まるちゃんの めざせ!快適シンプルLife

本当の幸せを見つけて・・・
  第2の人生を歩き出した
      まるちゃんの徒然日記
    
 

ようこそ

いらっしゃいませ! このブログは、まるちゃんのひとりごとを中心に テキトーに、マイペースで更新していきます。好きな読書記録や、菜園日記等もかねてます。一緒に元気になれるブログをめざしたいと思いますが、しょもないことも書いてます。ちなみに、いちおう人気ブログランキングと日本ブログ村に参加してます。遊びに来られたついでに、記事下か左サイドバーのボタンを2つポチ、ポチッとしてくださると嬉しいです。ゆっくり遊んでってくださいね。 あ、コメント・置き手紙・トラバ・ボケ・ツッコミご自由にどうぞ。

十悪について その4 「瞋恚」「貪欲」

2015年11月18日 | お釈迦様

「十悪」のつづき

⑧ 瞋恚(しんい) ・・・根拠のない怒り

⑨ 貪欲(とんよく) ・・・根拠のない欲

>根拠のない欲と怒りというのは、自分の「妄想」の結果なのです。

>「妄想」というのは、理性がなく根拠のないものを感情で考えることをいいます。・・・理性さえあれば「妄想」は薄くなりますが、理性がないからこそ「妄想」するのです。

>この2つの罪は「意」、つまり「こころ」で犯す罪です。言葉で犯す罪より、とても重いのです。・・・ただ「考えている」だけで、かんたんに精神病にかかってしまうのです。なにもしないで、なにも喋らないでいるのに重罪を犯し続けているのです。

「妄想」は途切れることなく膨らみ、つながり続けます。こころがきれいになる隙がありません。次の生まれが不幸になることを自分で確定させたようなものなのです。「思考で犯す罪こそが重罪だ」と理解した方が身の安全です。
(アルボムッレ・スマナサーラ「的中する生き方」より) 

”理性がない”ということが大変なことなんですね。理性がないと「妄想」してしまう。
こころに「妄想」があるから、テロなんてこともしてしまう。妄想するこころで悪行為をしてしまう。大事なのは、こころ。こころをどうにかしなくてはいけないんです。

空爆、爆撃では解決しない。殲滅というのは、テロでこの世を思い通りにしようという妄想の”こころ”を殲滅させなければいけないのです。怒りは怒りを、恨みは恨みを生みます。空爆もテロも殺人です。殺すことは場合によって必要、というのが妄想・邪見であって、テロリストもきっと犯罪者・悪人になろうと思っていたわけではないでしょう。”殺すこと”を肯定していることが大問題なんです。報復するという怒りも。それは欧米側もまったく同じ。考え方の根っこが一緒なんです。テロ行為をなくすことが目的なのか、それとも「殺すこと」が目的なのか…?)

「テロリストにならなくていい、テロリストになりたくない」という”こころ”が必要なんです。
テロの原因をなくすことなしに、テロはなくならないでしょう。(しかも、自分がテロ行為をしていたのでは)

聞く耳をもたない人たちを、いかに説得するか。いかに聞いてみようと思わせるか。こころをほぐすか。大事なのはいかに”対話”を可能にするか、ということだと思います。絶対に、暴力じゃない。これは諦めるわけにはいかない。「だって僕バカだからやり返すしか思いつかないんだもん」じゃダメなんです。(それとも、何か別の意図が?怒り?欲?火に油を注ぐのではなく、水をかけて消さなければ。)

みんな理性的になって”智慧”を結集させなければいけない。そうしないと、次々とテロリストは生まれてしまいます。(空爆すれば説得力がなくなってしまう) 

敵と味方に分かれてしまうと戦いは終わらない。賢い人は、中立な立場で智慧を出すんです。「戦うのはやめなさい、お互いに不幸になるから」と。(自分が戦いに参加してどうすんの

誰だってみんな、本当は幸せになりたいんです。テロリストだって幸せになりたかったんです。テロ行為をすることが幸福への道だと「妄想」しているんですね。欧米は空爆が幸福への道だと「妄想」している。(殺すと自分が生きる権利がなくなってしまう。死んでからも不幸になります。因果法則です)。不幸になることなんてやめないと・・・。

殺すなかれ


対話によって、悪行為をやめさせることが道徳です。本当の思いやりです。

怒り、欲は、小さいうちになくさなければいけない癌のようなものだと思います。放っておくとどんどん膨れ上がっていきます。(普通の人には普通の怒りや欲はあるでしょうが、大きくならないようによくよく気をつけなければいけませんね。猛毒、癌ですから)
理性的な人間にならなければ。怒りや欲があると智慧は生まれません。

(…完璧テロの話になってしまった^^;。実際、政治家でない私にできることはほとんどありません。自分を律して徳を積む、道徳的に暮らすことくらいです。日本は”ふつうのバカな国”ではなく”賢い国”になってほしいなあ、政治家のみなさんよろしくお願いしますね。生きとし生けるものが幸せでありますように・・・) 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十悪について その3 「嘘」「噂話」「無駄話」「悪口」

2015年11月16日 | お釈迦様

「十悪」のつづきです。

①から③は”身体”で行う悪行為でした。次の4つは、”言葉”による悪行為です。

④嘘 ⑤噂話 ⑥無駄話 ⑦悪口

>嘘とは、人を騙して自分が得をしようとする行いです。・・・ 相手に「自分は偉い」と思わせたい場合、人は嘘をつきます。自分への自信のなさが背景にあるのです。
>真実だけを話す場合、口数は本当に少なくて済みます。口が静かであれば、こころは落ち着いてストレスもなく過ごせます。

>噂や無駄話は、けっこうみなさんが大好きなものではないでしょうか。つい、面白くて時間の経つのも忘れて、だらだらとどうでもよいことを喋ってしまいます。
時間をものすごく無駄にしてしまい、頭がどんどん悪くなる・・・ 世の中の言葉の99パーセントは、噂や無駄話です。

>悪口は、平和を壊す言葉です。怒りのこころです。他人の、自分にとって気に入らないことをあれやこれやと並べたてます。・・・ 欠点は誰にでもあって当たり前ですから、本当は優しく教えてあげたりしなくてはいけないものです。

>言葉で行う悪行為は身体で行う悪行為よりも罪が重いのです。
>他人に与える害は多い、無限に犯せる、依存してやめられなくなる、思考がおかしくなる、智慧が現れなくなる、真理を知ることが不可能になるなどの理由から、言葉で行う行為は、身体で行う行為より罪が重くなります。

(アルボムッレ・スマナサーラ「的中する生き方」より)

どうでもいいことをしゃべるのは楽で面白いんですが、人の時間を無駄にしちゃいけませんね(人の時間を取る、時間泥棒?)
陰口、中傷、他人の仲を裂く言葉等を言えば、自分に返ってきます。口チャック!(てか、思うだけでもよくないね)

お互いが明るくなる言葉、楽しくなる言葉、「愛語」を心がけたいと思います。(「愛語」私はこれがけっこう難しい。賢くなりたい

 

もう少しつづきます。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十悪について その2 「偸盗」「邪淫」

2015年11月15日 | お釈迦様

仏教女子まるちゃんです。

「十悪」のつづき。
(アルボムッレ・スマナサーラ「的中する生き方」より)

