ドゥ・ニースのファンで、検索したらこのDVDが見つかりました。ちょうど、「エイシスとガラテア」の嵌っていたところなので、願ったり叶ったりです。左図の「ヘンデル《エイシスとガラテア》」(OA 1025D)(指揮:クリストファー・ホグウッド、エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団)(録音:2009年4月8日、コベントガーデン王立歌劇場、ロンドン)(ライヴ収録)です。
ダニエル・ドゥ・ニースの元気溌剌な演技は魅力的です。ただ、ガラテアという役の雰囲気からして、もう少し繊細でちょっと細めの方がいいかも...と思ってしまいました。
冨澤ひろ江氏の解説に分かりやすくこの作品の背景が書かれております。台本は、ジョン・ゲイ(1685-1732)、アレキサンダー・ポープ(1688-1744)、ジョン・ヒューズ(1677-1720)といった高名な詩人が手がけたと推測されています。原作は古代ローマの詩人オウィディウス(紀元前43-紀元17)の「変身物語」第13巻です。ヘンデルは、イタリア時代に同じ題材でセレナータ「アチ、ガラテアとポリフェーモ」をナポリで作曲していますが、「エイシスとガラテアア」との音楽的関連はないようです。
とにかくこの作品はとても魅力的で、ヘンデル自身も何度となく手直しをしながら、イタリア人歌手がいない時には英語だけで歌われ、度々上演されていたようです。総譜も出版され、ヘンデルはこの作品にかなりの愛着を持っていたようです。多くの合唱が取り入れられており、どの合唱も美しく、また壮大で、各アリアもとっても聴き応えがあります。「メサイア」と比べても遜色がなく、メサイアを彷彿とさせるところもあります。飽きが来ない作品です。
キャノンズ時代の1718年に作曲された「エイシスとガラテア」は、私的上演のみで、その後、かなりの間は一般公開はされませんでした。1719年初めにロンドンに新たなオペラ企業「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」が設立されると、ヘンデルはすぐにイタリア・オペラの世界に戻っていきました。この企業は、ヘイマーケット国王劇場においてイタリア・オペラを恒常的に上演するための株式会社でした。
その後、ヘンデルは英語による作品を発表していませんでしたが、偶発的に、1731年3月26日に「エイシスとガラテア」がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場において、ヘンデルの許可なく上演されました。キャノンズでは私的な上演であったため、これが公的な場での初演でした。この上演は衣装、背景、演技付きの舞台上演でした。その1年後の1732年3月23日にはキャノンズ時代のもう1つの英語作品「エステル」が、やはりヘンデルに無断で、ストランド街の「クラウン・アンド・アンカー・タヴァーン」で上演されています。その後も、1732年4月20日ヴィラーズ街のヨーク館で「エステル」が、5月17日にはヘイマーケット小劇場で「エイシスとガラテア」の海賊上演が行われています。
ヘンデルはこれらの海賊公演の対抗措置として、アン王女の勧めもあり、1732年5月2日に「エステル(第2稿)」がヘイマーケット国王劇場で上演されています。
1732年6月10日には、やはり海賊公演の対抗措置として、「エイシスとガラテア(第2稿)」が全3部からなる拡大改訂版で、ヘイマーケット国王劇場で上演されています。この時は背景幕と衣装はありましたが、演技はほとんどなかったようです。ヘンデルは同じ題材でイタリア時代にセレナータ「アーチとガラテアとポリフェーモ」を作曲しており、新たに付け加えられた音楽は殆どこの作品から採用されています。「エイシスとガラテア(第2稿)」では、イタリア人歌手の英語の発音がひどかったため、原曲の英語の歌詞をイタリア語に替えたり、英語のアリアはイギリス人歌手に歌わせるなど、二ヶ国語作品になったようです。しかし、実態は8割がイタリア語で占められており、基本を構成しているのはセレナータ「アーチとガラテアとポリフェーモ」でした。
三澤寿喜氏によると、≪これまで「エイシスとガラテア」第2稿はのちのギリシャ神話に基づく世俗的オラトリオ(もしくは「音楽劇」)を準備した作品ととらえられてきた。しかし、この作品の実態はむしろイタリア・オペラに限りなく接近しており、ヘンデルが英語のオラトリオとは正反対の方向、すなわち、充実した合唱を含む新様式のイタリア語の劇的作品を模索した最初の作品と位置付けられるのである。....≫と述べている。まさしくそのように思います。
これらの「エステル」第2稿、「エイシスとガラテア」第2稿は大成功に終わったようですが、1732年の秋にはイタリア・オペラの世界に戻り、新作オペラ「オルランド」の作曲に取り掛かっています。
<三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)からの引用>