怒らないということは、慈悲の心を育てるということです。
やさしい、思いやりのある、差別しない、穏やかで平和で強い心を育てる。怒らないということは、智慧があるということです。理解しているから、怒る必要がないし怒りも生まれない。わけが分からなくて笑ってごまかす(心の中では焦ってる)、というのとは違います。よくわかってるからいつでも明るく穏やかでいられるということ。
でも、全然腹を立てない、いつも明るく落ち着いているって無理な話だよね~。怒りは人間の本能だからね~。
そうなんですよね~。でも、努力してみる価値がある。
挑戦しないで、本能のままに嫌な思いをしながら生きるより、気分良く生きていきたい。短い人生なんだから、いつ死ぬかもわからないんだから、どうせなら機嫌良く生きていきたいと思うのです。とにかく、怒りの時間がもったいない。人生を浪費したくない。怒らなくていいのに、怒ってしまうのは、もったいないのです。
ワタシは1秒も怒りたくないのです
てことで、、、
中部経典『ノコギリのたとえ』のつづきです。
次に、お釈迦様はあるエピソードを紹介します。穏和な人柄で評判のよい貴婦人ヴェーデーヒカーのエピソードです。
彼女は世間で「おだやかで、つつましやかで、ものしずか」と評判の貴婦人でしたが、本当にそういう性格なのか、ただの世間の噂にすぎないのではないかと疑問に思った女奴隷カーリーが試すのです。カーリーはとても有能で勤勉な奴隷でした。
そこである日、ちょっと朝寝坊をしてみます。そんなことは女主人ヴェーデーヒカーに仕えて初めてです。女主人が寝坊の理由を聞くと「何でもありません」と答えます。すると、女主人は「何もないのに遅く起きてくるとは」と機嫌を悪くし嫌な顔をしました。
次に、もっと遅く起きてみました。理由もないと答えると、女主人は怒り、機嫌を悪くして、声を荒げて不快な言葉を投げつけてきました。さらに試してみようと、もっと遅く起きて理由もないと言うと、なんと彼女は激怒し、棒でもってカーリーの頭を殴ったのです。
女主人は、カーリーが優秀で勤勉で落ち度がないので、今まで怒る機会がなかっただけだったのです。
このことを知った世間の人々は、寝坊したことくらいで弱い奴隷を虐待する恐ろしい人だと、評判は地に落ちてしまいました。
主人を試すカーリーもどうかとは思いますが、このエピソードは「本当に怒らない人」、「本当にやさしい人」というのはどういう人かということを教えてくれています。つまり、
>「怒らない」というのは、悪い条件の中で怒らないこと
>良い条件の中で「私は全然怒りません」と言っても、当たり前
ということです。 侮辱されようが、非難されようが、心が動揺もせず落ち着いているならば、その人こそ本当に落ち着いている人だと言える。何を言われても怒らないのであれば、それが本当に「怒らない」「やさしい」人、本当に「賢い」人ということなのですね。
そういう人間に、ワタシはなりたい。
エピソードでわかりやすく!^^
”仏の顔も三度まで”って、なら仏じゃない、偽物ってことなのね。
他人の感情、悪意は汚物ですから受け取らない、自然現象(雨が降っている)だと思って、避ければ(傘を差せば)いいんだという事を、私はお釈迦様から学びました。他人はどうであろうと、自分は感情、悪意を抱かないこと、雨に怒りをぶつけても意味がありませんからね。怒ればその分自分の心が汚れるだけです。(感情に理性はない。理性は育てるもの。理性とは智慧と慈悲喜捨の心)
さて、お釈迦様のお話は続きます。
今度は、比丘たちにお話になります。それは、戒律について、
>比丘たちよ、かつては、比丘たちが私の心を実に喜ばせたものでした。・・・・略・・・・比丘たちよ、(しかし)私には、かつての比丘たちに対して、教え諭すべきことはなかったのです。比丘たちよ、私には、その比丘たちに対して、気づきを起こすだけの事ですんだのです。
ここでは、「昔はこのような、具体的な戒律(一つ一つ教えること)など必要なかった。昔の優秀な比丘たちは、お釈迦様の生き方をお手本にして、自ら気づいて正しく生きていた。」と言われるのです。戒律などないに越したことはないのですが、放っておいたら気づかないし、みんなが堕落して不幸になってしまうのは気の毒なので、仕方なく戒律はあるのだ、と説明されているのです。(ちょっと残念ですね^^;)
それを、次に駿馬(育ちの良い賢く優れた馬)のたとえで説明されてますが、省略します。駿馬は(手綱などで)ちょこっと気づかせるだけで、ちゃんと走るよ、ってことです。(気づかなくちゃ、賢くならなくちゃ、ですね^^;)
>比丘たちよ、ですから、あなたたちは、不善を捨てなさい。諸々の善法において励みなさい。まさしくこのように、あなたたちは、この法と律について、大きく成長しなさい。
次に、法(真理)と律(戒律)によって(戒律も仕方ないね)、不善を捨てて善に励むことの大切さを、サーラ樹の林にたとえて話されます。これも省略しますがつまり、
サーラ樹はすばらしい大木ですが、弱い。このサーラ樹にはシダが寄生して、重くなりすぎて折れたり腐ったり枯れたりしてしまうのです。ですから、善人はシダを見つけたら、シダを切ったり取り除いたりして丁寧に手入れをします。そうすれば・・・
>比丘たちよ、まさしくこのように、このサーラ樹の林は、後に、大きく成長するでしょう。比丘たちよ、ちょうどこのように、まさに、あなたたちは、不善を捨てなさい。熱心に、諸々の善の法をなしなさい。まさしくこのように、あなたたちも、この法と律について、大きく成長しなさい。
>「そのようにあなたたちも不善を捨てなさい。心に不善が入ってしまうと、心が腐ってしまって、やがて自分も倒れてしまいます。たとえ小さな不善でも、『まあいいや』と無視して放っておくと、どうなるかわからない。寄生シダのように勝手に成長して自分が悪で倒される恐れがあります。そして、善をがんばってください」(スマナサーラ長老)
といわれるのです。
お釈迦様の話は「たとえ話」がよく使われます。それで、理解がしやすくなります。
具体的なたとえ話でわかりやすく!^^
釈迦様の教え方、語り方に学びたいと思います。
『ノコギリのたとえ』は、”パッグナという比丘が比丘尼(女性の比丘)たちと過度に仲良くし、誰かが比丘尼たちを批判しようものなら機嫌を悪くし、怒ったり言い争ったりしている”、ということをある比丘から聞いたお釈迦様がパッグナに諭す話です。
まず、聞いた話が事実かどうか、パッグナに確かめます。
>「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、・・・・・・」
「そのとおりです、尊師」