②「偸盗(ちゅうとう)・・・与えられていないもの(自分に使用する権利がないもの)を取る(盗むだけではない)

>この身体を維持するために必要な資源にはリミット(限度)があります。・・・このリミットを知らない人は、他人のものを欲しがります。

>人は業(カルマ)で生まれますから、その生命を維持するために必要なものを与えられる力も、その業がもっているのです。千円のアクセサリーで身を飾っている人が、宝石で身を飾っている人を見て、それを欲しくなったら「偸盗意」が起こっているのです。

>逆に、「あるから」といって使いたい放題、自然の資源を使うこともどうかと思います。

>やけに恵まれている人々は、必要ないほどの贅沢によって、他人の使用する資源まで取っているのではないでしょうか。たいした仕事もしていないのに高い給料をもらったり、不正をはたらいたりすることも盗みに入ると思います。ようするに「節約」に通じる生き方であるなら、「偸盗」の罪は犯せないと思います。

「盗む」といっても、「給料泥棒」も「資源泥棒、エネルギー泥棒」も入るのですね。自然を壊して知らん顔の人間は泥棒でしょう。

必要以上に、「欲しい欲しい」「もっともっと」と思う理性のない心は、「泥棒のはじまり」てことでしょうか。「もっともっと」は「足りない満たされない」ということなので、こころが不幸な状態。マイナスのエネルギーが溜まっていきます。大金持ちでも、必要以上に贅沢三昧をして、困っている人に何もしてあげない人はやっぱりよくないエネルギーが溜まっていくでしょうね。寄付などの布施をするといいでしょうね。

 自分の限度、必要量を知らないと・・・食べ過ぎ飲み過ぎて肥満や病気になったり、ケガしたり、破産したり、まあロクなことになりません。これくらいで充分、って小欲知足で満足して暮らしたいですね。


③「邪淫(じゃいん)」・・・欲について間違った行為をすること

>「欲」とは・・・生きているときに私たちが依存するものです。5つあって「五欲」といいます。

>人々は、この五つの感覚(目に見えるもの、耳に入るもの、味わうもの、嗅ぐもの、身体に触れるもの)での楽しみを、それが楽しいからといって、間違った方法によってでも得ようとします。・・・自分が不幸に陥ることも、他人が不幸に陥ることも無視して、快楽を得ようとすることです。不正に快楽を求めてはならないというのが「不邪淫」です。

 

邪淫には不倫、ストーカー、セクハラ、薬物、大酒飲み、賭博やいろいろな依存症なんかも入るでしょうね。快楽に依存・執着して、快楽に溺れて、不幸になる。

ちなみに、人は業によって生まれ業によって生きるので、どうにもならないこともありますが、道徳的な暮らし、善行為をして新たによい業を作っていけば、ある程度は変えられよりよい暮らしはできるのです。人の人生は一人ひとり違いますが、貧乏も金持ちも関係なく幸せになれるし、病弱でも身体が不自由でも幸せに暮らせるのです。何よりも、人生は変えられます。よりよく変えていくものです。 

つづく。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十悪について その1 「殺生」

2015年11月14日 | お釈迦様

道徳ネタが続いてますが、無駄話(十悪のひとつ)にならないネタ、役に立つネタだと思うのでよかったら読んでみてね。

今日は、その「十悪」(道徳的に生きる上で止めるべき行為)についてです。(アルボムッレ・スマナサーラ「的中する生き方」より)

「悪因悪果」よくない行為は必ず自分によくない結果を生みます。
《「十悪」を犯さなければどんどんこころがきれいになって、どんどん幸福へ向かいます。》

①殺生・・・殺すこと(蚊やアリを殺すことも殺生です)

>理由は、「殺生」した人の生きる権利が奪われてしまうからです。

>他の生命によって自分の命が成り立っているのです。

>他の生命が自分を生かしているのですから、すべての生命に対して慈しみを抱くのは絶対条件になるのです。他の生命を殺すということは、法則違反なのです。

>われわれはかんたんに「じゃまだから」という理由で他の生命の命を奪います。実は、殺意が起こる瞬間、自分のこころに自分の命を害するエネルギーが生まれます。誰かに裁かれなくても、殺生をすると自分のこころに自分を破壊するエネルギーが蓄積されるのです。
他殺は自殺行為です。自分のしたことは、かならず結果となって自分に返ってきます。他の生命が活躍する場を奪ったら、その分だけ自分の生命が活躍する場はなくなります。ですから、すべての生命を慈しむ気持ちを育てて、互いに尊重し合うことが大事だと仏教では説きます。

>理不尽な人間は無数の生命に支えられて生きているにもかかわらず、誰かに迷惑をかけられただけで殺意を引き起こすのです。

>無知な生命には「自分以外の生命を殺したい」という本能があるのです。 


殺す時にはかならず殺意があります。ゲームで(ゲーム感覚で)「殺す」と思った瞬間にも心の中に悪業(悪い、自滅に向かわせるエネルギー)が溜まっていきます。そのエネルギーが悪い結果を生む。簡単に「殺す」なんて口に出しても、思ってもいけない、恐ろしい自滅行為なんですね。(死んでもいいや、というのも同じです)

ハイテク兵器なんて、殺人の自覚が薄いだけに、とんでもない悪業を作ってしまうことになると思います。

「死ぬとは思わなかった」というのは無知ですね。無知も悪業ですから、自殺行為です。
「悪は殺さなければいけない」は邪見、間違った見方。これも悪業。死刑も戦争も殺人によるテロ対策も、本当は自殺行為だし、しちゃいけないことを人間が無知だから仕方なくしているんだと自覚するべきだと思います。仕方ない、じゃダメなんだけどね。智慧を育てよう。

人間だけじゃない、すべての生命は「生きたい」という思いをもっているのです。幸せに生きていたい、と。
だから、殺しちゃいけない。

命は輪廻転生しています。(これは、カルマ論でまたupしましょ…)
その虫、もしかしたらご先祖様の誰かの生まれ変わりかも知れませんよ。亡くなったあの人の生まれ変わりだったりして(確率からすると低いけど、わからないよ~)。だから、殺しちゃいけない。 

智慧のある賢い人は殺さなくていい方法を考えます。殺すしか方法が思いつかないというのは「無知」なんです。
うっかり殺してしまったら、モーレツに懺悔しなければいけませんね。そして、賢くならなきゃ。
そして、食事としていただく命には最高の感謝を。そして必要最小限にしたい。欲のためにとらない。無駄にしない。(食用の命なんてないってことは自覚しておきたいですね。”死体”はただの物質なので、物質エネルギーとして食べてますが、命に対しては申し訳ない^^;)

長くなったので、今日はここまで。 

フランスで同時多発テロが起こりましたね。日本も危ないです。アメリカと一緒にやりますって宣言してるからね。”どっちも”自殺行為なのになあ。人間って・・・無知ですねえ。

