遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

こんな人がいた~「杉並シリーズその5 寺山修司その3 九条映子との出会い」

2023年10月20日 | 読書



 昨日 「乾いた湖」のPV動画Youtubeを紹介した
 寺山修司脚本 篠田正浩監督の長編映画である


篠田正浩 1931(昭和6)ー 映画監督・(株)表現社代表 

1960(昭和35)年 修司24歳 (新安保条約を可決) 
 篠田監督の下で映画に出演していた女優九条映子に篠田から電話が入る
 篠田と寺山は神楽坂の旅館に泊まり込み 「乾いた湖」の脚本を練っていた
 「飯田橋の駅まで来られないか? エコのファンの作家が一緒なんだけど」

 その日 映子は撮影の予定が無く 妹と住む渋谷の家を出て飯田橋に向かう
 作家と聞くと イコール「白髪の老人」のイメージしか浮かばない映子
 「よろしく」と照れながら挨拶する寺山に ドギマギしながら「よろしく・・・」
 と見て来たようなことを書くが 映子の回想記の超要約記述なのでご容赦!
 これが二人の馴れ初めのいきさつだった


九条映子1935年(昭和10)-2014(平成26) と寺山修司1935(昭和10)-1983(昭和58) 

1961(昭和36)年 25歳(ベルリンの壁崩壊)
 四谷左門町に転居し母親と同居して暮らす
 修司は映子と知り合ってから 渋谷の彼女のアパートに毎朝9時に顔を出す
 修司が予定表を拡げると10時有楽座と書いてある
 「珈琲早くね!」 「分かったわよ」 文句を言いながら姉妹は修司に尽くした

1962(昭和37)年 26歳(東京の人口が1億人を突破)
 翌年の結婚に備え 映子が新居を探し始める
 「条件は 3部屋 電話が使える 静かな場所 犬が飼える 家賃2万円以内
 来春結婚ですが物件があればすぐに拝見します 近年中に家も建てる予定
 そのことについてもアドバイスいただければ幸いです」
 という内容を週刊新潮の”掲示板”欄に載せてもらった
 映子は人気女優 修司も売れっ子の脚本家・・・週刊誌も便宜を図ってくれた?
 そして杉並区和泉3丁目に新居が見つかった (※)

 ※ここで寺山修司と杉並の縁も生じた
 なお和泉3丁目の最寄り駅は 京王電鉄井の頭線の永福町駅
 西へ行くと7駅ほどで終着の吉祥寺となる 

1963(昭和38)年 27歳(ケネディ大統領暗殺 )
 吉祥寺カソリック教会で九条映子と結婚式を挙げる 



本日はここまで 明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその4 寺山修司その2 早大時代&五月よふたたび」

2023年10月19日 | 読書




1954(昭和29)年 寺山修司18歳(以下 修司と書く)は早大国文科に入学する
 修司は俳句研究会の新入生歓迎会に顔を出した
 10人ほどの新入生を含めて30人ほどが集まっていた
 句会では各自が自分の名前を伏せて短冊に5句ずつ書く 

 それらを集めてシャッフルし 全員分を紙に書き写して全員に回す
 30人なら全部で150句 そのうち各自が佳いと思う句を5句づつ選ぶ
 より多くの会員が選んだものから上位5句が その会の秀句というわけだ

 1句読み上げるたびに 「これは誰の句?」と訊く
 「スウズ」と会場から声が上がる 「名前だけじゃなく苗字から言って!」
 「寺山修司です」・・・選ばれた5句中 4句がスウズの作品だった

 同席した中に修司より2年先輩の学生がいた
 彼も将来は俳句で身を立てようと ジオノ 俳号を自らにつけていた
 「色黒のサトイモみたいな田舎出の子がこんな素晴らしい句を作るのか・・・」

 彼は俳句の道を諦め これも好きだったジャズ評論家の道を行く
 この学生が後のテレビ司会者・放送作家etc.が知られる大橋巨泉である

1955(昭和30)年 19歳
 3月 修司はネフローゼ(腎臓の病気)で立川の病院に入院する
 なぜ立川? 母のハツが立川の米軍キャンプで働いていたからだ
 2ヶ月ほどで退院した後は高田馬場に下宿する
 6月 ネフローゼが再発 西大久保の社会保険中央病院に再び入院する
 ここでの闘病生活が3年余り続く
 その入院中 修司が書いた戯曲が早大で上演された
 それを見て「凄い才能だ!」と感嘆したのが詩人の谷川俊太郎
 (氏については10月挙5日の「詩のボクシング対決」参照)
 氏は入院中の彼を見舞いに訪れ 彼にラジオドラマのシナリオ執筆を勧める
 これが二人の詩人の交遊の始まりだった

1958(昭和33)年 22
 7月 社会保険中央病院を退院 新宿区諏訪町に居を移す
1960(昭和35)年 24

ここまで書いたら 彼の没後に作られた彼の動画がYoutubeにあった
私がヘタな超要約記述など書くより、ビジュアル作品が彼にはふさわしい


それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその3 寺山修司その1 序奏」

2023年10月18日 | 読書


杉並シリーズ 今日からこの人をとりあげる


寺山修司 1935(昭和10)-1983年(昭和58) 歌人・劇作家

私は珈琲好きで 20代初めの頃はよく珈琲店に行っていた
或る日 行きつけの珈琲店に一冊の雑誌が置いてあった
モカのストレートを飲みながら捲っていると 一首の短歌に出会った 

"ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし 寺山修司"
彼の名前は知っていたが 短歌を読んだのは初めて
特集記事だったのだろうか 次の一首も載っていた記憶がある

"マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや"
短歌としてはこちらの印象のほうが強烈!
マッチを擦る 海と霧 身を捨てる 祖国への懐疑・・・
繋がりの無い言葉の組み合わせが なぜこれほどの哀愁・哀感を漂わせるか?

