GLOSSAのヘンデル:イタリアン・カンタータ集Vol.2「Le Cantate per il Marchese Ruspoli」です(指揮&チェンバロ:ファビオ・ポニッツォーニ、演奏:アンサンブル・リゾンナ)(録音:2005年8月、イタリア)。ソプラノはエマヌエラ・ガッリとロベルタ・インヴェルニッツィです。
収録曲は、1707年にローマで作曲された、
①カンタータ「捨てられたアルミーダ」(HWV.105)/
②カンタータ「女猟師ディアナ」(HWV.79)/
③カンタータ「お前は誠実か、お前は貞節か」(HWV.171)/
④カンタータ「ひっそりと静かな夜」(HWV.142)/
⑤カンタータ「恋する魂は」(HWV.173)
の5曲です。
いずれの曲も魅力ある素敵なカンタータです。
ヘンデルが留学した頃のイタリアは、貧富の差が大きく、孤児や乞食が溢れており、一部の裕福な貴族や枢機卿が進んで芸術を保護し、優秀な音楽家を雇い私邸で演奏会を開き、音楽文化を支えていました。ローマでのヘンデルの保護者は四人いたようで、カルロ・コロンナ枢機卿、ベネデット・パンフィーリ枢機卿、ピエトロ・オットボーニ枢機卿、フランチェスコ・マリア・ルスポリ侯爵(のちに公爵)です。この中で後3者のパンフィーリ枢機卿、オットボーニ枢機卿、ルスポリ侯爵らは「アッカデミア・デッラルカディア」(以下「アルカディア」)の会員でした。イタリアには「アッカデミア」と呼ばれる様々な文化団体がありましたが、「アルカディア」は1690年に創設された文学的な活動をしていた「アルカディア」です。この団体はイタリアの詩を簡素で自然なものに戻すことを目指していたようで、そこでは音楽が重要な役割を果たしており、そこで作られた詩は多くは世俗カンタータとして音楽付けされ、演奏されることを目的とされていました。各会員が輪番制によりホストを務め、私邸で集会を開いていたようです。音楽家はこの団体には入会は認められませんでしたが、例外的にアルカンジェロ・コレッリ、ベルナルド・パスクィーニ、A・スカルラッティはオットボーニ枢機卿の紹介で、1706年に入会しています。ヘンデルは入会を許されなかったようです。音楽家は、カンタータ以外にも、時折大規模なセレナータやオラトリオの上演も邸内で行っていましたが、当時のローマでは教皇令により娯楽性の高いオペラの上演は禁止されていました。ヘンデルもイタリア滞在中に百曲近くの世俗的なカンタータと二つのオラトリオを作曲していますが、これらの曲は以上の状況から生まれています(続く)。
(出典:三澤寿喜著「ヘンデル」、音楽之友社、2007年)
GLOSSAから、ヘンデルがイタリア滞在中に作曲されたカンタータを全曲録音する企画が出ています。指揮&チェンバロがファビオ・ポニッツォーニ、演奏はアンサンブル・リゾンナです。左のCDは第1巻「Le Cantate per il Cardinal Pamphili」で、1706-1707年に作曲された、「炎の中で」(HWV.170)、「フィッリの夜の思い」(HWV.134)、「あの宿命の日から(愛の妄想)」(HWV.99)、「高貴な望みの子」(HWV.113)(録音:2005年10月、イタリア)が収録されており、ソプラノはロベルタ・インヴェルニッツィです。
いずれの曲もミニ・オペラ風で、既にイタリア時代にその後の素晴らしいオペラ群の殆どの基礎が出来上がっているように感じます。魅力ある素敵なカンタータです。恐るべし若き日のヘンデル!。
ヘンデルはバッハとは違い音楽一家ではなく、いつ何処でどのように音楽を修行してきたのかは非常に興味深いものがあります。勿論、天賦の才能(突然変異!?)ですが、イタリアでの修行時代がもっとも彼の将来を決定したようです。三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)を参考にさせて頂き、イタリアでのヘンデルの活動について簡単に触れたいと思います。
イタリア時代は1706-1710年ですが、彼はイタリアの前にはハンブルグに滞在しています(1703-1706年)。ハンブルグは宮廷を持たない自由都市で、その当時、宮廷以外でオペラを上演する国民オペラが盛んでした。その中心人物がカイザーという人物で、彼からオペラについて大きな影響を受け、ヘンデル初のオペラ「アルミーラ」もこの時に作曲しています。