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「本当の道徳」のススメ

2015年11月13日 | お釈迦様

道徳は強要するものではありません。でも、オススメします。
「道徳はいいもんだよ~作戦」開始

>頭の悪い人が語る美辞麗句の「道徳」は「非道徳」です。賢い人なら「道徳」を守ります。「道徳」を守る人が賢い人間になります。「道徳」さえあれば乗り越えられない問題はありません。精神的な悩みとは「道徳がないこと」です。最高にクールな生き方とは、道徳的な生き方です。・・・「道徳」を守る人は勇気のある人、人生を成功に導く人です。勝利者です。・・・われわれが夢見ている理想的な生き方をあっというまに実現するための最短な方法は「道徳」なのです。

>「道徳」を守ると、こころの病気がどんどん治っていきます。嫉妬しない、怒らない、欲張らない、嘘を言わないなど、道徳的な生き方、正しい生き方をしていると、病気だったこころがどんどん治っていきます。こころ・思考がまったく健全で、問題なく、健康的だったら、人生は成功します。よいことずくめです。

>しかし、なぜか世界は「道徳」が大嫌いです。かなりの人が「道徳」を守らないでひどい目にあっているにもかかわらず、誰も守ろうとしないし、守りたくないと思っています。とにかく、理由をつけて「道徳」を破ろうとします。(まるちゃんは守ろうと思ってる

>みなさん、人のことなら言いたい放題です。そして、「自分のことは放っておいてください」という姿勢です。

>人がみな、「道徳」を守らないからこそ、法律も、警察も、軍隊も、その他のさまざまなシステムが必要になります。なぜ、世の中に軍隊が必要なのでしょうか。人が「道徳」を守らないからです。

>世の中の「非道徳」は子供の生き方に影響する

>貧困や経済問題も「非道徳」が原因

>世の中で言われる「道徳」は、本当の「道徳」とはまったくちがいます。これが大問題です。
(アルボムッレ・スマナサーラ 「的中する生き方」より)

身体、言葉、思考で悪行為をしない、善行為をすること。そうすれば不幸から身を守り、問題を解決することができる。幸福への道。幸福の源。それが本当の道徳です。道徳は人生の盾になります。道徳と智慧があれば武器なんて必要ない。だから、強要されるものでも信じるものでもなく、納得するものなんです。神も遺伝も運命も関係ない。一時的な価値観ではなく、すべての生命にあてはまる真理、因果法則なんです。

なのに、守ってない人がいるから私も守らない、守れないから守らない、守りたくないから守らない、という人は、幸福を諦めて”不幸でいいんだ、不幸になりたい”と言っているようなもの。もったいなさすぎる…。

あなたが不幸だと私も不幸。あなたの幸せは私の幸せ。私が不幸だと周りも不幸になる。

みんな幸せになってほしいなあ。そのために私も幸せでいなくちゃね。

道徳は、自分だけでなく、周りだけでなく、他人だけでもなく、
「自分も、周りも、他人も、みんなが幸福になる行為」です。

私たちが守るべき行為は10項目。(「十悪」を犯さない「十善」)

簡単に言うと、
「殺さない・盗まない・邪な行為をしない・嘘を言わない・噂を言わない・無駄話をしない・悪口を言わない・こころで勝手に妄想して怒らない・こころで勝手に妄想して欲張らない・間違った意見をもたない」

これだけでOK。(「五戒」もあるけどね)

具体的にはまた。
(すでに道徳的に暮らしている人には当たり前のことだと思うけど^^)
 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『初期仏教の「女性・男性」論:女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です』アルボムッレ・スマナサーラ長老

2015年10月24日 | お釈迦様

仏教に男女差別(女性蔑視)などありません。
それどころか、”生きとし生けるものいっさいの生命は平等である”と、生命として”慈しみ”で見るのがお釈迦様の教えです。

でも、
(一)比丘尼サンガが比丘サンガの管理下に置かれること。
(二)戒律で、比丘尼は比丘に礼を尽くすことになっていること。
(三)正等覚者(迷信を信じていて真理を発見していない世界で、初めて真理を発見して説く覚者、つまりお釈迦様のような方のこと)は男性であるという経典があること。

などから、女性蔑視なのではと言われることがあるそうです。
でも、女性蔑視ではなく、女性は”肉体的物質的”に弱いので、守られているのだそうです。

「俗世間では、女性は管理者」だそうです。子供を産み育てる母親は、「生きることを管理する」。子どもを管理し夫を管理する。(思い当たりますね)

>女性というのは管理者です。しかも管理の達人なのです。あらゆる方法で自分が生んだ生命を管理します。

女性は強いのです。
しかし、出家したら男女を乗り越えなければいけない(男、女ではなく”生命”として修行する)ので、俗世間を乗り越えるためにあえて比丘に礼を尽くすという戒律があるそうなのです。まあ、覚れば、男性に頭を下げたってどうってことないのです、無我なのだから。


”なぜ俗世間では女性は抑圧されるのか?”

女性が強いからです。強いがゆえに、強引に、無理やりに、女性は表舞台から降ろされているのです。弱いのであれば、そんなに苦労して降ろす必要はない。

>「控えめ」を演じた管理は効率が高いのです。世の多数派はこれを使います。その「控えめ」は演技です。 (・・・演技って

>本来、女性は優しいのです。簡単にけんかするのは男性です。しかし、女性の優しさは管理に直結したものです。すごく優しく、きめ細やかに配慮したりすることで管理してしまうので、どんなに力が強い男でも逆らえないのです。(確かに、やさしさには弱い。)

男性は、その偉大な、主役の女性という生命体を支える脇役なのです。男性は、いつでも女性に命令されることに従って、女性を支えます。

男の役目はほんの少し。だから、男は暇で自由だから好きなこと(いらんこと?)ばっかりやってるってわけね。

>暇があるから仕事をする。政治をやる。戦争もする。軍隊もつくる。技術開発もする。機械もつくる。…

>男というのは、あらゆる技術開発をしますが、90%は役に立ちません。しかし、女に怒られると、役に立つものもつくります。それも、生命の世界では、男はエキストラだからなのです。

>結局、男性がやっていることというのは、女性のお世話です。しかも、女性に管理されてお世話をしています。

 

存在の中で女性が唯一偉い。そのぶん自由がないというのが、生命論の真理です。偉い人には自由がないのです。
>役が重くなればなるほど、自由はなくなります。

>女性は主役であり、管理者です。男性は女性に管理されて女性をお世話しているのに、それを勘違いして、男性が何でもやっているのだと思い込んでいます。

現代社会は西洋型の社会で、男性中心ですね。これは自然法則に逆らった「男性が偉い」という価値観による社会です。当然、その男性中心の社会はうまく機能しないのです。

 
なぜ正等覚者は男性なのか。”・・・それは、男性は暇で自由だから、だそうです。
(子供を産まない女性もいるんだから、そういう女性が正等覚者になれたっておかしくないんじゃ?とも思いますが、生物的にはそうなるらしい。個別には男女関係なく悟れるのだから、別に正等覚者が男性でも女性でもどっちでもいいけどね。)

生命として女性には自由がないのだから、余計なことは何もできない、ということです。命に関係のないことに力を割いている暇などないということです。男性には暇と自由があります。(暇なのか

生命を生み、育み、守る上で、男に果たせるのは、せいぜい0.5%の役割だけです。ですから、女性が男性の役割の少なさに不満をもつのは当然のことです。(男って…)