まずは、ありのままの事実を確かめる。お釈迦様は、きちんと、詳細に正確に事実を確認します。聞いた話を聞いた通りに一字一句変えないで、そのまま尋ねるのです。パッグナも事実と違えば、「いえ、そうではないのです」と言うことができます。パッグナがその通りだと納得した上で、
次に、パッグナの立場を確認します。
>「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないのですか」
「そのとおりです、尊師」
パッグナは自分の意志で、理解し、納得し確信して出家した。パッグナの意志が大事なのですね。押しつけや強制ではなく、自分の意志で決めた出家である、ことを確認する。
そして次の言葉です。
>「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。
「自分で納得して出家したのに、そんなことじゃだめでしょう」とか「そんなことをしちゃいけません」などと叱ったり脅したりするのではなく、
「自分の意志で出家したあなたにとって、過度に比丘尼たちとつきあうことは、ふさわしいことではありません」とパッグナの立場にたって話される。
「過度に比丘尼たちとつきあうこと」それは感情的に言い争う態度からわかる、比丘尼たちや又は自分(の意見)に対する執着心です。それは、「あなたにふさわしいことではない」と言われるのです。「出家して悟りを開きたいのなら、それはあなたにふさわしくないよ」、とやさしく諭されると話を聞く気にもなります。
そして、悟りたいのであれば、どういう態度がふさわしいのかを話されます。
>パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。
パッグナは出家した比丘、長老ですから、一般世間の人のような意欲や考え方(感情的に何かをしたくなるエネルギーや思考)をしていてはいけないのです。
>そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めばなりません。ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
比丘尼たちを批判した人(や意見)が正しいか正しくないかということが問題なのではないのです。もしかすると比丘尼たちがいわれのない差別や批判を受けていたのかも知れません。
けれど、パッグナが”比丘尼たち”を”過度にかばった”こと、比丘尼たちの”味方”になって、他者の意見に対して”感情的に”なること、つまり「一方に”過度に”仲良くすること」が問題なのです。異論があれば、冷静に「これこれこうで、その意見は事実とは違います、真理とは言えません」と、理性的に述べればいいのですね。怒りや執着(敵味方になったり)がだめなんです。
まだ、最初の部分ですが、この言葉(戒め)はこのあと何度も繰り返し出てきます。大事なことは繰り返し繰り返すことで、確実に心に入っていくように配慮されているのだと思います。
>パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちを手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナよ、あなたは、このように戒めねばなりません。ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
>パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
>パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたはこのように戒めねばなりません。ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
出家者というのは、厳しいものなのですね。一般世間の人間には大変なことでしょうが、でも、やさしく何度も「パッグナよ・・・」と言ってもらって、パッグナ長老は、ああそうなのだなあ、と心に刻み込んだと思います。
事実を確認→相手の立場や意志(目的)を確認し尊重する→「~であるならば、そのふるまいや態度はあなたにふさわしくありません」→「あなたにふさわしい態度、めざすべき生き方とは~です」→大事なことは繰り返す
そして常に、真理に基づいて話される。
どちらがいいか悪いかを問題にする(裁く)のではなく、みんなが幸せになるような態度やふるまい、心のもちよう、生き方(その人にふさわしいこと)を慈悲の心で教える。
大前提として、お釈迦様が悟りを開いたすごい人、お手本であり尊敬される人物、大先生である、というのがあるでしょうけど、そういう人でも、いや、そういうできた人物だからこそ、偉そうに説教したりしないのですね。
この初めの部分だけでも、大変勉強になります。
(学校の先生、お父さんお母さん、いかがでしょうか?^^)
経典はまだ続きがあります。
(「怒りの無条件降伏」スマナサーラ長老著より)
腹を立てたり、暗い気持ちになったりすると、自分にも他人にもよいことは一つもないと思います。怒ると人生失敗します。怒ると成長がありません。「怒り」とは何か、、、は「怒らないこと」「怒らないこと2」「心は病気」(サンガ新書)などの法話、それ以外にもたくさんの本が出てるので、それらで理解するとして・・・。
お釈迦様がお弟子さんに説いた『ノコギリのたとえ』(中部経典)は、慈悲の心を育てる覚悟を語っておられます。この経典は、怒りとは何か、慈悲の心とはどういうものか、ある程度理解して読んだ方がいいと思います。
ちょっと紹介します。(「怒りの無条件降伏」スマナサーラ長老著より)
ノコギリのたとえの部分は、経典の最後の最後に出てきます。
>比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるノコギリで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は私の教えの実践者ではありません。
普通の感覚でここだけ読むと、”えええ、お釈迦さんそりゃないでしょ~”、と思うかも知れないですね。ただやられるだけなんてバカな話はないって。正当防衛というものがあるでしょうと。自分の命を守るためにちょっとくらいやり返したっていいんじゃないの?って。普通”何すんだ、この野郎!”って思うでしょって。
しかし、お釈迦様は、やり返すという行為のことではなく、「心を汚す」ことを問題にしているのです。つまり、恐怖や怒りで心を汚すのではなく、慈しみの心でいなさいと。相手に対して慈悲の心があれば、やり返すこともないでしょう。お釈迦様は、我慢(怒り)ではなく、忍耐(平和な心を保つこと)を教えているのです。”普通の”人間のままじゃ悟れませんよ、怒りを乗り越えなければねって。
