日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2017-01-17 18:55:03 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)   ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その12)

◯いまわたしをいたく悲しませるからです、わたしがあれをどんなに尊重してゐるか、わたしが生きてゐるかぎり、わたしの言葉でそれを見分けられるやうにせねばなりません。

   わたしの行末について話されたことをわたしは肝に銘じて、そばに着いたら真実を知つてゐる婦人に説き明してもらふために、他の言葉とともに貯へておきませう。

これだけはあなたにきつぱり言つておきたい、わたしは良心の呵責を感ぜぬかぎり、どんな運命にも屈せずにゐられます。(前回ここまで)

◯そのやうな予言はわたしの耳には新しくない、だから運命は好きなやうに車輪を回すがいいのです、農夫が鍬を振り回すやうに。」

  そのとき師は右頬の方から後を振向き、わたしを見詰めて、それから言つた、「肝に銘じるものは良い聴き手だ。」

  それでも同じやうにセル・ブルネットと話しつづけて歩き、わたしは訊いた、もつとも名高く、もつとも卓越した仲間は誰か、と。 (つづく)

 

◯本日、2017年1月15日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「信徒の成長」という。聖書の箇所はⅡペトロ3章14~18節である。その18節、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」

という。この「成長しなさい」を口語訳聖書では、その意味を汲み取ってであろうか「豊かになりなさい」と意訳した。心が広く、考えるようになるのであろうと思われる。

写真は、1月12日(水)初週祈祷会を祝すような元気な生け花である。初めて初週祈祷会に出席されたひとりの求道者を祝福するかのように窓から入る太陽の光によって、輝きの光を発つていた。


プロテスタントとカトリック

2017-01-10 21:41:33 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(395)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その35)

23.カエサルの勝利を見るにしのびず自殺したカトーの場合。

24.レグルスがカトーに優るように、キリスト信者はさらにレグルスよりもすぐれている。(前回はここまで)

25.わたしたちは他の罪を犯すことによって、一つの罪を避けようとすべきではない。

  確かにわたしたちの肉体が情欲の誘惑によってこころを罪への同意へと誘わないように、いやが上にも注意深くあらねばならない。「わたしたちが言っているのは、まさにそのことだ」とわたしたちの敵は主張する。「われわれが自分の生命

を断つのはだれか他の人の罪のためではなく、自分自身の罪のゆえである。すなわち、それを犯すことを避けるために、われわれは自殺する」。答えはこうである。すなわち、こころが本能的情欲に屈することは決して許されない。そのような

情欲は、少なくとも肉体とその欲望よりも神とその知恵とに従順である人の場合には、肉体がだれか他の人によって挑発されるときに起こるのである。

  自殺が憎むべき行為であり、嫌うべき犯罪であるとすれば―事実その通りなのであるが―いったい愚かにもこう言う者はだれであろうか。「のちになって姦淫の罪を犯すことがないように、さあ人殺しをしようではないか」。もしも不義がかく

もはびこり、わたしたちが罪なきことよりも罪を選ぶことになるとしても、~

(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-01-10 21:03:18 | 大分中央ウィークリー

創世記24章17節である。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。『水がめの水を少し飲ませてください。』」という。いよいよそのときが来た。待ちに待ったそのときである。「僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた」と。相手

にびっくりさせないように、優しく話しかけたのであろうか。その口から出てきた言葉はなんども心の中で反芻していた言葉のようである。いかにも咽が渇いて旅人のようにであろう。

 

彼女が泉に来るときから水がめを肩に載せてやって来た(15節)のであるから、水がめに水を満たして上がって来るときは、重いのを肩に担いで上がって来たのであろう。それを飲ませてほしいと頼むのであるから、頼む方としては、よほど

丁重な頼み方でないとその要求を叶えられなかったかもしれない。霊的な意味で一つの戦いの瞬間である。いま、神のときの一瞬である。言葉以上のことに心を向けられたい。

 

18節である。「すると彼女は、『どうぞ、お飲み下さい』と答え、すぐに水がめを下して手に抱え、彼に飲ませた。」という。このようなときの対話では、最初の言葉が最も大事である。そこで親しみのある聖書の口語訳を見ると、「すると彼女は