女は管理者(主役)で偉いから自由がない。男は脇役なので暇で自由がある。

お互いのことは理解できなくて当たり前なのに、女性は「育てる」という天職のために、相手のことがわかった気になってしまうみたいです。だから、そのズレに女性の方が悩みを抱えることが多くなるようです。(不満を言うのは大体女性の方ですね)

> もし、心から平和を望むなら、豊かさを望むなら、戦争が嫌ならば、女性たちが命令すべきです。「こうしなさい」と、政治をやっている男たちに力強く命令することで、ジワジワと世界は変わっていきます。

世の女性たちは、もっと声を出した方がいいね(奥さんがんばって!)。まあ、中には男性と同じようなちょっと危ない女性もいるけどね。男女の区別がわからなくなってきてるね。

>人類は平等なのです。しかし、一人ひとりが違うのです。劣等感も、優越感も、それを感じることはおかしなことです。そういう人は無智なのです。
>生命というネットワークの中で、「自分」という一個が自分の役割を果たすべきです。「男だから」「女だから」などと言っている場合ではないのです。 


(政府は「女性の活躍」だとか「女性の活用」だとか言ってますが、女性差別を意識している点で逆に差別してるようで違和感があるんだよね。どうせなら「男女関係なく」「性別ではなく個々の能力に合った」て言うとか?あと「活躍・活用・輝く」っていうのも国が女性を”使おう”ってもっと働けって言ってるみたいで違和感があるんだよね。言われなくても働ける人は働いてるさ。生きてるんだから。”外でも中でもどこでも”働きたい人がそれぞれ働きやすい社会になるといいね。)
 

kindleで300円。あっという間に読めます。面白かったです
 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能力を向上させ完成させる7つの方法 (七覚支)

2015年10月04日 | お釈迦様

以前、能力を奪う五つの障害(五蓋)について書きましたが、つづきがあります。

能力を向上させ、智慧を完成させる方法(七覚支)です。大ざっぱにまとめておきます。
(覚とは完全なる智慧、支は部品。智慧は7つの部品で成り立っていて、この7つの部品を完全に育てるなら「覚り」という完璧な能力が現れるという教え)

智慧(能力)を完成させるプロセスとしても見ることができます。一流、プロへの道みたいなものでしょうか。悟りへの道ですね。簡単に流れを見てみると、次のようになります。

「気づき」→「分析能力」の高まり→「精進」→「喜び」→「軽やかになる」→「集中力・心の統一」→「冷静・落ち着き」(完成・ゴール)

一番目は「気づく」ことです。(念覚支) 
今の瞬間に気づいていること。すべては、「気づき」から始まります(データを集める)。
上の空で他のことを考えていたのでは能力は高まりません。自分が今、何をしているのか気づいてなければ失敗します。

食べている、歩いている、運転している、字を書いている、計算しているetc…と今のこの瞬間にとことん気づいていること。食事も、箸を手に取る→つかむ→運ぶ→入れる→噛む→味わう→etc…とひとつひとつに気づいていれば間違いはない。要らんことごちゃごちゃ考えてないで、ちゃんと気づいていなさいということです。

過去や将来のことを考えると、現在のことがおろそかになり、現実離れになって心は妄想し始めます(過去はすでにないし記憶は不完全で主観的、将来のことは過去の記憶や知識をもとに勝手に思考しているだけのものだからやっぱり主観的でいいかげん。後悔も不安も妄想)

”妄想”するとどんなに能力がある人でも能力がなくなってうまくいかなくなります。心が混乱する。余計なことを考えると…心が汚れて集中できない状態になります。これが失敗の元です。妄想を止めるには…「今に気づく」しかない。「妄想していることに気づく」ことで妄想は止まります。

何事にも気づいていること。今、この瞬間に気づいていることが一番大事なのです。
今に気づいていると、智慧が現れて、心の汚れや障害がなくなります。頭も良くなります。今の瞬間に気づくだけで、心がきれいになります。

私たちが意識的に頑張るべきものは、「気づく」こと(と精進すること)だけといってもいいかも知れません。後は自然にステップアップしていきます。 

二番目は「データをより明確に分析して見る」こと(ちゃく法覚支)
今に気づいていると、ものごとの因果関係が見えてくる(データを調査すると因果関係を発見できる)。自分勝手な知識で分析するのではなく、「気づき」が充分にできるようになると分析能力は自然に生まれてきます。

世の中で「プロ」と呼ばれている人たちは、自分の専門分野において因果関係を知っている人たちのことです。どんな分野でも、プロといわれる人たちはその分野の因果関係に長けているのです。因果関係は今のデータをしっかり観察していると自動的に現れてきます。 

三番目は「精進(しょうじん)」(精進覚支)
気づきからスタートして、分別能力が身についてくると、自然にやる気が現れてきます。
そして、うまくいったら・・・もう少し頑張るのです。その分レベルが上がる。さらに頑張ると次のステップに行く。(褒めてほしがったり認めてもらいたがったりするのは怠け者の考えです)

頭でわかっただけでは覚ることはできません。心はすぐに欲や怒り、怠けの方へ引っ張られてしまうのです。そうものです。そこで「精進」が必要です。自己に打ち克つことが「精進」で、能力を高めるためには必要なのです。

四番目は「喜び」(喜覚支)
精進を続けていると「喜び」が現れてくる。「わかったぞ!」という喜び。非常に高いレベルの喜びです。何か新しいことを発見すると、心はすごく喜びを感じる。さらに向上するための励みにもなる。

人間の脳というものは、楽しみや喜びがないとうまく機能しません。人生はつまらない、楽しくない、などと不平不満ばかり言っていると、脳はどんどん退化していくのです。何事も喜びを感じながらおこなうことが大切なのです。 

五番目は「心が軽やかになる」(軽安覚支)
心を苦しめてきた欲や怒り、怠け、興奮、混乱、後悔、疑などの重石がなくなった状態。心が軽くなって、冷静に気楽になんでもさっとできるようになる。心が軽くなると体も軽く感じられます。

六番目は「心の統一」(定覚支)
どんな仕事にもジーッと集中できるようになる。今やっている仕事と一体になって、終わるまでずっとやり続けることが出来る。緊張することも失敗することもなく、疲れることもストレスが溜まることもなく、仕事をすることが出来る。 

七番目は能力がすべて揃って「極限に冷静」な状態(捨覚支)。
最高の能力を発揮することが出来ます。

 

これが修行の道というわけですね。少し頑張った人には、少しの結果があり、まあまあ頑張った人には、まあまあの結果があり、一生懸命頑張った人には、それに応じた良い結果が得られる。

このプロセスを知っていれば、精進しなければ喜びはないとわかるし、喜びや軽さ、集中力、落ち着きが大事だということもわかります。そして、一番大事なのが「今の瞬間に気づく」こと。妄想しないこと。過去や将来に囚われず、今に気づく、今、今、今・・・ということですね。

そうすると、マイペースでいくしかない。ひとつひとつをていねいにする。気づかなければ始まらない。気づかなければどうしようもない。
・・・気をつけたいと思います。

(『サンガーラワ経 能力を奪う五蓋と智慧を完成させる七覚支』アルボムッレ・スマナサーラ長老 を参考にしました)

  

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能力に蓋(ふた)をするもの 五蓋(ごがい)

2015年09月24日 | お釈迦様

昨日は秋分の日で彼岸の中日なので、お墓参りに行きました。人間は忘れっぽいし怠け者なので、お彼岸にお墓参りをすることで、自分の生き方をふりかえるというのは日本人の考えた一つのよいアイデアなのかもしれません。この世に今自分の肉体があるのは、先祖からのつながりがあってこそ(自分の親、親の親、親の親の親と代を遡っていくと2のn乗で、ものすごい数の人とのつながりがあることがわかります)。今ここに生きていることだけで有り難い。

お墓に誰かがいるとかは(理性的に考えて^^;)思えないので、どこででも先祖のことを思って、先祖のためにも徳を積む(回向する)ようにしたいと思ってます。が、日本の風習も悪くはないです。父と姪3人とお墓をそうじして手を合わせてきました。きれいになると気分がいいです。

せっかくなので学生(姪)たちに為になる話を、と、お彼岸とはとか法話もどき?をしてあげました。
題して「能力に蓋をするもの5つ」。(←めんどくさいおばちゃん?