>比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、ー私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだーと。
また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきますーと。
比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めなければなりません。
なんという心の強さでしょう。これは、お釈迦様が比丘に対して「私の弟子であるというなら、このような生き方をしましょう。」と諭しているところです。決して、「こうじゃないなら罰を与えるぞ、破門だ!」なんて言われない。「自分で戒めましょうね」と慈悲の心で言われてるのです。
>比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見いだせますか。
あくまで、慈悲の心を育てる努力をするため、がんばろうという気になるように、励まし、勇気を与えてくれているのです。そこには、お釈迦様の優しさ、慈悲の心があふれているのです。ノコギリで切られるのを忍耐する、ことに比べたら、目の前のことなんて何てことないでしょう、軽々忍耐できるでしょうって。
それでも、このノコギリの部分だけ読むと、「こんなたとえは非現実的だ、出来るわけがない、無茶なことを言うなあ」と思われる(のが普通の人間)かも知れません。
でも、お釈迦様のカウンセリングというか、教え方はとても丁寧で、心に沁みるようになっているのです。経典を初めから順に読んでいくと、それがわかります。(そもそも凶悪な盗賊に出会わないように用心、工夫するなり、気配に気づいて早く逃げてしまうなりするのが”智慧”というものだと思います^^)
それはまた今度。
「慈悲の瞑想」にフルバージョンがあります。経典でお釈迦様が慈悲について語られたことを参考にスマナサーラ長老がまとめられたようです。じっくり読むと、心に響くフレーズがみつかると思います。
○ 私は幸せでありますように
・私は幸せでありますように。
・私のこころに現れる悩み、苦しみが徐々に消えていきますように。
・怒り、嫉妬、憎しみの感情は人のこころを苦しめます。
・苦しみである怒り、嫉妬、憎しみが、私のこころに起こりませんように。
・怒り、嫉妬、憎しみの妄想を育てないように努めます。
・私の思考が慈しみの思考になりますように。
・私は「物事が常に変化して消え去るものである」と観察します。
・私は過ぎ去った出来事に囚われないように精進します。
・私は将来のことに執着して悩まない、不安にならない人間になります。
・私は今ここで、するべきことに集中します。
○ 私に、他者に対する慈しみの気持ちが現れますように
・私に、他者に対する慈しみの気持ちが現れますように。
・他者に対して、優しいこころで対応することができますように。
・私のこころに、他を差別する気持ちが現れませんように。
・苦しい状況に遭遇しても、忍耐することができますように。
・私のこころが、常に平安でありますように。
・私のこころの汚れが、徐々になくなりますように。
・私に、ありのままの事実を発見することができますように。
・私に、真理を発見する智慧が現れますように。
・私に、一切の現象に対する愛着がなくなりますように。
・私に、悟りの光が現れますように。
○ 全ての生命は兄弟
・私は、全ての生命が私の兄弟であると思えるように精進します。
・私は、全ての生命と私が平等であると思えるように精進します。
・私は、全ての生命の幸福と繁栄を期待します。
・私は、生命の間で調和が保たれるように精進します。
○ 私は釈尊の言葉を念じます。
・私は、釈尊の言葉を念じます。
・無始なる輪廻のなかで、私の母でなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の父でなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の兄弟ではなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の子供ではなかった生命はいません。
・無始なる輪廻のなかで、私の友人ではなかった生命はいません。
・釈尊の戒めを尊んで、一切の生命に慈しみの気持ちを抱きます。
・すべての生命は私自身の父・母であると思います。
・すべての生命は私自身の兄弟であると思います。
・すべての生命は私自身の子供であると思います。
・すべての生命は私自身の友人であると思います。
・すべての生命は私自身の家族であると思います。
・すべての生命は幸福でありますように。
○ こころは空気のように
・空気と空気が何の対立もなく一体になるように、私の慈しみの気持ちが、すべての生命のこころと一体になりますように。
・水と水が何の対立もなく一体になるように、私の慈しみの気持ちが、すべての生命のこころと一体になりますように。
・太陽の光が、地球の隅から隅まで照らすように、私の慈しみの光が、すべての生命のこころをさまたげ無く照らせるように、制限無く、慈しみを育みます。
・東・西・南・北・上・下という六方に住む生命に対して、無限に、とどまること無く慈しみを育みます。
○ こころは大地のように
・大地は、如何なる清らかなものを捨てても、如何なる不浄なものを捨てても、喜ぶことも嫌がることもありません。
・私も、他の生命の賞賛・非難などを受ける時は、大地のようなこころを保ちます。
・生きとし生けるものが幸せでありますように。
○ 皆、業を相続します
・全ての生命は、自分の業を相続します。
・自分の業に管理されて生きています。
・各生命が受ける幸不幸は、その生命の業の力によるものです。
・ですから、私は私より豊かな人を見るたびに、過去に善行為をした人であると思い、喜びを感じます。
・私より不幸に思える人を見ると、生命は無明のせいで罪を犯すのだと理解し、自分が罪を犯さないようにと気をつけます。
・不幸に陥っている生命に対して、憐れみの気持ちを抱きます。
・協力する、助ける気持ちを起こします。
○ エゴの錯覚
・「私は他より優れている」と感じることは高慢です。
・「私は他と同等だ」と思うことは同等慢です。
・「私は他より卑しい存在である」と思うことは卑下慢です。
・慢とは、私のエゴの錯覚から起こるのです。
・私は、エゴの錯覚がこころに現れないように、と精進します。
・私は、慢により現れる対立・悩み・争いから離れるように、と精進します。
○ 苦しむ世界で苦しみなく
・世界は欲によって苦しんでいることを観察して、私は欲を控えることに精進します。