、『わが主よ、お飲みください』と言って、」となっている。この「わが主よ、」をほんやくせずに「どうぞ」では、不十分である。

 

「わが主よ、」という呼びかけは、この中東地域では堅苦しい言い方ではない。目上の者への親しみと信頼を現すやさしい言葉である。それゆえ大役を背負っていた彼に、一種の安心感が湧くと共により慎重になったのかもしれない。何時ど

んなタイミングで本音に入っていくのかであった。彼女の次の言葉を待ったのであろう。


牧 会 通 信

2017-01-10 20:32:12 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その11)

◯あれほどひどい邪悪の巣がつくられたとき、あすこにとどまつたローマ人の神聖な種がその中に蘇(よみが)るにのだから。」

「わたしの願ひがすつかり叶えられたら、」とわたしは答えた、「あなたはまだ人間の生(いき)身から追放されずにゐたでしせう、

かう言ふのもあなたがあの世界で時折、人間が不滅になる術(すべ)をわたしに教えて下さつたときの、あの慈父のやうな懐しく親切なお姿がわたしの心に焼きついてゐて、(前回ここまで)

◯いまわたしをいたく悲しませるからです、わたしがあれをどんなに尊重してゐるか、わたしが生きてゐるかぎり、わたしの言葉でそれを見分けられるやうにせねばなりません。

   わたしの行末について話されたことをわたしは肝に銘じて、そばに着いたら真実を知つてゐる婦人に説き明してもらふために、他の言葉とともに貯へておきませう。

これだけはあなたにきつぱり言つておきたい、わたしは良心の呵責を感ぜぬかぎり、どんな運命にも屈せずにゐられます。~(つづく)

 

◯本日、2017年1月8日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「世の光」という、聖書の箇所はマタイの福音書5章1~12節である。いわゆるイエス・キリストの山上の説教の始まりである。八福の教えとしてよく人に知られてい

る。福袋の中の一つは、何か、第一の「幸い」(福)は、3節、「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである。」という、どういう意味であるのか。しょっぱなから、考えさせられる。いいことのようであるが、しかと分らない

というのが正直な感想で

はなかろうか。年の初めだからよう考え

て頂きたい。暗き世を燦然と照らす「光」

があなたの心の中にある。どんな「光」。

写真は、1月1日(日)元旦主日礼拝

後の、日曜学校生徒二人である

しいチャンネル


プロテスタントとカトリック

2017-01-06 00:06:46 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(394)      近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その34)

⒙ 他人によって加えられた情欲の暴行は道徳的悪事であろうか。肉体はそれを忍ぶように強いられても、こころは同意を与えることなしに堪え忍ぶのである。

 もしも慎みというものがこのような種類のものであるとすれば、なぜそれを失う恐れがあるからと言って、われわれの生命そのものまでも危険に曝さなければならない道理が(前回はここまで) あろうか。もし慎みがこころの美徳であるならば、たとえ肉体は強いられることがあっても、それを失うことはあり得ない 。さらに、慎みの美徳が不順な欲望の汚染的影響に屈することを拒絶するとき、それは肉体そのものまでも聖化する、というのが慎みの特性である。それゆえに、こころがこのような汚れた思いに屈することをひたむきに拒み続けるならば、肉体そのものもその貞節を失わない。なぜなら、意志は肉体を慎み深く用いようという意図を堅持し、能う限り努めるからである。…

19.ルクレティアはその貞操が汚されたというので自決して果てた。  20.どのような状況の下においても、キリスト者に自らの生命を断つ権利を与える者は存しない。  21.人を殺すことはいつでも殺人罪になるとは限らない。  22.自殺は必ずしも精神の偉大さのしるしではない。  23.カエサルの勝利を見るにしのびず自殺したカトーの場合。24.レグルスがカトーに優るように、 キリスト信者はさらにレグルスよりもすぐれている。(つづく)~(教団出版「神の国」出村彰訳1968)