あんまりすっきり話せなかった(一つ忘れてたし、ちょいあやふやので、ちゃんと整理しておきたいと思います。機会があったらまた教えてあげよう。

 

能力向上の障害になる、能力に蓋をするものが五つあります。(”五蓋ごがい”という)

それは、①愛欲(欲、特に性的な欲)②瞋恚(しんい)(怒りやライバル意識)③昏沈睡眠(怠けと怠けから来る眠気)掉挙(じょうこ)(浮つき焦り、集中力がなく興奮している状態)・後悔⑤疑(因果法則がわからず、頭から否定したり鵜呑みにしたりすること)

①愛欲とは、性的な欲望です。(異性のことばかり考えてたら勉強に身が入らなくなりますね。)

これは病気であり、危険なものだと理解しておかなければいけません。(家族への愛とは違うものです)
愛欲と智慧は正反対のもので、愛欲が生じると智慧は消えてなくなります。
なので、愛欲が生じたら、環境を変えて全く別のことをするのがよいでしょう。(走るとかね)

②瞋恚とは、異常な怒り、ライバル意識です。

「怒りは猛毒である」と理解して、怒りが生じたら「あ、怒りだ」と確認して、大きくならないうちにすぐ解毒することです。
怒りや暗い気持ちでは能力は向上しません。(理性的でない状態ですからね)
環境を変えて別のことをするのもよいです。慈悲喜捨の心で怒りに打ち克つようにするのもいいです。
そして、ライバルを作らないこと。ライバルではなく「自分に勝つ」ことを目標にするのです。 

③昏沈睡眠 昏沈は怠けです。やる気がなくなると眠くなってきます。

怠けは放置すると繁殖するので、

・場所を変える ・姿勢を変える(立つ、背筋を伸ばすなど) ・課題を変える(別の科目をするとか) ・「(けっこう)面白い」と思う などするといいです。

掉挙・後悔 掉挙とは、心が浮ついて焦っている、緊張している、集中力がなく混乱し興奮している状態です。

後悔は暗い不善心で、後悔するたびに悪が強化されます。後悔ではなく、懺悔することです。自分の過ちを認めて謝罪する、同じ過ちを二度としませんと決意することです。

落ち着き、集中力を取り戻すには、深呼吸して呼吸を数えるといいです。

⑤疑とは、頭から否定したり、鵜呑みにしたりすること。つまり、「因果法則」に納得してないこと。心があいまい、中途半端、優柔不断な状態です。

「なぜだろう?理由は?証拠はある?」と、よく調べてはっきり知ることが大事。「いかなる現象にも原因がある。何一つも偶然に起こりえない」と客観的に理解するなら疑はありません。
証拠が不十分なら、きっぱり保留にすればいいのです。

 

学生、若い人だけでなく、高齢者でも誰でも、この五つの蓋を心から取り除くように気をつければ、自分の能力をもっと伸ばすことができるようになるのです。五つの障害に心が支配されてしまうと、理性がなくなるので心は不浄になり、することは悪行為になります。

障害や煩悩は人間に固定的に備わっているのではなく、そのときそのとき現れたり消えたりするものです。(”無常””因果法則”です)
だから、

「どうすることもできない」とあきらめるのではなく、障害が現れないように注意して気をつけることが大事なのです。 

心の蓋を開け、障害を除去する方法(七覚支)については、また・・・

(『サンガーラワ経 能力を奪う五蓋と智慧を完成させる七覚支』アルボムッレ・スマナサーラ長老 を参考にしました)

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無常と無我の話(A.スマナサーラ長老 TED講演)

2015年07月30日 | お釈迦様

TEDの講演の中に、アルボムッレ・スマナサーラ長老の講演があったので聴いてみました。

長老は上座部(テーラワーダ)仏教(原始仏教とも初期仏教とも言われます)のお坊さんで、スリランカから1980年に日本に来られてお釈迦様の教えを伝える活動をされてます。日本語ペラペラで、面白い方です。

27分ありますが、ぜひ最後まで聴いてみてください。

 

「無我」と「無常」の話です。

本性を”破る”。自我の幻、妄想を”破る”…かな?

 

今、この瞬間を生きよう。

現実は今のこの一瞬だけ。

今の一瞬を精一杯生きて、今の一瞬だけを成功させればいい。

自分探しなどやめて、気楽に精一杯、元気で明るく生きましょう。

・・・という話です。

いい話ですよ


にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8時だよ!神仏集合!

2015年07月29日 | お釈迦様

TEDって知ってます?米国発のビデオコンテンツで、TEDはTechnology、 Entertainment、 Designの頭文字をとったものだそうです。いろんな著名人が世界に向けて講演(プレゼン)してます。外国のは日本語字幕で見られるし、日本版もあります。

YouTubeを見てたら面白いのがあったので紹介。
15分弱ですので、見てみてください。

日本のお坊さん、らしいですね。

「8時だよ!神仏集合!」・・・いいですね~

どんな宗教をもっていようと、人間・すべての生命(神も仏も動物も虫も含むすべての生命)は平等である。それぞれのちがいを認め、互いの自由を尊重し、互いに仲良く助け合うことで生命は成り立っている。

これはお釈迦様の教えそのものです。
(補足…上座部仏教は
戒律(=幸福に至るために自分を律するもの)を重視しますがそれは個人のことで、他人に強要しません。お坊さんは幸福への道を教える立場、そのお坊さんが戒律を無視して煩悩の道を歩いていては、真理を語れないし説得力がないですからね。戒律を守って精進しない人はただの人。まあ、みんなただの人、同じ生命ということですね。)

1つの宗教(神とか仏とか魂とか…を信じること)を”妄信”することはエゴにつながります。排他的になる可能性がある。このエゴ(自我)をお釈迦様は否定されます。心が楽になったり救われたりするのはいいこと。エゴに繋がる部分(妄信)の危険性が問題なんです。

だから、他の宗教に対しても寛容であるべきなのです。
(日本の仏教のほとんど?がお釈迦様の完成された仏教ではなく、日本独特の仏教の流れをくむ新興宗教だと思います。けど、それはそれで自由なんですね)。お釈迦様はあらゆる偏見、差別を否定されています。(日本国憲法でも宗教の自由は認められていますね)

だから、お寺の子がカトリックの学校に通っても、学んだことで他人に害を及ぼすことがなければ、全く何の問題もない。お釈迦様なら、「それが何か?」って言われるでしょうね

「宗教家駅伝」これもすばらしい

多宗教間、多民族間、多国間でたすきを繋いでいく。これができれば、世界はかなり平和になると思います。
オリンピックのように”国と国とで競争”するのではなく、みんな混ざって混合チームをつくり、純粋にスポーツとして楽しむ。オリンピックもこういうやり方に変えてもいいのではと思います。オリンピックとパラリンピックも一緒にやればいいと思います。(ついでに言うと、猛暑の真夏ではなくもっと気候のいい時にしましょうよ

TEDおすすめです!

