日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2016-11-08 04:33:46 | 大分中央ウィークリー

創世記24章8節である。「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」という。確かに神の約束を信じて待つという

堅い信仰があるが、それにもかかわらず、何が起こるか実際にはわからないというのが、われわれの人生とこの世の現実である。

 

それゆえ「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、」と前置きが必要になって来る。こちらの思いや願いがかなわなかったときのことを考えておかねばならない。女の側に連れて行かれることだけは避けてほしいと。願いでは

ない、「この誓いを解かれる。」という。そこで僕の嫁探しの勤めは終わるのであった。 

 

9節である。「そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。」と。ここで、逆に5節の僕の言葉「娘が~来たくないというかもしれない」という言葉を思い巡らすと、このアブラハムの僕に与えられた責任が非常に大

きかったことが分る。ためらうのも当然であろう。しかし、僕は、「主人アブラハムの腿の間に手を入れ」誓うことになった。彼は決心した。偉大な決心であったとしておきたい。ためらいを越えて神のみ心にゆだねる決心をしたからである。

 

アブラハムは何を考えていたのか。彼は、6節の言葉を再び繰り返して、「ただわたしに息子をあちら(「故郷」12・1)へ行かせることだけはしてはならない」と。アブラハムの心の中は神の約束への信頼が強かった。自分の子孫も、すべてカ

ナンの未知の土地を受け継いで行かねばならないという覚悟と決心である。杜甫の漢詩に、「男子、一端志を立てて、郷関を出ずれば、死すとも帰らず」と。どこが違うのか。


牧 会 通 信

2016-11-08 04:27:20 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その2)

◯いまやわたしらは堅固な緑に支えられて行く、小川の水蒸気が上に蔽ひかかり、火から水と堤を守つてゐる。

 フィアミンゴ人はグイツァンテ(現在フランス領、北東地域の、カレーの近く、西端)とブルヂア(現在ベルギー領、東端)の間(約65哩)で、襲ひかかる波浪を恐れて、海が押し返されるように堤防を築き、

 またバドヴァ人はブレンタ川に沿つて、キアレンタナが熱を感じて雪解する前に(バドヴァの北の山地で、ブレンタ川の水源地、その雪解水)、自身の市(まち)と城を守るためにさうしたが、(前回ここまで)

◯それとそつくりにこの堤は造られてゐた、それほど高くも大きくもなかつたが、いかなるものせよ、造つたのは大家だつた。

すでにわたしらが後を振向いたとしても、森のあつたところが見られまいほど、森から遠ざかつてしまつてゐたとき、

わたしらは堤に沿つて来る霊たちの一群に出会つた、その一人一人が夕暮に新月の下で、人0が他人を見詰めるやうに (つづく)

◯本日、2016年11月06日は、第四十五主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「終末の審判」という主題。聖書はⅡテサロニケ2章1~12節、その12節、「真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」といいう。一

般社会で道徳的に何が真理で、何が不義なのかの区切り線を明確に引くことは難しい。しかし信仰の世界での見分けは易しい。イエス・キリストが真理の基準であるから。神の御独り子イエスに反抗するものは皆不義である。つまりイエ

スを愛し、従う者は皆、真理を行う人であるということができる。

◯写真は、去る10月12日、蒲田御園教会で開催された靖国神社問題全国協議会で「戦争のできる国へー何を持ってかー」を講演する島田善次先生。