今日から寺山修司の交友録を掲載する 第1回は幼少年時代の写真・逸話など
青森市の聖マリア幼稚園の頃の寺山修司(中央)
1941(昭和16) 5歳 真珠湾攻撃 太平洋戦争
青森市内の聖マリア幼稚園に入園
当時の担任教諭稲田ヨシエによる母ハツと修司の印象~Youtube音声要約
"お母さんは にこりともしないお母さんで 厳しいお母さんという印象"
"修司君はくりくりした目の 人懐っこい笑顔の可愛い子
上下揃いの柄の洋服 半ズボン姿 が長身によく似合う都会っ子の印象
在園児とまるで以前から知っている友達のようにすすんで仲間に入った
小さい子供たちにも親切で世話好きだった
途中から入ってきた子供とは思われない程 周囲の雰囲気に早くとけこみ
皆と仲良く遊ぶ 社交性の豊かな 活動的な 朗らかな子供だった"
修司は日曜日には聖アンドレ教会の日曜学校にもを運んだ
(聖マリア幼稚園は 教会の付属幼稚園)
彼は礼拝よりも カラフルに着色したゆで卵を貰うことが目的だったらしい
1942(昭和17) 6歳 ミッドウェー海戦
青森市立橋本小学校に入学
1945(昭和20) 9歳 ソ連参戦 ポツダム宣言受諾
青森市大空襲で被災 三沢市に転居し 古間木小学校に転入
この年 父が戦病死する
古間木小学校卒業時の写真
1948(昭和23) 12歳 帝銀事件 太宰治入水自殺
古間木中学校に入学する(画像省略)
青森の親戚(映画館~歌舞伎座)に身を寄せ 野脇中学校に転入
青森市の洋画専門映画館・歌舞伎座~修司は泳者スクリーンの裏側の部屋で起居していた
修司と右:中村慶一(幼稚園・小学校時代からの友人)~「寺山修司と青森の街」より転載
画像と同じサイトから 中村慶一による修司の逸話の要約記述
"私の家が学校から一番遠く まず歌舞伎座に寄って寺山を誘い
次に田中明(修司の俳句仲間)の家に寄り 3人揃って通学した
下校時は途中にある駄菓子屋によく寄った
寺山は なぜか当たりクジを見つけるのがとても上手かった"
今日はここで終わり 明日またお会いしましょう
[Rosey]