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流れがあるだけ (「無我」について)

2015年07月24日 | お釈迦様

豹頭王グインですが、自分がどこの何者なのか、なぜ異形(豹の頭)なのかわからない。

それでその手がかりを探しながら生きているのですが、この「自分(自我)」についてお釈迦様は

「自我はない」「一切は無我である」と言われています。

全宇宙のありとあらゆるものは超高速で生滅をくり返し変化しつづけている(無常)。

ですから、私たち人間も生滅をくり返し変化しつづける。
厳密に言えば、一瞬前の自分と今の自分とは違う。

一瞬前の自分、過去の自分は実際にはもういない。今の瞬間にいる自分も次の瞬間には違う自分に変化しているので、もうこれは「これが自分です」というような、「変わらない確固とした”自分”などというものはない」と言わざるを得ない。自分とは「一瞬一瞬変化しつづける、「一つの流れ」があるだけなのです。

>生命には、「自分がいる」という実感があります。(色々な感覚がそう思わせるのです)・・・・しかし、「自分がいる」という実感があるからといって、何があっても絶対変わらない「我」があるわけではありません。ただ、瞬間瞬間に変わる自分がいるということです。

様々な因縁によって瞬間瞬間変化する「自分という流れ」があるだけです。

>朝から晩まで、常に変化しつづけている「自分」がいるのです。「自分がいる」といっても、朝の自分と、今の自分は常に違います。それは一つの流れです。つまり「自分」とは、因縁の流れなのです。(『無我の見方』A.スマナサーラより)

体も心も無常です。だから、永遠不滅の変わらない魂などもない。
死んでどこかに生まれ変わったとしてもそれは別の誰か(何か)なんですね。まるちゃんはこの世で終わる。心のエネルギーはなくならないので次の誰か(何か)として全くまるちゃんの知らない人(人ならね)の人生が始まるわけですね(心を磨いて解脱できなければ、このやり直し修行し直しがずっと続く)。
(”まるちゃん”はいなくなるのですが)
でも、因果法則によってまるちゃんの生き方の結果が次の世に現れてしまうのです。悪いことはできません。あんまり酷いと人間に生まれないかも知れません。悪因悪果です。(まあ、この世での生き方はほとんどが死ぬまでにこの世で報われるので、せいぜい善思考善行為を心がけたいです。無常なので、次の世の方も努力次第で変えられるのですが。 )

ちょっと話が大きくなってしまいました(しかも、あの世の話はどうでもいい)

話を戻すと、「変わらぬ自分、自我がある」という”錯覚”が、(私はいつも正しい、間違ってないという)エゴ頑固、高慢のもとになっている、ということで、要は、あんまり「自分自分」「私私」いうんじゃないよってことですね。もともと「変わらぬ自分」なんてないんだから。変わるんだから。過去の自分はもういないんだし。「自分」「私」の錯覚にしがみつくもんじゃないよってことね。

自我意識(アイデンティティ、主体性)をもつのはいいけど「エゴ」になるとよくない。
私にはこういう能力があるからこういう勉強をしたいこういう仕事をしたいこういう生き方をしたい、という人生のプログラムを組み立て、そのように生きていくためのアイデンティティはいいけれど、その場合も柔軟に修正しながらいかなければいけない。「絶対に何が何でも~する」「~すると決めたからには絶対に」と決めつけてしまうエゴが出て、うまくいかなくなりますよ。ってことですね。

「無我」とは、

変わらない「私」「自分」(の錯覚)にしがみつかず、もっと自由に柔軟に賢く生きたらどうですか、無我なんだから

ということだと、理解してます。

だからグインも、あんまり過去の「自分」を探すことに囚われないで、今を、未来に向けて柔軟に生きていけばいいと思うよ。まあ、なんで首から上が豹なのかは知りたいだろうけどね。ていうか、次々と問題が起こってそれどころじゃない?

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の予測術(「無常」について その4)

2015年07月14日 | お釈迦様

つづく、と書いたからにはつづけなくては^^;

えっと、無常というのは、全宇宙のありとあらゆるものは高速で変わり続けているという事実でした。物質(人間も!)は光速で、心は物質の17倍の速さで変わるのだそうです。物質については、物理学で証明できてますね。(心についてはお釈迦様が証明してるけど、私(たち)にはそれを確かめることが難しい、可能だけど能力がね…信じるな確かめろって言われるけど凡人にはなかなか…)

だから、あれこれに執着して苦しむことはないよってことです。
どうせ変わるんだから、変えられるんだから、「明るく」生きましょうって。

どうせ変わるんだから「やけくそだ~っ」て話じゃないのです。

未来は分かりませんが、ある程度は予測し、計画を立てることが出来ます。
なぜなら、
全ては「因果法則」で、因(原因)(条件)によって変化するからです。

すべてには原因(因)があって、その原因に対して結果(果)がうまれる。今起こっている事、物質も出来事もありとあらゆるもの全て原因となるものがある。原因から結果が生まれ、その結果は次の原因となって次の結果を生む。無からは何も生まれないのです。奇跡などないのです。←因果法則
カラスの卵(因)からはカラスが産まれます(果)。猫が産まれることはありません。 

で、原因に様々な条件(縁)が加わって結果(果)となる。原因は一つでも、色々な条件によって結果は変わるのです。←因縁
上に石を投げれば(因)、落ちてきます(果)。途中で誰かがその石を掴んだら(縁)落ちてきません(果)。

因→→→果
   ↑   因→→→果
  縁    ↑  因→→→果
      縁    ↑  因→→→果  とず~と続く。
          (←1つじゃない) 

ありとあらゆるものがこの無常の因果法則で流れています。

ある目的(果)があれば、それに対しての原因と全ての適切な条件を揃えれば、思う結果にたどりつくことはできます。けれど、条件(縁)は一つではないし、すべての条件を見つけること、条件をすべて揃えることはほとんど不可能です。いくらバッチリ受験勉強(因)をしても、受験に行く途中で災害に遭って(縁)試験が受けられないとか、思わぬことはあるもの。

>無常とはある一方向へと延々と変わってゆくことです。因果法則は多次元論ですが、無常は一方向なのです。無常は止まりません。元にも戻りません。世界は行儀よく、しっかりと、揺らぐことなく、曖昧なところなく、法則に沿って変化してゆくのです。