・世界は怒りによって苦しんでいることを観察して、怒りのないこころで生きるように精進します。
・世界は嫉妬によって苦しんでいることを観察して、嫉妬のないこころで生きるように精進します。
・世界は恨みによって苦しんでいることを観察して、恨みのないこころで生きるように精進します。
・世界は物惜しみによって苦しんでいることを観察して、物惜しみのないこころで生きるように精進します。
・世界は自我を張るから苦しんでいることを観察して、自我を張らないこころで生きるように精進します。
・世界は見栄を張るから苦しんでいることを観察して、見栄を張らないこころで生きるように精進します。
・世界は一切の現象は無常であると気づかないので苦しんでいることを観察して、一切の現象は無常であると認めて生きるように精進します。
・世界は一切の現象は苦であると気づかないので苦しんでいることを観察して、一切の現象は苦であると認めて生きるように精進します。
・世界は一切の現象は無我であると気づかないので苦しんでいることを観察して、一切の現象は無我であると認めて生きるように精進します。
・私のこころに悩みが起こりませんように。
・私のこころに苦しみが起こりませんように。
・私のこころは平安でありますように。
・私のこころに安らぎが現れますように。
・私に悟りの光が現れますように。
・カンティー パラマン タポー ティティッカー(Khanti paramam tapo titikkha)
・忍耐と堪忍は最高の修行であります。
・ニッパーナン パラマン スカン (Nibbanam paramam sukham)
・涅槃は究極の幸福であります。
○ 慈しみの拡大
・私の上の方向に住んでいるすべての生命、
・私の下の方向に住んでいるすべての生命、
・私の前の方向に住んでいるすべての生命、
・私の右の方向に住んでいるすべての生命、
・私の後ろの方向に住んでいるすべての生命、
・私の左の方向に住んでいるすべての生命、
・幸福で、安穏でありますように。
・怒り、憎しみ、恨みから自由になりますように。
・互いに慈悲喜捨の気持ちで接しあえますように。
・願いごとが叶えられますように。
・こころの汚れが徐々になくなりますように。
・すべての生命に、苦しみを乗り越えることができますように。
慈悲の瞑想の中に「生きとし生けるもの」という言葉があります。
慈経の中には、
「いかなる生命であろうともことごとく、
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも大きなものでも、
中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
見たことがあるものもないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
既に生まれているものも、(卵など、これから)生まれようとしているものも、
生きとし生けるものが幸せでありますように」(「慈経」第4、5げ)
とあります。
生命とは何かと見つめ、無常であり、因果法則があり、エネルギー保存の法則もあることから、輪廻はありうる(あると考えざるを得ない)と思います。
輪廻があるとすると、「生きとし生けるもの」「すべての生命」とは、
動物(人間、鳥、獣、魚、虫など)、微生物(単細胞生物も、卵子、精子、ウイルスも、バクテリアも…)、植物、さらには物質の体を持たない天にいる生命も、餓鬼界にいる生命(体を持たない)も、地獄にいる生命(体を持たない)も含まれる。生きてるものはすべてということだから。
なので、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という心は、とてつもない慈悲の心だということです。
この慈悲の心のパワー(エネルギー)は、きっと役に立つ。かならず役に立つ。
自分を慈しむ心→親しい人(生命)を慈しむ心→全ての生命を慈しむ心へと、慈悲の心を大きく育てていきたいと思います。
人間は人間に生まれかわるということではありません。(心、命の)エネルギーは物質(体)から解放されれば光のように(もっと速い)瞬時に移動しますから、生まれる場所も分からないでしょうね。地球の裏側でということもあるでしょうね。人間の数は限りがある(動物や虫などより少ないし動物も虫も輪廻する)ので、人間に生まれかわるのもけっこう難しいようです。
天に生まれれば楽だけどやっぱり寿命があるし、人間に生まれかわって修行し直して、輪廻から解脱できれば一番かな。
生命のエネルギーは物質(体)が使用できなくなってもなくならない。生まれては滅し、滅すると同時に別のものに生まれる。
因果法則でいくと、それぞれのエネルギーの状態によって肉体的に自由で安らかな天に生まれたり、執着心で苦しむ餓鬼に生まれたりするというわけ。
みんなを幸せにする善のエネルギーであればそういう生まれに、不幸にする悪のエネルギーであればそういう生まれに、と自分に返ってくる、つまり自業自得。エネルギーの強さ、大きさによって、それぞれに寿命がある。永遠に地獄だったり天人だったりするわけではない。また生まれかわる。永遠というものはないのです。
輪廻を否定して、この世で死んだら終わり、無になるんだと言う人はこの世でやりたい放題する可能性もあり、ちょっと危ない。この世でも、次の世でも幸せでありたい人は、輪廻を理解納得しておくほうがいいと思います。
お釈迦様の教えはためになります。
ただ今お釈迦様の教えを勉強中です。(面白い)
苦しみはどのように生まれるのかそのプロセスを、お釈迦様は「十二因縁」で示されました。
無明→行→識→名色→六処→触→受→渇愛→取→有→生→老死、愁、悲、苦、憂、悩→
→無明→行→識→名色→六処→触→受→渇愛→取→有→生→老死、愁、悲、苦、憂、悩→
の繰り返し(輪廻)
苦しみの始まりは「無明」、つまり無自覚であること。
そこから(無自覚のまま)、瞬時に12の連鎖反応が起こり、「愁、悲、苦、憂、悩」へと行き着いてしまうのです。心はもっっっすごい速さで生滅(を繰り返)しているのです。なので、ついつい(無自覚に)ムカッとか、なってしまったりするのですね。で、それをまた無自覚に繰り返してしまうので苦しみが強化される。
生きるということは、瞬間瞬間に生じ滅している現象にすぎないのだけれど、
六つの感覚器官(六処…眼耳鼻舌身意)に無自覚に反応し(触、受)執着し(渇愛、取)、自己同一化したとき(有、生…自己イメージ、自我が生じる)に「苦」が生じるのです。自分で苦しみの物語を創作してるのです。
>苦しみとは今ここで私たちが無自覚に創造しているもの、いわば自身の想像力の産物(『「気づきの瞑想」を生きる』プラユキ・ナラテボー著より)
苦しみの「責任」はどこに?
