司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は微苦笑を誘う話で幕を開ける。パリへ向かう列車の揺れはひどく、腰掛ける日本人男性の体にこたえた。窮した男性は人目を盗み、座席でさっと済ませる。丸めた新聞紙は窓からポイ。万事、秘密裏に運んだはずが…。
▼この「不法投棄」は翌日のパリの紙面を飾る。投げ捨てた紙は保線夫に命中、物証が地元の警察に持ち込まれた。犯罪のニオイをかぎ取った警察によれば、「これ(新聞紙)は日本文字なり、投げた者はおそらく日本人なるべし」。明治5(1872)年冬のことだ。
▼騒動の主はフランスの警察機構を視察中の川路利良(かわじとしよし)だった。後の日本に警察制度を構築し、初代大警視(警視総監)に就く大物である。極東から遠い地の道すがら、悪意もない。かき捨て御免の恥だが、騒ぎの火元が自身では、鼻で笑うわけにもいかなかったろう。
▼当節は鼻をつまみたくなる類いの110番通報が多いらしい。警察庁の発表では昨年1~11月に受けた通報の約4分の1が、不要不急のものだった。「あんなロクでもない男、もう我慢できない」「いいから早く来て!」等々(橘哲雄著『ふしぎな110番』彩図社)。
▼3・4秒に1件、どこかで誰かが助けを求めた計算だという。車中で急を告げた川路の生理現象のように、不意のトラブルは人から正常な判断を奪うものかもしれない。事件か事故か、急を要するのか否か。指を動かす前に、おのが鼻を利かせ、分別を働かせたい。
▼寒気凛冽(りんれつ)、身の引き締まる冬の朝だ。気の利かない小欄の書き出しに、機嫌を損ねた読者がおられるかもしれない。念のため「悪意なし」と断っておくが、「駄文(正しくは悪書)にまさる泥棒はなし」との通報は、どうかご勘弁を。
【産経抄】 1月11日