ということで、なるべく適切に因縁を把握できれば、それなりの高い確率で予測することができる、というわけです。
確率を高めるには…

①予測する現象を1つに限定する
  過去に似たような現象があったら、その流れも参考に。因(原因)と縁(条件)を発見して予測します。
②予測する時間を短く限定する
  時間が長ければ長いほど因縁の把握が難しくなる。10年先20年先の予測はまず当たりません。 
③予測する対象を小さくする
  世界のことより、自分の家庭のことの方が当たる可能性は高い。
④因縁をできるだけ発見する
  因縁の50%がわかれば、50%の確率で当たる。
⑤パーセントで予測する
  100%あたる予測は不可能。

 

同じように、「計画」も立てることが出来ます。
今の原因・条件を変えたり、新しい原因・条件を加えたりして「変わる方向を変える」、これが計画。

感情ではなく、理性に基づいて、いまあるデータを客観的に判断して、実行できる計画を立てることです。(範囲を狭くしたり時間を短く分けたりすると結果が出やすい)

計画は固定するものではありません。期待する結果が出るまで、時空関係を調べて調べて、計画を調整する必要があります。調整しながら自ら達成させていくのです。

(「無常の見方」アルボムッレ・スマナサーラ著より)

なんか、書いてると「当たり前じゃん」って思ってくる。小難しく?聞こえるかもしれないけど、言ってることはきっとみんなわかってること。でも、私たちの観察能力が低くて、主観的感情的に自分の都合で観察するもんだから、うまくいかないって悩んだり腹が立ったりするんだよね。

上手くいかないのは因や縁を適切に発見して対処してないからで、でも全部を発見することはできないのだから思い通りいかないのは当たり前。できるだけ因や縁を発見して、対処すればいいさ、てことね。 

計画を立て物事が成功したとしても、結果はまた変化していくのだから、あまり結果に執着しない(すると苦になる、臨機応変、進化しつづける)、それよりその時その時(いま)を充実させることだとは思います。

頭で理解するだけでも役に立つけど、できるなら観察能力を高めたい。
無常を観察し、観察能力を上げる方法は、またあらためて。(つづく?)

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大事な観察能力…(「無常」について その3)

2015年07月11日 | お釈迦様

自分を含めて、ありとあらゆる全ての物、万物は超高速で変化し続けている。物質は全て同じ速さ(光速)で変化している(心の変化はさらに速い)。そして、決して止まることはない。人間が灰になっても、灰になった物質は次の物質へと変化し続ける。止まらない。エネルギー(心)は無くならない。すべては変化(超高速で生→滅→生→滅の連続)するだけ。事実であって、それを感傷的に捉えようが明るく捉えようが関係ない。
(何だかすごい…けど事実なんだな。2600年前に一人で観察して発見したお釈迦様ってすごい…)


>世間では、変化、無常を、主観的、感情的に、自分勝手に評価しています。
>あまりにも身勝手なのです。好きなところで、好きなものを、勝手気ままに観察しているだけです。それにもかかわらず全体を語るのです。

>観察能力が乏しくて、無常の一部だけを好きなようにハイライトしているのです。

>どうにも能力が低くて、無常、変化に気づくのが遅すぎます。子供の成長にも、会社の経済状態にも、世界の変動にもきちんと気づきません。無常に気づいたときには、すでに危機的な状態になってしまっているのです。

世間の無常は、変化に対する主観、感情でしかありません。役に立ちません。お釈迦様の言う「無常」を理解し、ありのままに見る能力を高め、ちゃんと焦点を合わせてしっかり観察する。
そして手遅れにならないうちに、手を打つべきです。
(青い字は「無常の見方」より) 

大事なのは観察能力が乏しいことを自覚して能力を高める努力をすること。

何もかも変わっている。自分も変わっている。同じスピードで絶え間なく変化していくものだという事実に気づくことです。

万物は変化している。変化するものをずっと見ていれば、どれも面白い。
無常を知ると、あらゆるものが一時的、自分も一時的な現象だとわかる(←無我)。
あらゆるものが執着に値しないとわかる。怒りが成り立たなくなる。

無常は個人の感情とは関係のない事実・真理です。無常だからワクワク生きる。無常だから努力が実る。無常だから進歩する。無常のお陰で生きている。

無常を知ると、

子育ても上手になる。性格が柔軟になる。注意深い。落ち着いている。パニックにならない。明るく生きる。楽しく生きる。心を育てる。

「無常」はすごい! 

人の批判をしても全く意味がないし、反対に自分の心が汚れるだけです。”ワタシはすべてを知っている神であ~る”と表明しているようなものだし、(感情的に)批判することで(心が汚れてしまって)さらに物事は見えなくなる。

批判するのではなく「見る」ことです。そして、結果を予測して対処する。

「無常」を知れば”予測”が出来るようになります。何故?どうやって?
「無常」は、幸福へとつながる明るい真理です。

でも、観察能力はどうしたら高められる?
もう少しつづく・・・ 


中学生の自殺のニュースですが、本人もいじめられて気の毒、親御さんもお子さんを亡くして気の毒、担任の先生も生徒の自殺を防げなくて気の毒、いじめた生徒もいじめてしまって気の毒、関わった人みんな気の毒です。どうしたらみんなが幸せになるのか、その方法をみんなが見つけることです。不幸な事件です。

生きとし生ける者の悩み苦しみがなくなりますように・・・
生きとし生ける者が幸せでありますように・・・

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私たちの大きな間違い (「無常」について その2)

2015年07月10日 | お釈迦様

お釈迦様の言う「無常」は、私たちの思う、”サクラが散ってしまった、無常だなあ、儚いなあ”なんてのんびりした感傷とはスケールが違います。「そんなのは無常でも何でもないわ~っ」て言われそうです。(誰?)

つづきです。(参考資料「無常の見方」アルボムッレ・スマナサーラ著)

 

問題は「見方」でした。ありのままに見ずに自分勝手に見ている。

さらに私たちが「思う」ことが大問題です。
物事はきちんと見て、どうしたらいいか正しく判断して行動するべきなのに、その「判断」がまた
大間違いをするのです。

私たちの大間違い

①「見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの」が「ある」
②「思うもの」が「ある」


②は大問題!

>「あの人は性格が悪い」と思ったら。それを事実だと思う。

「あの女の子は不細工だ」と思ったら、「あの女の子は不細工です」と決めつける。
とんでもないことなのです。

>人間は「自分が思っていること」を断じて譲りません。自分の考えは絶対正しいと思っているのです。・・・思うことは危ないのです。・・・誰もが、”自分の考えは絶対に正しい”と思っています。

>現在の世界の問題は、ほとんどが「考えの違い」から生じています。・・・争いは全部思考の問題です。

>この世で何の解決策もない問題は「思考の争い」「信仰の争い」(宗教に限らない。医学を信仰、科学を信仰なども。とにかく妄信すること)です。

①についても、これは間違いです。

人間の認識能力には限りがある(低い)ので、私たちは普通に聞こえる音を「ある」と思っていますが、人間に聞こえない音もたくさんあります。聞こえたと思っても空耳ということもある。コウモリに聞こえる音は人間には聞こえない。見る、聞く、匂う、味わうなど全ての感覚がそうです。人間は周りの情報、感覚すべてを正確に認識しているわけではないのです。