この歌は 剽窃・盗作と騒がれた 既存の俳句を組合わせただけというのだ
例えば既存の句には次のようなものがある
"一本のマツチをすれば湖は霧" 
"めつむれば祖國は蒼き海の上"
"夜の湖あゝ白い手に燐寸の火 "

しかし 同じ言葉が使われているから剽窃・盗作というのは早計だ
組合わせただけ・・・というのも論外だろう
寺山修司は つかのま・身捨つる・祖国・あり(や) を加えて別の世界を創った
・・・と青二才の私は考えて彼に関心を持つようになった

とはいえ寺山ワールドは果てしなく広い 彼にはこんな歌もある
”麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース”

他にもボクシング・競馬(馬主にもなった)など多々あるが 今日は序奏
寺山修司作詞 田中未知作曲 唄カルメン・マキ「時には母のない子のように」
を聴いてお別れする 


それでは明日またお会いしましょう
[rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその2 北原怜子・蟻の街のマリア」

2023年10月17日 | 読書


今日は予定を変えて詩人でも小説家でもなく画家でもない人を紹介する
杉並にゆかりの人物を調べていたら 北原怜子(さとこ)という名があった

1950年代 墨田川の言問橋近くの西岸に「蟻の街」と呼ばれる集落があった
戦争から帰還した軍人らが集い 廃品回収で生計を立てる貧しい集落だった
自身、裕福な家庭に育った怜子は 偶然ゼノという神父と知り合う

そのことがきっかけで彼女も「蟻の街」に暮らし 病身の身でありながら
バタヤ(廃品回収業)も経験 地域の子供たちや人々の自立のために活動する

 
北原怜子1929(昭和4)ー1958(昭和33)  社会奉仕家

彼女の人生は映画にもなっているというので Youtubeを検索した
見つかったが なぜかイタリア語吹き替え版だけ
日本映画を日本語で見られないのは 日本の国だけではないか・・・
機械翻訳もできるが殆ど意味不明
それでも観たい人は Maria del Villagio delle Formiche でYoutube検索を

 受洗後の北原怜子

しょうがない 集めた情報をもとに超要約記述するか・・・
未練がましくYoutubeを探していたら 格好のテレビ番組が見つかった
「知ってるつもり」・・・リアルタイムで観た記憶のある番組 お~懐かしい!


舞台劇にもなっている

蟻の街の軌跡」~By 劇団東芸による1953年公演舞台

最後になったが北原怜子と杉並との所縁
怜子は杉大学教授の父の三女として杉並区南阿佐ヶ谷に生まれた
(のち同区松ノ木に移転) 
戦時中 姉の嫁ぎ先の浅草の下駄屋に寄宿
そこで怜子は運命の出会い・・・ゼノ神父や蟻の街を知ることになった

北原玲子の紹介はここまで 明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~「杉並シリーズその1 井伏鱒二 さよならだけが・・・」

2023年10月16日 | 読書

オキザリス 撮影日:2015/10/19 撮影場所:近くの親水公園


今日から杉並シリーズとして、杉並にゆかりのあった人たちを取り上げる
杉並に住んでいた頃は知らなかった人も大勢いる
今日は阿佐ヶ谷文士村の村長?だったこの人
 
井伏鱒二(いぶせますじ) 1898(明治31)-1993(平成5年) 小説家

うろ覚えだが・・・さよならだけが人生だ の詩の断片だけ記憶に残っている
調べてみたところ 漢詩の翻訳だった タイトルは「勧酒」
漢詩文は次のとおり
《勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離》

私には読めないし 内容も殆ど理解できない 井伏鱒二の訳詞の出番だ
元の訳詞文はカタカナ文字が主体だが 漢字かな交じり文に変えた
《この盃を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ
 花に嵐の喩えもあるぞ 「さよなら」だけが人生だ》 

「春暁」は漢文で習った記憶がある 一とか二とかレ点とかついたやつ・・・
《春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少》
 最初のフレーズは 春民(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず・・・あとは忘れた

井伏鱒二の訳詞
⦅春の寝覚めのうつつで聞けば 鳥の啼く音(ね)で目がさめました 
 夜の嵐に雨混じり 散った木の花いかほどばかり》

目がさめた とすればいいのに 目がさめました と来る
この思いがけなさが 散文も含めた井伏文章の特色の一つ
そして平易な日常使う言葉で語り 難解な言葉遣いを避ける
というのが私の素人考えなのだが・・・ 

このあたりで井伏鱒二の作品を紹介するのが通例
だが 著作権保持期間中なので 青空文庫化されていない
そこで他の人が井伏に言及した青空文庫作品を2点紹介する


今日の終わりに井伏鱒二のインタビュー映像があったので共有する

明日は 阿佐ヶ谷文士村のエピソードを紹介する予定
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]