリストの教会にはいろいろな人が集められる。但しだれでも

ではない。神の厳正な選びによって集められる。それで、教会の人には、「ある人には〝霊〟によって知恵の言葉」(8節)のように。神は秩序正しくその働きを

全体の益となるように用いくださる。

◯写真は教会に咲いている紫陽花。写真撮影6月2日15時。A・N