当時、ハンブルグには多くの著明人が集まっており、ヘンデルはイタリアのメディチ家のフェルディナンド(1663-1713)と知り合っています(フェルディナンドの弟のジャン・ガストーネであったとういう説もあるようです)。フェルディナンドの父は、トスカナの君主、大公コジモ三世ですが、二人の息子(フェルディナンドとジャン・ガストーネ)にも、また大公の弟のフランチェスコにも世継ぎがなく、500年にわたるこの名門(メディチ家)の危機が迫っていたようです。フランチェスコは音楽に造詣が深く、積極的に保護しており、ヘンデルにイタリアに音楽の勉強に来るように誘ったようです。イタリアは16世紀半ばからスペインの支配を受けており、ヨーロッパでの指導的地位を失っていたばかりではなく、1700年初頭からスペイン王位継承権をめぐり、イタリア北部は戦火が絶えなかったようです。
ヘンデルは1706年の夏から秋にかけて、このような政情不安定な危険なイタリアに、自費留学で入っています。ヘンデルはそこまでしても本場でオペラを勉強したかったのでしょう。感服!。最初の滞在地はフィレンチェのフェルディナンドの宮殿(ピッティ宮殿)であったと考えられており、フィレンチェ滞在中にヘンデルはA.スカルラッティ(1660-1725)のオペラ《偉大なるタメルラーノ》の上演を観たようです。しかし、フィレンチェには長居せず、1706年の末から1707年1月始めには既にローマに移動しています。
ヘンデルが滞在していた頃のローマは人口約10-14万人で、ミラノ、ヴェネツィア、ウィーンと同等で、ナポリやライプツィッヒが約25万人、ロンドンの約50万人と比べれば約1/4であり、あまり大きな都市ではなかったようです。(続く)
ユニバーサルから、「J.S.バッハ:ゴルドベルグ変奏曲」(UCCG-1459)(ハープ:カトリン・フィンチ)(録音:2008年3月、カーディフ)が発売されていました。ハープによるこの曲は聴いたことがなかったのですぐに聴いてみました。ハープに詳しくないからかも知れませんが、単にこの曲をハープで演奏しただけとういう印象で、インパクトに欠け、ハープでしか表現できない何か新しい価値も感じられません。 彼女によれば、この演奏に当たって、グールドの演奏を聞いてみたようですが、ハープはやはりバロックの演奏には合わないように感じました。個人的にはハープのように音が長く響いて残るのは、特にバッハには向かないように思います。
Hyperionから、「ヘンデル シャンドス・アンセム集」(CDA-67737)(スティーブン・レイトン指揮、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック)(録音:2008年6月29日-7月1日、トリニティ・カレッジ礼拝堂、ケンブリッジ)が発売されていました。このCDに収録されているのは、HWV.254、256a、252の3曲です。(アンセムとは、イギリス国教会の礼拝用のための教会音楽を指します。)
NAXOSからも、「ヘンデル:王室礼拝堂のための音楽」(NAXOS:8.557935)(アンドリュー・ガント指揮、王室礼拝堂合唱団)(録音:2005年7月18-20日、Chapel Royal、St James's Palace、ロンドン)が出ていますが、これには、HWV.256b、250b、251d、249a、251aが収録されています。
三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)を参考にさせて頂くと、ヘンデルは1711年にイギリスに移住し、同年2月24日のオペラ「リナルド」の初演の大成功以来、一時期ハノーファーに帰国した以外は、ずっとロンドンでオペラ活動をしていましたが、英国王室の政情不安、経済危機により、1717年6月29日にヘイマーケット国王劇場が閉鎖したため、オペラ活動を中断しなくてはならない状況になったようです。