責任(レスポンシビリティ)とは、誰それのせい、ということではなく、
>レスポンスするアビリティー、すなわちさまざまな感覚や感情に対する自身の「応答能力」
智慧を得ることや、「応答能力」を育てることで苦しまなくてすむようになるってわけですね。「受(感受)」の段階でしっかり気づき「渇愛」「執着(取)」へと進まないように、苦しみの流れを阻み、その流れから抜け出す。誰のせいでもない、すべては因果法則の流れに乗って生まれているだけのこと。
まずは、自覚しましょう。
ありのままをしっかり見ましょう。
スッキリ目を覚まして、気づきながら生活しましょう。
気づかなかった、見えてなかった~と失敗することはよくあります。あの車止まってくれると”思った”んだけど、轢かれちったとか?(あんまりないか^^;)車の運転もちゃんと見て自覚してしないと事故りますね。
ミニ仏教講座でした。
さて、気づきの瞑想はじめようかな?^^
『呼吸による癒し』読み返してます。
呼吸瞑想をやってみて、呼吸に意識を向けるとなぜか息苦しくなる。変に長くなりすぎたり深くなったりしてあれ?あれれ?って。どうも、無意識に呼吸をコントロールしようとしているのではないかと思われます。規則的で心地よい理想の呼吸、”自然な”呼吸をしようとコントロールしてる??結果不自然になる・・・
他のことに集中してるときには、とても楽に呼吸してるのに。呼吸してるのかさえわからないくらい。意識すると意識過剰になるのでしょうねえ。ただ見つめる、というのがけっこう難しい。
>息をありのままに、呼吸に委ねることです。
>息がどうなっているのかをただ見つめるのです。
>こうした修行は、すべての物事をコントロールし、方向づけ、指揮しようとする生涯にわたる傾向とは正反対のものです。私たちは混沌を恐怖し、物事をそれぞれの場所に保っておかなくてはバラバラになってしまうのではないかと恐れています。私たちのほとんどがコントロールすることが上手で、本当はもっとうまくなりたいものだと思ってます。(P30)
>そのすべてがエゴを呼び起こす高らかなラッパの響きのようなもので、エゴはすぐに息がどのようであるべきか命令し始めるのです。
>私たちは何が起こるかを恐れるあまり、心を必要以上にコントロールしてしまいます。しかし心をありのままにすることを通してのみ、やがてはどのようにして自由の中にリラックスして入っていくのかを学ぶことができるのです。(P31)
多分私には、コントロールしようという傾向があるのでしょうね。エゴですね。
息が変なときには「コントロールしようとしているんだな」と気づいていればいいんだと思いますが、本当に呼吸ひとつでも実に深いです。
補助的なテクニックがあるそうです。
・「一、二、三、、、十」と吸う息に合わせて十数える。十セットしたら次は吐く息に合わせる。
・「プッ(吸う)ドー(吐く)」と心の中で繰り返す。(プッドーはタイ語でブッダ)
・「入る(吸う)出る(吐く)」と心の中で繰り返す。
など、いろいろやってみて自分に合った方法を見つけたいと思います。
>私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それらがおのずと変容し、そのエネルギーが解放されていくようにすることです。(P32)
やはり、「受容」ということが大事なのですね。変えるのではなく「変わる」。
気づけば変わる。
今まで、感情や心はコントロールするものと思ってましたが、「コントロールする」とは”押しつけ”たり”抑圧”したりするのではなく、「気づき(受容し)、変換する」ということなんですね。(コントロールしないでコントロールする、よりよく変換することで暴走が止まる、気づき受容することがコントロールすることにつながる、、、なるほどね~)
教育で言えば、ほめて育てるでも叱って育てるでもなく(飴と鞭は使い方、方便だね)、ありのままを受容して、気づきによって育てるということになるかな。(…言うのは簡単ですが)
呼吸、瞑想を通して生き方を学ぶ。深いですね~
「苦しまなくて、いいんだよ。」
これはただの個人的意見でも、励ましでも、希望でもなく、事実・真実です。
生きるとは「苦」である。この世は苦しみであふれている。あるのは苦しみばかりである。苦しみがあるから生きているとも言えるのです。(事実です。苦がないなら死んでます。苦しいから息をしてるんです^^)
けれど、
「苦しみ」があるからといって「苦しむ」必要は全くないのです。苦しみと苦しむこととは区別しなければいけません。
「苦しみ」はただ「観る」ものであって、「苦しむ」ものではありません。
・・・という真理をお釈迦様が発見されました。それが「四聖諦」です。
「苦」つまり「生きること」「命」についての4つの真理。
「苦集滅道」です。簡単にいえば、
①苦諦…苦しみと向き合いありのままに認知する
②集諦…苦しみの原因を知る
③滅諦…苦しみは滅することができる
④道諦…苦しみを滅する実践方法(八正道)
