創世記24章8節である。「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」という。確かに神の約束を信じて待つという
堅い信仰があるが、それにもかかわらず、何が起こるか実際にはわからないというのが、われわれの人生とこの世の現実である。
それゆえ「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、」と前置きが必要になって来る。こちらの思いや願いがかなわなかったときのことを考えておかねばならない。女の側に連れて行かれることだけは避けてほしいと。願いでは
ない、「この誓いを解かれる。」という。そこで僕の嫁探しの勤めは終わるのであった。
9節である。「そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。」と。ここで、逆に5節の僕の言葉「娘が~来たくないというかもしれない」という言葉を思い巡らすと、このアブラハムの僕に与えられた責任が非常に大
きかったことが分る。ためらうのも当然であろう。しかし、僕は、「主人アブラハムの腿の間に手を入れ」誓うことになった。彼は決心した。偉大な決心であったとしておきたい。ためらいを越えて神のみ心にゆだねる決心をしたからである。
アブラハムは何を考えていたのか。彼は、6節の言葉を再び繰り返して、「ただわたしに息子をあちら(「故郷」12・1)へ行かせることだけはしてはならない」と。アブラハムの心の中は神の約束への信頼が強かった。自分の子孫も、すべてカ
ナンの未知の土地を受け継いで行かねばならないという覚悟と決心である。杜甫の漢詩に、「男子、一端志を立てて、郷関を出ずれば、死すとも帰らず」と。どこが違うのか。