その頃に、カーナボン伯爵であるジェイムズ・ブリッジズから保護の申し出があり、1717年夏から1718年末までの約1年半をキャノンズで過ごしています(ジェイムズ・ブリッジズは1719年にシャンドス公爵となっている)。彼はロンドン近郊エッジウェアの村近くのキャノンズに私的な礼拝堂を有するキャノンズ邸を建てて、日曜日ごとに合奏団・合唱団「キャノンズ・コンサート」を伴う礼拝を行っていたようです。ヘンデルの身分は「住み込み作曲家」で、キャノンズ滞在中はイタリア・オペラから完全に離れて、私的な礼拝用や娯楽用の英語作品に専念しています。ヘンデルは、アンセムの作曲を通じて、英語作品に習熟したようで、ここでの経験が将来の英語オラトリアの原点になっているようです。
このヘンデルのアンセム集は、30歳代前半に作曲されていますが、本当に美しく、バッハにも劣らない傑作揃いです。一般的にあまり知られていないのが本当に不思議です。
Archivから出ている、『「ああ、わが心よ!」-ヘンデル・アリア集』(UCCA-1077)(メゾ・ソプラノ:マグダレナ・コジェナー、アンドレーア・マルコン指揮、ヴェニス・バロック・オーケストラ)(録音:2006年3月、トブラッハ)を聴いてみました。以前、DVDで彼女の歌う姿を見て衝撃をうけてから、お気に入りの歌手の一人になっています。ヘンデルを歌っているとは知らず、このCDを見つけて、やったー、といった感じで即買いました。カバー写真もうまく撮れており、彼女にしては珍しくやや悩ましげな表情が魅力的です。
彼女の迫真の歌唱は、鬼気迫るものがあり、いつも感動させられます。あまりにも感情が入りすぎて息が詰まって(窒息?)、血圧も上がるのではないかと、つい心配してしまう位です。このCDも、細微に至るまで神経を研ぎ澄ました、隙が無く、かつ圧倒的な表現力はすばらしいと思いました。完璧と言えるほどの歌唱力ですが、あまりにも感情が入りすぎて、ちょっと苦しげな息使いが聞こえるのが、ヘンデルの曲によってはやや重苦しく感じることもありますが、これが彼女の特徴で、魅力的な所でもあります。かの有名な歌劇《リナルド》の「私を泣くがままにさせて」を聴いても、彼女の特徴が良く出ています。ドゥ・ニースの天心爛漫な明るい歌声を聴いた後にすぐに聞き比べると、大袈裟ですがまったく違った曲にさえ聞こえます。
ヘンデルのオペラは、歌手や演奏の仕方によって、魅力が全然違ってくると言われていますが、コジェナーの歌を聴くとそのことを実感します。彼女の次の新譜のCDを期待しています。
毎日、ヘンデルのオペラでは、ちょっと重たいので、気分転換で軽めのバッハが聞きたくなりました。DECCAから、「J・S・バッハ:ヴァイオリン協奏曲集」(UCCD-1235)(ヴァイオリン:ユリア・フィッシャー、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ)(録音:2008年6月、ロンドン)が出ていました。カバー写真の魅惑的な微笑みにも魅せられてしまい、思わず買ってしまいました。
諏訪内晶子さんやムターさんの演奏と同じ延長線上にある、基本的には女性らしい演奏と思います。ヒラリ-・ハーンさんの踊るような、また弾けるような楽しさに若干欠けるのが残念ですが、バランスのとれた繊細な美しい演奏です。録音は通奏低音領域も良く聞き取れて、空間の広がりも感じさせますが、ロマン派的な雰囲気で、反響音がやや大きく、シャープさがややないように思います。これは個人的な好みの問題ですが、バッハの録音としては、もう少し乾燥した(?)、あまり手を入れていないクリアな録音がいいかなぁと思います。
ユリア・フィッシャーは、1983年のミュンヘン生まれで、3歳でピアノを初め、すぐにヴァイオリンに転向し、11歳でユーディ・メニューイン国際ヴァイオリン・コンクールに優勝しています。彼女はピアノの才能も抜群のようで、3回もピアノ・コンクールで優勝し、2008年にはピアニストとしてもデビューしています。
とにかく、バッハのヴァイオリン協奏曲は、理屈ぬきに楽しく聞けて、心が躍るような演奏が一番と思います。この点で、女性ヴァイオリニストの中ではハーンが一番と思いますが、このフィッシャーのヴァイオリン協奏曲も楽しく聞けました。