第一に(①苦諦)、自分の問題(苦)なら自分の問題(苦)を、相手の問題(苦)なら相手の問題(苦)を、ありのままに観察し、ありのままに認知し、ありのままに受け止めることから始めなければいけません。つまり、受容と傾聴ですね(自分に対しても!)。慈しみの心で共感すること。ここをとばして、正論(持論)を投げかけたり、無闇に解決方法を押しつけたり(自分にも他人にも)してしまうと問題は解決しにくくなります。対立してはいけないのです。ここが大きな問題です。そういうことがよくあります。大事なのは主観的にならず(評価、判断してはいけない)、「ありのままに観て、ありのままに知る」こと。
このありのままに認知するための訓練が「気づきの瞑想」なのです。
外からのあふれるばかりの情報や刺激、誘惑または社会(家族)のしがらみやあれやこれやに、心が囚われた奴隷状態で、ありのままの自分に気づくことができにくくなっているのが現代です。しかも過去のことやこれから先(未来)のことで頭がいっぱい。意識を自分の外にばかりもっていかないで(囚われないで)、今ここにある自分を観る習慣をつけ、洞察力を高めることで問題を解決することがぐんと楽になるのです。
苦をありのままに認知できると、その原因が見えてきます(②集諦)。苦しみには原因があるのです。ならば、苦しみの原因を、楽の原因に変えてやればいい。
ちなみに、苦しみの原因は「無明」「渇愛」です。(十二因縁) これはまた・・・。
苦しみは滅することができるものなのです(③滅諦)
苦しまなくて、いいんです。
どうすればいいのか?その方法は(④道諦)、「八正道」です。 これもまた・・・。
「四聖諦」を理解できれば、すべての問題がなくなり、苦しむことがなくなります。
「怒り」は「理解」することでなくなります。理解することは「慈しむ」ことです。ありのままに理解すると智慧が現れます(無明でなくなる)。①苦諦は大事です。
「いかり」は逆立ちさせて「りかい」することで慈しみの心に変わる。(←プラユキさんから教わった)
大乗仏教でいう「仏性」って何?(人はみな仏性をもっている?みんな実は悟ってる?わけないよね)とずっと思ってましたが、これは「可能性」のことなんだそうです。すべては『無常』だから、みんな変わりつつあるんだから、みんなよりよくなる可能性をもっているということ。でも、無明(智慧がないこと)だから、よりよく変わろうとしないから苦しむ。
問題を抱えている子に「”君”は本当はいい子なんだよ」「君は君のままでいいんだよ」などという言葉は一時の慰めになるかもしれないけど、誤解を生むことがある。「本当はって言うことは、今は悪い子なのか」とか、「そうか、”自分”はこのままでいいのか、苦しいのは周りのせいなのか」とか。(言葉は不完全で誤解されやすいものです)
「いい子悪い子普通の子」などという言葉は使えません。変わらぬ”いい子”も”悪い子”もないからです。あるがままの”君の問題(苦)”を慈しみの心で観て理解し、苦を楽に変えていかなければいけない。
苦はあるのです。ないことにはできません(酒を飲んで、踊って、歌って紛らわせても、問題・苦はなくなるわけではない)。目を背けてはいけないのです。そのままではいけない。”ありのままでいる”だけでは楽にはならない。ありのままには”観る”のです。
人生は楽しまなくては、と現実の「苦しみ」から目を背け”享楽”に耽っていてはいつか必ず「苦しむ」ことになります。苦しみから解放されることはないでしょう。
人も瞬間瞬間ずっと変わりつつあります。人ではなく、問題(苦)は何なのかにもっと焦点を当てなければいけません。問題(苦)を解決し、苦を楽に変えることに力を注ぐべきです。
苦しむ必要なんて全然ないのです。みんな可能性(仏性)をもっているのです。よりよく変わろうという向上心・意欲さえあれば、誰だって苦しみ(あらゆる精神的問題)から解放され、自由に、楽になれるのです。
33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。ー弓矢職人が弓矢を直くするように。
39 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることがない。
(ブッダの真理の言葉 中村元訳)
(注)善悪のはからいを捨てるとは、勝手な判断をしない、客観的になる、謙虚になる、というような意味だと思います。
・・・ということを、ティク・ナット・ハン禅師やプラユキさんの本を読んで思いました。お釈迦様の教えは深い。気づき、目覚めていること、、、実践していきたいと思います。
以上、仏教のお勉強でした^^
猛暑→雨がおさまって、今日はちょっと過ごしやすい。
朝顔がかわいいです^^
明日は参議院選挙。
一人一人の立候補者の人格を確かめたいけど、政党に属してる人はその政党の”人格”で判断せざるをえない。真の平和、幸福への道、めざすゴール(方向)が同じかどうかを見極めないとね(特に岡山は一人区)。県議会じゃなくて国会だから、地元の目先の個人の利益で選ばないようにしなくちゃね。選べないときには、危険な政党(人)以外、という選択が必要。騙されちゃ駄目。変わらなきゃ駄目。賢くならなきゃ駄目。広い視野をもって!
