日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2016-11-22 20:21:37 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)       ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その4)

◯わたしらを熟視し、老いた仕立屋が針の穴を覗くやうに、わたしらに向つて眼を鋭くした。

 わたしはこの一族にそのやうに凝視されてゐたが、その一人がわたしを見分け、わたしの裾を掴んで叫んだ、「なんと愕くべきことだ! 」

そのものの腕がわたしの方へ伸ばされたとき、わたしはそのものの焼けた顔に目を凝らしたが、(前回ここまで)

◯その焼け焦げもわたしがそのものを見分けるのを妨げなかつた。わたしは片手をそのものの顔の方へ下げて答へた、「あなたが、ここに、セル・ブルネット?」(ブルネットは高名な学者、「セル」はその尊称)、

すると答へた、「おお、わが息子よ、ブルネット・ラティノがそなたとともに少し後戻りして、この縦列を先に行かせても、不快に思はないでほしい。」(ブルネット・ラティノは千二百十年頃フィレンツェに出生)

わたしは言つた、「出来るかぎり、さうして下さい。あなたとともに坐れと言われれば、わたしの道連れが許ししだいさうしましせう。」

 (つづく)

本日、2016年11月20日は第四十七主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「感謝せよ」という主題。聖書はコロサイ2章6~7節その7節、「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれる

ばかりに感謝しなさい。」という。「あふれるばかりに感謝」とは、キリスト信仰をもつ者の基本であり、言葉であろうと行いであろうと、その心を神に向けるときに起こる。

◯写真は、先週11月13日、沖縄伝道所に、宜野湾の人々四人が合して、まず問安の辞を述べられました。この後の昼食会です。


プロテスタントとカトリック 

2016-11-17 02:43:04 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(388)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その27)

⒖.マルクス・レグルスは、宗教的信仰のゆえに喜んで捕囚に堪えた人々の偉大な範例である。しかし彼の異教的信仰は、彼からその益を奪い取ってしまった。

さらに、もしも神々の祭儀が、のちの世での報いとして幸福を与えるものであるとすれば、なにゆえ彼らはキリスト

教を非難し、ローマがこのような災害に会ったのは神々への礼拝を(前回はここまで)止めたからだ、と言い立て

るのであろうか。事実は、レグルスのごとく、もっとも熱心に神々を信仰した者にさえ、あのような不幸が襲い掛か

りうるのである。もっとも、ある種の狂人たちは驚くほどの盲目からして、「なるほど個々人は不幸に陥ることが

あっても、神々を礼拝する町全体が不幸に陥ることはない。」と強弁するであろう。これではまるで神々の力は

多くを救えるが、ひとりは救えないとでも言うようなものである。全体が個から成り立っていることはだれでも

知っている。

  しかしながら、目下の問題はキリスト信者が捕虜となっていることである。厚顔無恥に、また無思慮にもわた

たちのいとも健全なる宗教を嘲弄する者どもは、このことに耳を傾け、黙すべきである。神々のもっとも熱心

な礼拝者であり、その名によって立てた誓いを守った者が、その祖国から追い出され、どこでも市民権を拒ま

れ、捕われとなり、そして未曾有の残酷な拷問によるゆるやかな死によって殺されたことが、神々の不名誉と

ならないとすれば、聖~(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2016-11-17 02:39:49 | 大分中央ウィークリー

創世記24章9節である。「そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。」と。ここで、逆に5節の僕の言葉「娘が~来たくないというかもしれない」という言葉を思い巡らすと、このアブラハムの僕に与えられた責任が非常に大きかったことが分る。ためらうのも当然であろう。しかし、僕は、「主人アブラハムの腿の間に手を入れ」誓うことになった。彼は決心した。偉大な決心であったとしておきたい。ためらいを越えて神のみ心にゆだねる決心をしたからである。

 