Archivから出ている、「ヘンデル:歌劇《フロリダンテ》全曲」(HMV 14)(UCCA:1074/6)(アラン・カーティス指揮、イル・コンプレッソ・バロッコ)(録音:2005年9月、トゥスカニア)を以前からぼちぼち聴いています。
この曲の成立の経緯については、三澤寿喜氏による詳しい解説があり、とても勉強になります。以下、抜粋させて頂きます。
1720年代はロンドンにおけるイタリア・オペラ活動の最盛期で、貴族達により1719年にオペラ企業「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」が設立され、ロンドンのヘイマーケット国王劇場において、1720年から1729年まで計9回のオペラ・シーズンがあり、487回の公演を行っています。ヘンデルは、その間の実質上の音楽監督として、14の新作オペラを作曲しており、自らの指揮で約240回もの公演を行っています。
この歌劇《フロリダンテ》は、ロイヤル・アカデミーの第3シーズン(1721/22年)用の新作オペラで、1721年11月28日に完成し、同年12月9日に初演されています。台本はパオロ・アントニオ・ロッリで、1696年にヴェネチアで上演された、フランチェスコ・シルヴァーニの『勝利のコンスタンツァ』に基づいている(舞台はノルウェーからペルシャに移されている)。ヘンデルは、エルミーラ役にはソプラノのドゥラスタンティを(彼女とはヘンデルは青年時代にローマで音楽活動を共にしている)、ロッサーネ役(アルト)にはロビンソンを予定して作曲していたようですが、1721年10月半ばにイタリアに一時帰国していたドゥラスタンティが病気になり、急遽、ロビンソン(アルト)をエルミーラ役に、二流ソプラノ歌手のサルヴァイをロッサーネに起用することになった。このように、ソプラノとアルトが入れ替わった為、ロッリは歌詞の一部を書き換え、ヘンデルも作曲済みの部分に改訂を加えたようである。三澤氏の解説によると、この急な役の変更には、ロイヤル・アカデミーの理事であるピーターバラ伯爵の力が働いたとされている(ロビンソンは伯爵の愛人でもあり、翌年には結婚している)。
《フロリダンテ》は初演の後、3回のオペラ・シーズンで再演され、4つの異なる完成稿があるが、エルミーラ役をソプラノで想定して作曲したオリジナルが理想であるとの考えで、A.カーティスとH.D.クラウゼンが緻密な校訂作業によりエルミーラ役を本来のソプラノに戻し、オリジナル草稿を復元した。これがこのCDである。
この《フロリダンテ》は典型的なオペラ・セリアの伝統に拠っていますが、退屈な所が無く、魅力的なアリアが散りばめられており、ヘンデルらしい劇的な作品です。
- 今年は、ヘンデルを中心に聞いています。毎日聞いて、生活の一部になってくると、以前には単調に聞こえていた彼のオペラが、段々と彫りの深い、魅力的で楽しい作品に聞こえてきます。ヘンデルは、やはりオラトリオよりオペラのほうに本領を発揮しているように思います。
DECCAから、ダニエル・ドゥ・ニース(ソプラノ)の「スウィート・ディーヴァ~ヘンデル・アリアス」(UCCD:9453)(指揮:ウィリアム・クリスティ、レザール・フロリサン)(録音:2007年5月、パリ、レバノン・ノートルダム教会)が出ています。ちなみに、ディーヴァ(ディーバ 【diva】)とはオペラのプリマドンナで、日本語では「歌姫」に相当します。
彼女は、オペラ「ジュリアス・シーザー」のクレオパトラ役の急な代役で大成功を収めたました。2005年のグラインドボーン・フェスティバルで、彼女が25歳の時です。伊熊よし子氏による解説によりますと、ダニエルは、スリランカとオランダの血を引き、オーストラリア生まれで、ロサンゼルス育ったようです。6歳頃からダンス、ピアノを習い、8歳から声楽のレッスンを開始し、その後、家族とともにロサンゼルスに移住しています。13歳でタングルウッド音楽祭に最年少の歌手として参加し、ロサンゼルスのローカル・テレビのティーンエイジャーのためのアート・ショーケース番組で毎週司会を務め、エミー賞に輝いています。15歳でロサンゼルスでオペラの主役を演じ、プロ・デビューしています。彼女は、グルック、モンテヴェルディ、ヘンデル、ラモー、モーツァルトなどのオペラを得意としているようです。