63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
74 「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した人々も、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、わたしの意に従え」ー
愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。
(「ブッダの真理の言葉 感興の言葉」中村元訳 より)
気をつけよう、甘い言葉と・・・何だっけ?(とにかく甘い言葉と数字のトリックには気をつけましょう。ヒトラーも大衆からすごい支持されてたんだからね、怖い怖い)
この世は「無常」で「苦」ですが、自分にできることはやらないと。それが自立というものですからね。みんな、選挙に行きましょう!ちゃんと生きるために。
(ほんとは政治とは関わりたくないんだけどね^^;)
【生きることについて考えたブッダの教えは、数千年が経っても常に新しい。
妄想し、依存し、怒り、さまざまないのちから布施を受けながら返していない。
そんな生き方をしているから幸福にならないのだ。
ブッダの教えを学び、自分で確かめ、「いま・ここ」に生きることで、
幸福への道がわかるようになる。
スリランカ仏教界の長老が、日常に役立つブッダの教えを一日一話形式で説く】
【智慧とは、特別に「何かがある」ことではありません。じつは、「何もない」ことなのです。
心の中に、ある価値判断や尺度をもっていると、それに当てはまるものしかみえません。
何か知識にしがみついていると、それで頭がいっぱいで、他のものが入らなくなってしまいます。
頭の中に何もない場合は、そのときそのとき、何でも入ってしまい、理解がはやいのです。
さらに、得たものに執着しないでもち運ばないのが、智慧のある人なのです。
・・・などなど。】
カバーを取れば、普通の手帳のようです。
1ページに二日(2話)ずつ。
いつでも、気が向いたときに簡単に読めるお釈迦様の教え。
5月の巻頭言は・・・
怒っている人に対して、
逆に怒らない人は
自分と他人という両方に、
有意義な行為をしているのです。
(善語勝利経より)
5月10日
自分の過ちがみえているか
他人の過ちはみえやすいものです。しかし、ほんとうにみえているわけではありません。自分の勝手な思いこみでみていることが、よくあります。
自分が同じ過ちを犯したときには、「大したことはない」とごまかしたり、あらゆる工夫をして正当化しようとします。
自分に対するその態度を、どうして他人に対してもとろうとしないのでしょうか。
5月12日
他人のことは、ほうっておく
他人の欠点や過失をみていては、永久に問題解決にはなりません。他人のことは、ほうっておけばいいのです。
自分のやるべきことだけを、きちんとはたしていけば、ものごとはうまくいくのです。
ブッダの大切な教えは、「他人のやったこと、やらなかったことをみるのではなく、自分自身のことをよくみなさい」ということです。
シンプルだけど、深いです・・・
いつでもどこでも気楽に、お釈迦様の教えを学べます。
星5つ
かなりの高額だったのですが(4212円也)、思い切って買いました。
この本。 ど~ん
初期仏教経典解説シリーズ3
「大念処経 ヴィパッサナー瞑想の全貌を解き明かす最重要経典を読む」
413ページ。ずっしり・・・
でも、5日かけて、読んじゃいました~
スマナサーラ長老の解説法話なので、
親切ていねい。読みやすい。わかりやすい。納得。深い~。
すごいわ・・・ はあ~、なるほどね~
あらゆる問題を解決する方法は、物事を客観的、ありのままによく観察すること。(悟るためには主観を離れ、客観的に身体、感覚、心、法をよく観る )
気づき(知る)の瞑想とは”生きるとは何か”と観察する実践、観察能力を上げる訓練、ありのままに見る”訓練”なのですね。(ヴィパッサナーとは”よく観る”という意味)
その観察(訓練)の順番ややり方を示してくださってるのが「大念処経」。
すべての渇愛(執着)をなくし解脱に至る(悩み苦しみを乗り越え解放される、平和、安らぎへの)たった一つの道なのです。観察能力を上げて、自分で気づく。
人生は、幸福へのはてしない修行の道、なのね。
頭で納得理解してるだけじゃなくて、実践しなきゃなあ・・・
経験し、自分で発見(気づき)していかなければならない。
信仰じゃないからね。
遠いなあ・・・ (遠いか近いかは自分次第だね)
でも、たった七日でも真剣に実践するなら、必ず結果が出るそうです。
(法話を読んで納得するだけで、読んだだけのそれなりの結果は出てる気がします)
線ひきまくり・・・
繰り返し読みたいです
お花見シーズンですね。今年はゆっくり見に行く機会がなさそうですが、おつかいの途中に花盛りの桜を目にして、心温まりました。ニュースでは、一杯やってご機嫌のおじさんや若者たちの姿が・・・
それに歓迎会とか何とか、お酒を飲む機会もあると思います。
今日は、「酒は飲んでも飲まれるな」について。
質問 酒は飲んでも飲まれるな、と言いますが、お酒との上手なつき合い方を教えてください。
>酒は飲めません。必ず飲まれるのです。・・・飲んでいるつもりでも、酒に飲まれてしまうのです。
>「社会では酒で頭がおかしくなるようなバカな人間しか認めないぞ」・・・「酒を飲まないしっかりした頭のいい人間では駄目だ」・・・こんなことを言ってるだらしない社会の価値観に、引きずられてはいけないのです。酒は飲むことはできません。飲まれるだけです。(『ブッダの智慧で答えます』A.スマナサーラ著)
酔っぱらってる人を見れば、正気ではない、理性が低下しているのはよくわかります(面白いけど)。そのために色々なトラブルが起こります。「理性が大切だよ」と、成功(幸福)への道を説かれるお釈迦様が「やめときな。よしたほうがいいよ」というのは当然ですね。だから、出家している人は戒で禁酒。
酒は大体がストレスを一時的に忘れるために飲むもの。頭を麻痺させて、ストレスから解放されてると勘違いさせるわけね。仏教はそのストレスを”根本からなくす”方法を教えてくれてます。ストレスは「忘れる」ものではなく無くすもの、自分でストレスを生むことをやめればいいんです。
なので、ほぼストレスなく平和に穏やかに満ち足りて幸せに暮らしている人は、酒を飲む必要がありません。しかも、酔ってしまうと、頭が正常に働かなくなるし。