アブラハムは何を考えていたのか。彼は、6節の言葉を再び繰り返して、「ただわたしに息子をあちら(「故郷」12・1)へ行かせることだけはしてはならない」と。アブラハムの心の中は神の約束への信頼が強かった。自分の子孫も、すべてカナンの未知の土地を受け継いで行かねばならないという覚悟と決心である。杜甫の漢詩に、「男子、一端志を立てて、郷関を出ずれば、死すとも帰らず」と。どこが違うのか。

 

10節である。「僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向って出発した。」という。「主人から預かった高価な贈り物」とは、イサクの嫁となる娘と彼女の数句に対する贈り物である。22節と53節にその内容が分るようになっている。それにしても豪華なもの。その心意気が現れている。

 

イサクがこの大旅行に同行しなかった。それは僕への信頼関係が強かったことを現している。一切を任せて送り出したのである。それだけでなく大事なのは神の約束の地をカナンと決めて、一歩も譲らない6節と8節の言葉の神信仰の堅さがある。


牧 会 通 信

2016-11-17 02:02:42 | 大分中央ウィークリー

 

ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その3)  (原 光訳 2000年、沖積舎)

◯それとそつくりにこの堤は造られてゐた、それほど高くも大きくもなかつたが、いかなるものにせよ、造つたのは大家だつた。

すでにわたしらが後を振向いたとしても、森のあつたところが見られまいほど、森から遠ざかつてしまつてゐたとき、

わたしらは堤に沿つて来る霊たちの一群に出会つた、その一人一人が夕暮に新月の下で、人が他人を見詰めるやうに (前回ここまで)

◯わたしらを熟視し、老いた仕立屋が針の穴を覗くやうに、わたしらに向つて眼を鋭くした。

 わたしはこの一族にそのやうに凝視されてゐたが、その一人がわたしを見分け、わたしの裾を掴んで叫んだ、「なんと愕くべきことだ! 」

そのものの腕がわたしの方へ伸ばされたとき、わたしはそのものの焼けた顔に目を凝らしたが、(つづく)

 

本日、2016年11月13日は、第四十六主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「希望」という主題。聖書はⅠコリント15章50~58節、その54~55節、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利は

どこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と。死はわたしたちに最後の敵である。キリストは復活してこれに勝利された。もはや死は恐れではなくなった。それは神の国への入り口である。人生8

0年(詩90・10)という。今日80歳を超える人が多くなった。多くの人はその人生のしとむきあわねばならない。しかし、十字架のイエスを信じて、その信仰によって大きな希望と向き合われよ。

 ◯写真は、先週11月3日、福岡城南教会で開催されたヤスクニ学習会での昼食時。それぞれ弁当で腹ごしらえ。前方スクリーンにこの後ビデオ上映。


プロテスタントとカトリック

2016-11-08 04:37:21 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(387)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その26)

⒖.マルクス・レグルスは、宗教的信仰のゆえに喜んで捕囚に堪えた人々の偉大な範例である。しかし彼の異教的信仰は、彼からその益を奪い取ってしまった。

このような勇気はまさしく賞賛に値する。これが示されたのが、恐るべき状況の下に(前回はここまで)おいてであっただけに、その勇気はいっそう偉大である。彼は神々によって誓った。そしてその神々への礼拝を怠ったことが、人類に降り

かかったこれらの災難の原因だとわたしたちの敵は言い立てている。これらの神々への礼拝は、実はこの世での繁栄をかち取ることを望んでであった。しかし、神々がその立てた誓いに忠実であった者にすら、このような苦難が降りかかる

ことを意に介しなかったとすれば、偽りの誓いを立てる者に対して怒りを発する場合には、どのような重い刑罰を加えることであろうか。

   少なくともレグルスの実例は、神々の礼拝者に対し、この世の幸福を手に入れる助けにはならないことを示している。深く神々に帰依して仕えた者が、鎖につながれて連れ去られたのである。そして彼が神々によって立てた誓いを破ろうと

はしなかったばかりに、彼は前代未聞の苛酷な方法で虐殺されたのである。さらに、もしも神々の祭儀が、のちの世での報いとして幸福を与えるものであるとすれば、なにゆえ彼らはキリスト教を非難し、ローマがこのような災害に会ったの

神々への礼拝を~(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)