今回のCDは彼女のデビューCDであり、グラインドボーン・フェスティバルで大きな成功を得たときに歌ったヘンデルの作品のみで選曲されています。指揮もその時と同じウィリアム・クリスティです。ヘンデルの魅力満載です。
彼女はエチゾチックな風貌で、とても魅力的で、DVDで「ジュリアス・シーザー」の舞台を見て、すぐにファンになってしまいました。誰でもこの舞台を観れば、彼女とヘンデルのオペラの虜になってしまうのではないでしょうか。「難破した船が嵐から」の場面は、現代風の振り付けも相俟って、彼女の魅力も十分に引き出されており、圧巻です。彼女のはちきれるようなプリプリとした魅力は、ヘンデルのオペラに新しい風を吹き込み、現代のミュージカルを見ているようでした。このCDも何回も聴いてみましたが、どの曲も何回聞いても元気が出ます。彼女ほどヘンデルを魅力的に演じる歌手はいないのではないでしょうか?。お気に入りの1枚になりました。まだ、荒削りでパワーで押している印象もあるのですが、インタビューの映像を見ていると、彼女は元々非常に明るく、考え方も前向きで、しかもお茶目な可愛い性格のように思います。この彼女生来の性格が彼女の歌の魅力の源泉のように思います。
彼女の登場により、私のヘンデルへの思いをさらに強くさせてくれました。今後の彼女の活躍が楽しみです。
今日、4月14日(土曜日)(1759年)はヘンデルが亡くなった日です。この日は私にとっても記念すべき日(独立記念日)なので、感慨深いものがあります。ヘンデルは亡くなる近くまで精力的に音楽活動をしていたようで、3月30日、4月4日、4月6日にそれぞれ「メサイア」を3回演奏し、4月6日の最後の演奏会から帰宅して、そのまま病床に伏したようです。
1752年8月に脳卒中に罹り、視力が低下し、同年11月に眼の手術を受け、一時的に視力は回復したものの、1753年1月には殆ど視力を失ったようです。視力を失った原因についてはよく分からないのですが、バッハの目の手術もした、いかさま眼科医のせいなのか、また、脳卒中によるものなのか(後頭葉の脳梗塞か?、この為ならしかたがないかな...)、また、体格が良さそうなので(メタボ体質)、糖尿病からきた網膜症や白内障、緑内障などの合併症のためなのか、色々勝手に想像してみるのですが、今の医学なら簡単に治療できたことを考えると残念無念です。文献で確認しているわけではないのですが、伝記から推測すると、私の考えでは、脳卒中を以前から繰り返していること、視力を失ってからも6年間は音楽活動が可能であったこと、晩年には徐々に体力が落ちていること、肖像画では肥満傾向があることなどから考えて、元々、糖尿病、高血圧などの生活習慣病があり、徐々に脳血管障害が進行し、脳卒中を繰り返し、糖尿病による網膜症も併発し、最終的には脱水、低栄養状態になり、感染症も併発し、亡くなったのではないかと推測しています。
とにかく、病気になり、失明してからもヘンデルの音楽活動に対する情熱は衰えず、圧倒されるものがあります。
偉大なるヘンデルに黙とう.....。
年度末は忙しくてやっとブログ更新です。
週末に東京に出張に行ってきました。以前から泊まってみたかったペニンシュラ東京に宿泊しました。2007年秋に開業したと聞いています。デラックスルームなので、あまり高級な部屋ではありませんが、54平方mという広い部屋は快適です。リッツ・カールトンと比較してしまうのですが、部屋のランクにもよりますが、リッツと比較して、部屋が広く、天井もやや高いように思え、家具類もそれほど高級ではないものの、照明、テレビ等色々な工夫がされていて(ラジオも聞けます)、快適な空間です。リッツと違って、ビル全体がホテルというのもいいですね。立地条件も、東京駅からも徒歩ですぐに行けますし、銀座にも散歩感覚で出かける事が出来て非常に便利です。ただ、クラブ・ラウンジが無いのが難点でしょうか。スタッフの対応も、柔らかく、庶民的な感じがして好感が持てます。
ロビーの写真です。左から、オブジェ(巨大な竹細工で、真ん中の丸いのが地球で、上に弓上に乗っかっているのが竜を意味しているようです)、2,3番目はロビーの食堂、右端はフロントから右に入った所にあるエレベーターホールです。
お部屋の雰囲気は、広くて、荷物も十分に置けるスペースがあり、快適です。通常サイズの傘まで、2本も備えてあるのは驚きでした。
左の操作パネルと電話機は、手を近づけると自動的にライティングされる、かなり凝ったものです。これ以外にも、照明等のスイッチ関係にはかなり趣向を凝らしており、トイレ、バスルームには非常ボタンもありました。リッツにはなかった、ラジオ、オーディオ関係が聞けるのも良いです。欲を言えば、パイオニア製のプラズマテレビのスイッチに対する反応性が遅いのが改善点でしょうか。
お風呂場も、広く、シャワールーム、トイレはガラス戸付で別にあり、お風呂に入りながらアクオスが見れます。入浴しながら、テレビも見やすく、音もよく、コントロールパネルも使いやすく、お風呂場環境(?)は非常に快適です。
地下1階にある、和食のつる屋は雰囲気もよく、会席もリーゾナブルな値段で、お変わりも可能で、おいしく頂きました。約100年前に創業した京都の老舗だそうです。現在は三代目の女将で、ペニンシュラに店舗を構えるまえには全日空ホテルの最上階にあったようです。
ペニンシュラ東京は、一言で言えば、高級感と庶民感がうまくミックスした感じで、部屋も広く、使い勝手がよく、値段もリッツ・カールトンに比べると比較的安く、立地条件も良く、ビジネスにはいいなあ、と思いました。今後も、東京駅周辺では、帝国ホテルをやめて、ペニンシュラにしようと考えているのですが、また、いいホテルを探索しようと思っています。シャングリ・ラはどうでしょうか?。検討中です。
このCDは、「ヘンデル:オラトリオ《エジプトのイスラエル人》」(HWV54)(NAXOS:8.570966-67)(ケヴィン・マロン指揮、アラディア・アンサンブル(オリジナル楽器使用))(録音:2008年1月3-10日、聖アン英国国教会、オンタリオ、カナダ)で、最近発売されたものです。《メサイア》の約3年前、《サウル》の同年(直後)に作曲されています。1738年10月1日に作曲にとりかかり、11月1日には完成させており、この曲も何と約1ヶ月間という短期間で完成させています!。初演は1739年4月1日でヘイマーケット国王劇場で、その時は大失敗であったと伝えられています。台本作者はジェネンズか、あるいはヘンデル自身であったとも伝えられています。
このオラトリオの概略を、三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)から引用させて頂きます。題材は旧約聖書の『出エジプト記』で、ヘンデルが最初に完成させたのは「モーセの歌」(一般に第三部と言われている部分)です。これはモーゼの導きにより葦の海を渡ったイスラエルの民が神に感謝を捧げる部分です。次いで、脱出以前のエジプトにおけるモーゼの数々の奇蹟を描く「出エジプト」部分を作曲しました(今日の第二部)。「出エジプト」の発端は、エジプトの奴隷となりながら、宰相となったヨセフの死に行き着く。そこで、1737年(前年)(この年にヘンデルは脳卒中になっています)に作曲した《キャロライン王妃のための葬送アンセム》(HWV264)を「ヨセフの死を悼むイスラエル人の嘆き」に改題し、丸ごと第一部に流用したようです。ちなみに、キャロライン王妃は、ジョージ二世の妻で、聡明な女性で、渡英以前のハノーファー選帝侯皇太子妃の頃よりヘンデルとは友人で、渡英後も娘たちの音楽教師としてヘンデルを厚遇し、資金援助も行っていたようです。このようにして全三部からなるオラトリオが完成したようです。この曲は、宗教色が強く、合唱曲が全体の七割を占めており、ヘンデルの曲としては異例の曲です。また、他人の作品からの借用もあり、この理由は謎とされています。
三澤寿喜氏の記述にもあるように、このオラトリオの成立は、作曲された年代から考えると、「オペラの失敗、脳卒中の罹患、自らの良き理解者であったキャロライン王妃の死去などの様々の苦難から回復した自分自身を、エジプトから救出されたイスラエルの民と重ね合わせて、神への感謝をこの曲を通して表現した」と考える説が妥当なように思います。
この曲はある意味でヘンデルらしくなく、また、成立の点でもまだ解明されていない部分もあり、非常に興味深く聞き入りました。第一部の葬送アンセムの部分は、バッハのモテットを連想し、崇高で神聖な感じがして特に気に入っています。。
Archivから出ている、「ヘンデル:音楽劇《ヘラクレス》全曲」(HMV 60)(UCCA:1020/2)(マルク・ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル)(オリジナル楽器による)(録音:2000年4月 ポワシー劇場におけるライヴ・レコーディング)を以前に買っていたのですが、あまり聴いておらず、今年になり何回か聴いてみました。当初の印象とは違い、聞き重ねていくうちにこの曲の持つ劇的で、迫力ある雰囲気にどんどん魅了されてきます。バッハとはまた違った、ヘンデルの熟練された作曲技法も感じさせます。
この曲にまつわる逸話はライナーノート(ドナルド・バロウズ)に詳しく記載されており、興味深く読みました。冒頭の一部を引用させて頂くと、1730年代、ヘンデルはロンドンでライバルのイタリア・オペラ団との競争に費やされていたようです。この状況は、1741年から43年にかけてほぼ終わりを迎え、その時期はヘンデルが彼自身のイタリア・オペラを上演した最後の時期であり、またダブリン訪問後、オラトリオ形式の英語による作品によって新しいキャリアの基礎を確立した時期でもあります。(ちなみに、1741年に《メサイア》と《サムソン》を作曲しています。)
ヘンデルのことを知るにつれて彼のエネルギッシュな活動には驚かされます。三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)を参考にさせて頂くと、実は、ヘンデルは2回も脳卒中を患っています。いずれも軽かったようで、“一過性脳虚血発作”といったような感じでしょうか。もう少し病状について文献で調べてみたい所です。1回目は1737年8-9月頃、完全に右手が麻痺し、演奏も出来なかったようです。この時はドイツのアーヘンに戻り、リハビリをし、11月にはイギリスに戻って音楽活動を再開しています。その後、その年の年末までに、新作オペラ《ファラモンド》と葬送アンセムの作曲を完成し、次のオペラ《セルセ》の作曲にも取り掛かっています。2回目は1743年4月に脳卒中を発症していますが、同年6月には既に新作オラトリオ《セメレ》の作曲を開始しています。なんというバイタリティー!!。晩年における創作力に関しては、ヘンデルはバッハ以上のように思います。
ヘンデルは1744年(59歳)にヘイマーケット国王劇場と次のシーズンの契約をしています。そのために2つの傑作オラトリオ(《ヘラクレス》と《ベルシャザル》)を作曲しています。《ヘラクレス》は7月19日から8月21日の約1カ月という短期間で作曲しており、「後期バロックの音楽劇の頂点」とも評される傑作で、晩年のヴェルディ作品を思わせるようです。台本はトーマス・ブロートンがソフォクレスの『トラキスの女たち』とオウィディウスの『変身譚』に基づいて作成しています。ヘラクレスの妻、デージャナイラの嫉妬を主題としています。初演は、1745年1月5日、ヘイマーケット国王劇場です。
この《ヘラクレス》もヘンデルの天才ぶり、熟練ぶりを示す傑作で、繰り返して聴いても飽きない作品です。
今回のCDは、「ヘンデル:オラトリオ《ギデオン》」(NAXOS:8.557312-3)(ヨアヒム・カルロス・マルティニ指揮、フランクフルト・バロック管弦楽団(オリジナル楽器使用))(ライブ録音:2003年6月、エーベルバッハ修道院、ドイツ)です。「ヘンデル:オラトリオ《トビト》」(NAXOS:8.570113-4)と同様、ヘンデルの純正オラトリオではありません。ヘンデルに鍵盤楽器を師事したスミスという人物(John Christopher Smith (1712-1795))がヘンデルの死後、オラトリオ演奏の伝統を継承しようと試みて、ヘンデルの曲から素材を選び、スミス自身も作曲した音楽を付加し、同じくヘンデルと共に仕事をしてきたモレルが旧約聖書「士師記」から題材をとった新しい台本を書き、オラトリオ化したものです。ヘンデル純正作品ではないので聴くのにちょっと気合が入らないのですが、演奏も素晴らしく、楽しく聴いてしまいました。