とはいえ、この社会で普通にストレスを抱えている人は、酒に逃げたくなる(”快楽”に頼りたくなる)のも仕方がない、人間だもの。弱いのね。(かえって酒に縛られて、それで自滅したりする…)。
私は、酒の会でもジンジャエールで十分楽しいです。というか、酒が回った時の感覚は苦ですね。無理にすすめる人もめったにいません(いい人ばかり)。車が運転できなくなるので基本的に飲みません。急な迎えとかあったら困るしね(いつでも人助けができるって幸せなのです)。
若いころは、ノリで飲んで苦しい目にあったりしたので、もう酒はけっこうです。卒業しました~。
飲んで、気分よく常に理性的で明るく人格的に優れた人はまあそれほど問題はないだろうけど、どんな立派な人でも酔っぱらうと本能が出てくるし、人間である限り肉体機能が酒で麻痺してくるし、危険は危険だわね。
酒の味が好きな人は、聞き酒で少量楽しむくらいがいいかも。
(仏教では、”好き嫌い”もエゴによるもので”欲”をふくらまし”執着”の原因、つまり不幸の原因になるので、やめようというのです。特に出家の人はね。酒好きの人には厳しく思えるかもしれないけど、反対にとってもやさしいことだと思います。)
「酒は飲まれるものである!」ということは、しっかり理解しておくのがいいと思います。
「十悪」は難しすぎる、10こも多すぎて覚えられないって言う人は「五戒」というのがあります。(仏教ネタまだひっぱってます^^)
「五戒」とは・・・
①殺すなかれ
②盗むなかれ
③嘘をつくなかれ
④邪な行為(邪淫)をするなかれ
⑤麻薬や酒などの智慧を壊すものを使用するなかれ
(理性が保てない人は酒飲んじゃダメ。養命酒は?…OK^^)
ん~、5つでも守れない、っていう人は、これ!たったひとつでいい
「24時間すべての生命に対して慈しみの気持ちで過ごす」
>差別意識を一切止めて、すべての生命に対して「生きとし生けるものが幸福でありますように」と常に心で念じること
>ブッダが説いた「カルマ(業)」とは「行為」行い」という意味です。・・・・「行為によって人生は変わる」という事実は、誰にでも理解できる具体的な話です。しかし、これだけでは私たちの疑問に答えたことにはなりません。疑問は、「それなりにがんばっても努力しても、なぜ期待通りの結果が得られないのでしょうか?」ということだからです。この誰もが発見できなかった「心の働き」「心の法則」をブッダは発見されました。
(アルボムッレ・スマナサーラ「Power up Your Life パワー・アップ・ユア・ライフ 力強く生きるためにブッダが説いたカルマの法則」より)
因果法則の話なんですが、カルマ(業)の話も納得です。知ると知らないとでは全然ちがう。(聖戦では天国に行けない、逆だよ、逆、地獄に堕ちちゃうよ~という法則)
慈悲の心で暮らすと生きることがものすごく楽になります。カルマについて知ると、悪いこと(十悪、五戒など)は怖くてできません。でも、暗い話ではありません。
カルマについては、またね。
「十悪」のラストは、いちばん重い罪
⑩「邪見」(じゃけん)・・・「理性」がない、間違った見解
>「理性」というのは、「証拠」に基づいてある意見に達することです。そのときの「証拠」は完全ではないかもしれません。
>理性的な態度とは、「とりあえず、いまある証拠、データに基づくなら、このような結論にならざるを得ない」と決めますが、その結論をいつでも訂正できるようにすることです。自分の意見が間違いだとわかったら、その時点でたちまち直すことです。
>いくら証拠があってもそれを無視して、自分の意見をなんとしてでも貫きたいと思う場合は、「邪見」がはたらいています。
邪見の罠から抜けるためには・・・
>「こころがオープンであること」「批判に耳を傾けられること」「自分の意見が一時的なものだと考えられること」「理性を大事にすること」「客観的に観察すること」
>(お釈迦様の説かれた「真理」を)この教えは事実に合っているか否かを、日々の生活の中で自分でたしかめてみるのです。・・・また、なにかの結論や見解に達した場合も、お釈迦様の説かれた「真理」に照らし合わせて考えるようにしましょう。
>お釈迦様が悟りに達して発見した「真理」とは、
”生きることは苦です。一切の現象は無常であり、苦であり、無我です。すべての現象は因縁によって現れる一時的なものです。因縁なくしてなにも起こりません。渇愛によって命は輪廻転生します。渇愛を残りなく取り除けば、こころが自由になります。解脱こそ最高の幸福です”
というものです。
>「邪見」が一切の非道徳行為の生みの親です
>「道徳」とは「十悪」を犯さないことです。
>事件を起こす人たちの「邪見」を一言でいうと「私のせいではありません」ということです。・・・「私のせいではありません」という考えは、まるでウィルスのように人間を犯していきます。毒を飲むのと同じといってもよいでしょう。「たいへん危険なことだ」と、お釈迦様はおっしゃいます。どんどんその考えがしみわたっていって、自己破壊に陥ります。自己破壊だけでは済みません。社会を、周囲の人々をみんな巻き込んで迷惑をかけるのです。
(アルボムッレ・スマナサーラ「的中する生き方」より)
間違った見解をもたない、といっても何が正しくて(真理で)何が間違った見解なのか、悟れてない私たちにはなかなか分からないもの。だから、理性的で柔軟な態度、聞く耳、いつでも訂正できますという心構えが大事なんですね。(”自分”の見解に固執するのは誤り)
「人のせいにするな、自己責任だ」と言って、他人に対して「自己責任」を押しつけ、困っている人に(できるのに)”背を向けるべきだ”というのは「邪見」ですね。人をどうこういうのは邪見。そうではなく、自分の人生は自分がつくるのは事実、自業自得は事実でも、助けを求められるなら(できる範囲で)助けるべきです。(それには智慧が必要)
助け合わなければ生きられない、他の生命によって自分の命が”成り立っている”、というのが正見。人がどうするかではなく、自分がどうするかということが大事なんです。なのに人のせいにして人を攻撃したり、見殺しにしたり。やっぱり「私のせいではありません」は大問題ですね。
自分の見解に固執する人は理性的ではないですね。柔らかい心をもって、冷静にいつでもよりよく自分を変えられるようにしておきたいです。
以上「十悪」でした。十悪を犯さないのが「十善」。お疲れ様でした。