しかし、私たちは自分が見たもの、聞いたものを、実際にその通りだと思う。正しいと思う。そのまま「ある」と思う。しかしそれは大きな勘違いです。

実際は、あらゆるものが変化するから認識できる、変わるから知っている」ので、変化がまったくなければ知ることは出来ません。つまり、「ある」から知るのではないのです。

>光のエネルギーが花に入る。すると花びらが乾いたり、細胞が壊れたりします。花が変わったのです。花を変えることで、光も変わります。エネルギーの量も変わるし、色も変わります。花に当たる光(直射光)と、花で跳ね返る光(反射光)は違いますね。直射光は太陽光の色でも、反射光は赤や黄や紫だったりします。花から出た光が私の眼に入ると、目の神経細胞が反応します。私の体が変わったのです。それから私に「花だ」という認識が生まれます。私の心が変わったのです。
花から光(反射光)が出ることで、花そのものも変わってしまいます。光が反射することは変化です。そしてさらに、私が瞼を開いたとたん、「眼に入る花=花から出る光の一部」は、私の眼に触れて消えてしまう、変化してしまう。
私が花を見ると花は変わる。・・・花を見る私も変わる。瞼を開いて閉じる瞬間に、見ているものも見られているものも、めまぐるしく変化してしまうのです。
私が見ても見なくても、花に光が当たるたび、花はずうっと変化しつづけます。
光は花に当たるだけではありません。壁にもカーテンにも、あなたの服にも当たっています。そこではさまざまな変化が起こっています。世界中そんな具合です。
音も同じです・・・

「花が(変わらずに)ある」というのは大間違いです。錯覚です。 

「花がある」「音がある」「人がいる」・・・これらは「固定概念」。知識にもこれらの認識の間違い、錯覚が入り込みます。

>知識は過去のもの

>我々の知識は錯覚です。・・・我々は頭の中であらゆる間違った知識を組み合わせたり合成したり、考えたりするのです。

>誰もが好き勝手に妄想していて、誰もが「自分の知識こそ正しい」と思うのだから、対立するのは当たり前なのです。
「主観」「錯覚のかけら」は、恐ろしいのです。

一切は流動的です。ノンストップ。瞬間ですら停止しない。

 

物事を客観的にありのままに認識するのは大変なことです。私たちは、いい加減に認識し、しかもそれが正しいと思っている。正確に言えば、自分も含めてありとあらゆるものはすべてず~~~っと変わり続けている。光速で変わっているのです。変わらずに「ある」なんて言えない。もちろん知識や情報も流動的。変わらないものなど一切ない。これが「無常」。

じゃあ、知識はいらないの?何を頼りに考えればいいの、て途方に暮れてます?
まあ、あんまり色々なものにしがみついたりせず、もっともっと柔軟な思考を心がけるといいでしょうね。)

・・・まだつづきます。


いじめ自殺事件について、主観的な見方で、客観的にありのままの事実をすべて知っているわけでもない、全知全能気分の世間が、一方的な見方で人を非難する。今度は世間のいじめが始まっている。自殺の原因はいじめられたから、助けてもらえなかったから、だけじゃないし、責任は一人にあるわけじゃない。本人含めて関わりのある人すべてがおのおの反省することであって、外部(世間)が”批判”するなど、とんでもないことだと思います。批判される人はみんな気の毒です。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ悩むのか?(「無常」について その1)

2015年07月09日 | お釈迦様

「無常」という”真理”について、お勉強してみようと思います。
(参考資料「無常の見方」アルボムッレ・スマナサーラ著←具体的に丁寧に非常にわかりやすく書かれてるので、自分で読まれるのが一番かと思います^^;)

まず、「真理」とは、客観的な事実であり確かめることができるということです。
仏教(お釈迦様の教え)は、理解し、実践するもの。幸福に生きるために役立つ、論理的で実践的な「心の科学」です。”信じる者は救われる”信じなさい”という信仰とは違います。

では、勉強してみましょう。確かめてみましょう。

 

私たちはなぜ悩むのか?

→「無常」という真理を理解してないからです。つまり、私たちは

「変わる」から悩む
  …現象の「自分にとって良い側面」を見て、「変わってほしくない」と悩む。
  例)景気が悪くなった、病気になった、友人関係が悪くなった、子供が非行に走った、シミシワ白髪ができた、etc…

  →「変化」に抵抗して苦しむ。

「変わらない」から悩む
  …現象の「自分にとって悪い側面」を見て、「変わってほしい」と悩む。
  例)景気が良くならない、大学に合格できない、いつまでも貧乏だ、仕事がうまくいかない、私はブスだ、病気が良くならないetc…

 実際、②の「変わらないから悩む」はあり得ません。「変わらないものは、ない」のだから。ただ、”自分が期待するように”変わらない、と言ってるだけです。


問題「見方」にある。
ものの見方が、すべて「主観的」で「わがまま」

「自分の思い通りになって当然だ」と、思っているから悩むのです。 


不完全な人間が”全知全能者”の気持ちになると、人生は矛盾だらけになります。ところが、「自分は全知全能のつもりで生きているのだ」と気がつかない。そんなことはない、と主張する。なら、全ての悩みはなくなるはずです。

「生きる」というのはすべて「変わらないようにする努力」「変えようとする努力」ですが、それには終わりがない。きりがない。「生きる」ことは「苦」なのです。
(注:「苦」=「苦しい」ではありません。真理です。)

「自分のわがまま」に'気づく'だけでも、人生はうまくいきます。 

主観やわがままな見方ではなく、客観的にありのままを見る見方ができれば悩むことはなくなります。失敗もありません。私たちは、ありのままに見ることができない、わがままなんだ、だから失敗したり悩んだりするんだ。はい、認めます。その通りです。失敗しても当たり前ですね。

認めさえすれば、”困ったことになったな。(見る)ははあ、そりゃそうだね。なら、どうしましょうかねえ。こうしてみましょうかねえ。””思うようにいかない。まあ、そういうもんだ。なら、こうしてみましょうかねえ。”…と、穏やかに、気楽に生きていけるようになります。

悩みたい人、悩むのは自由。悩むのも人生だけど、でもほどほどに。
悩んで暗い気持ちになると問題はなかなか解決しません。
悩む=解決方法を探す、じゃないから。悩んでも解決しない。心は悩むことでは鍛えられないし、悩まなくても(悩まない方が)心は鍛えられます。悩んで心が暗くなるより、あんまり悩まない方がよくない?

悩みたくなくても悩んでしまうって?そういう人がほとんどかも知れません。でも、「無常」という真理が分かれば、悩むことは成り立たなくなると思います。
少なくても「この世は私の思い通りにならなくて当たり前」と、心から理解してれば気は楽です。 

悩みはない?それはけっこう。でも、全く無い?ほんとに?
悩みのある人の方が人間らしくていい?好き嫌いの主観的見方だとそうも見えるね。でも、私は気の毒に思うなあ。


ま、要は、あらゆる問題・悩みの原因は、私たちの、主観的でわがままで自己中心的な見方・認識の仕方(良い悪いじゃなく事実として。私たちの良い悪いという見方がすでに主観的)だということですね。ありのままに見れば、「無常」も「無我」も「苦」も理解できると思います。で、「無常」って?どうしたらありのままに見ることができるようになる?

つづく・・・

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ スローライフへ  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする