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デレク&ザ・ドミノス

2024-02-17 10:03:59 | band

デレク&ザ・ドミノス Derek & The Dominos


活動期間
  1970年~1971年


メンバー
 ☆レギュラー・メンバー
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, vocals)
   ボビー・ウィットロック/Bobby Whitlock(keyboards, acoustic-guitar, vocals)
   カール・レイドル/Carl Radle(bass)
   ジム・ゴードン/Jim Gordon(drums, percussions, piano)
 ☆ゲスト・メンバー
   デイヴ・メイスン/Dave Mason(guitar)
   デュアン・オールマン/(guitar)


 デレク・アンド・ザ・ドミノスは、イギリス人のエリック・クラプトンと、アメリカ人のボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンによって結成されたロック・バンドである。エリック・クラプトンとパティ・ボイドの恋愛を歌ったオリジナル曲「いとしのレイラ」で知られている。


 1969年に結成されたスーパー・グループ「ブラインド・フェイス」は、当時のロック・シーンに多大な衝撃を与えた。
 彼らは6月7日にロンドンのハイド・パークで実に10万人もの聴衆を集めてデビュー・コンサートを行い、次いで7月にはアメリカ・ツアーに出発した。
 センセ-ショナルな話題を巻き起こしたブラインド・フェイスだが、ライヴのセット・リストに充分な曲を持っておらず、それを補うため長尺のアドリブ・ソロをとったり、かつて活動していたクリームなどの曲を演奏したりしていた。バンドのギタリスト、エリック・クラプトンはこれに不満を抱くようになっていった。
 アメリカ・ツアーにサポートとして同行していたのはフリー、テイスト、デラニー&ボニーの各バンドだったが、アメリカのルーツ・ミュージックに接近しつつあったクラプトンは、ソウルフルでブルージーなデラニー&ボニーの音楽に強く惹かれてゆく。また彼は、ファンから過度に崇拝されるよりも、単にバンドの一員としてギターを弾いていたいと願うようになっていた。
 その結果クラプトンはブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーとともに過ごすことが多くなり、時にはデラニー&ボニーのオープニング・セットの演奏に加わることもあった。
 アメリカ・ツアーは8月24日に終了したが、ツアー中に生じたメンバー間の音楽観のずれは、修復不可能なまでに広がっていた。


 ブラインド・フェイスが10月に解散すると、クラプトンは翌11月から1970年3月までデラニー&ボニーのヨーロッパ、およびアメリカ・ツアーにサポート・メンバーとして参加する。この時のバンド・メイトが、のちデレク&ザ・ドミノスのメンバーとなるボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンである。
 ツアーのうち1969年12月にサウス・ロンドンで行われたライヴは、1970年3月にデラニー&ボニー&フレンズ名義で『オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン』としてリリースされている。
 クラプトンは、そのほかにプラスティック・オノ・バンドにもサポート・メンバーとして加わっており、1969年9月のトロント・ロックンロール・リバイバルなどに出演している。
 1970年にはデラニー・ブラムレットをプロデューサーに起用して初のソロ・アルバム『エリック・クラプトン・ソロ』を制作しているが、この時のレコーディング・セッションにはボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンも参加している。
 この後、レイドルとゴードンはデラニー&ボニーを脱退してジョー・コッカーのバンド「マッド・ドッグス&イングリッシュ・メン」のツアーに参加したが、ウィットロックはデラニー&ボニーに残った。


 1970年4月、ウィットロックはクラプトンに会うため渡英する。
 ふたりはたびたびジャム・セッションを行い、曲を書いた。これがのちにドミノスのレパートリーになる。
 クラプトンはウィットロックが到着すると、新たなバンドの結成を望むようになり、アメリカにいたレイドルに連絡を取った。ドラマーには当初ジム・ケルトナーに白羽の矢を立てたが、スケジュールが合わなかったため断念した。ちょうどその時、ジム・ゴードンがジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作に参加するため招待されてロンドンに滞在していた。


 1970年5月にジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』の制作が始まった。クラプトン、ウィットロック、レイドル、ゴードンの4人は、このレコーディング・セッションにも参加している。
 この後4人はクラプトンの家があったハートウッド・エッジに住み、曲を書いてはひたすらセッションに没頭していた。このセッションを通じて4人はより結束を強めてゆく。とくにクラプトンは「これまでにないくらいの音楽的自由が感じられた」とのちに語っている。またウィットロックは、自身とクラプトンによる、バンドにおけるヴォーカルの比率を重視していたという。
 『オール・シングス・マスト・パス』のベーシック・トラックの録音が終わりに近づいた頃、クラプトンらとともにデラニー&ボニーで活動していたデイヴ・メイスンがクラプトン宅でのセッションに加わった。メイスンは『オール・シングス・マスト・パス』のレコーディングにも加わっていた。こうしてラインナップが5人となったバンドは、1970年6月14日に、ロンドンはライセウムでのチャリティ・コンサートでステージ・デビューを果たす。
 バンドは便宜上「エリック・クラプトン&フレンズ」と呼ばれていたが、ウィットロックによって「デル&ザ・ダイナモス」というバンド名が提案された。これは1969年のデラニー&ボニーのツアー以来、ギタリストは「デレク」あるいは「デル」と呼ばれていたからである。ところがバンド名をアナウンスした時に、発音が「デレク&ザ・ドミノス」と誤解されてしまい、結局それがバンド名に決まった。(オープニング・アクトを務めた「アシュトン・ガードナー&ダイク」のトニー・アシュトンが「デル&ザ・ドミノス」という名を提案した、という説もある)
 コンサートそのものには賛否両論あり、その中には「名ギタリストであるクラプトンをバンドのシンガーとして見たがる者はいない」との声もあった。
 なおこの6月14日のデビュー・ライヴでクラプトンが使用したアコースティック・ギターは、2021年にオークションに出品され、625,000ドル(約7120万円)で落札されている。





 1970年6月18日、デレク&ザ・ドミノスの5人とジョージ・ハリスンはロンドンのアップル・スタジオに入り、フィル・スペクターのプロデュースでクラプトンとウィットロックが共作した「テル・ザ・トゥルース」と「ロール・イット・オーヴァー」の2曲をシングル用に録音した。そのほか2つのインストゥルメンタル・ジャムを録音したが、それは『オール・シングス・マスト・パス』の3枚目に収録された。この3枚目は「Apple Jam」と呼ばれている。
 このロンドンでのセッションの後、ドミノスの本格的な活動がなかなか始まらないことに業を煮やしたデイヴ・メイソンがバンドから離れた。
 クラプトン、ウィットロック、レイドル、ゴードンの4人は、同年7月からのドクター・ジョンのアルバム『ザ・サン、ムーン&ハーブス』のロンドンでのレコーディングにも参加している。


 ドミノスは、8月1日からイギリス国内をサーキットしている。
 このツアーは22日間で18公演を行うもので、会場は小規模な場所が選ばれた。クラプトンは名を明らかにせず匿名で演奏した。また、すべてのライヴ会場ではクラプトンの名前を宣伝に使用してはならないという契約が交わされていた。これは「自分が主役である必要はなく、アンサンブルの一員としてただ演奏に集中したい」というクラプトンの願望の現れであった。クラプトンはスター扱いされるのを嫌がっていたのである。
 ツアーの期間中、マネージャーのロバート・スティグウッドはファースト・アルバム制作の準備に取りかかり、プロデューサーにトム・ダウドを起用した。


 8月23日、ドミノスはファースト・アルバムをレコーディングするためフロリダ州マイアミのクライテリア・スタジオに移動する。
 8月26日、クラプトンはプロデューサーのトム・ダウドからオールkマン・ブラザーズ・バンドが公演のためにマイアミに来ていることを聞き、「ぜひそのコンサートに行きたい」と強く希望した。ダウドとドミノスのメンバーたちはオールマン・ブラザーズ・バンドのコンサートに行った。ふたりはすでにお互いの音楽、ギターに敬意を持ってはいたが、初めてオールマンの演奏を見たクラプトンは身動きができなくなるほど感動したという。これがクラプトンとデュアン・オールマンの出会いである。
 コンサートのあとクラプトンは「ぜひギターを持って来てくれ、君も一緒にプレイしよう」とオールマンをスタジオに招待した。ドミノスとオールマン・ブラザーズはクライテリア・スタジオで何時間もセッションを楽しんだ。クラプトンとオールマンのふたりは一晩中語り合い、セッションすることで尊敬の念をより深めた。のちクラプトンはオールマンについて「自分と不可分の存在で、音楽の兄弟だ」だと述べている。





 ドミノスのファースト・アルバム『いとしのレイラ』のレコーディング・セッションは8月28日に始まり、9月上旬まで続いた。
 デュアン・オールマンはオールマン・ブラザーズの活動の合間に10回以上スタジオ入りし、全14曲中11曲でギターを弾いた。このアルバムで聴かれる彼の情感豊かなスライド・ギターは、いまなお絶賛されている。レコーディング終了後、クラプトンはオールマンをドミノスに誘ったが、オールマンはこれを断り、自分のバンドに戻った。
 またドミノスは以前にフィル・スペクターのプロデュースによって録音した「テル・ザ・トゥルース」を再録音した。アメリカでは9月に、オリジナル・ヴァージョンの「テル・ザ・トゥルース」が「ロール・イット・オーヴァー」とのカップリングでシングルとして発表されたが、これはバンドの意向ですぐに販売停止となった。
 アルバム『いとしのレイラ』に収められたタイトル曲「いとしのレイラ」は、クラプトンが彼の親友ジョージ・ハリスンの妻パティに対する恋慕の気持ちを歌ったものとして非常に有名である。
 「レイラ」は、ギターがメインの前半部分とピアノがメインの後半部分から成り立っている。後半はジム・ゴードンが作曲(実際はリタ・クーリッジとの共作)したもので、ゴードン自身がピアノを弾いており、ゴードンを補足する2番目のピアノ・パートをボビー・ウィットロックが弾いている。
 ドミノスは、『いとしのレイラ』レコーディング終了後の9月20日からイギリス・ツアーを行い、11月から12月にかけてはアメリカ・ツアーを行った。このツアーはドラッグとアルコールにどっぷり浸ったものだったが、ライヴ・レコーディングされ、1973年に2枚組アルバム『イン・コンサート』としてリリースされた。なおデュアン・オールマンは12月1日と12月2日にドミノスと共演している。


 デレク&ザ・ドミノスのファースト・アルバム『いとしのレイラ』は、2枚組アルバムとして1970年11月にリリースされた。
 アメリカン・ロックからの影響とクラプトンが目指したブルースへの回帰がはっきり現れたこのアルバムはレイド・バックした作品に仕上がっている。
 プロデューサーのトム・ダウドは「これは自分が関わったアルバムとしては、『The Genius of Ray Charles』以来最高の作品だ」と賞賛したほか、一部の音楽誌からも高い評価を得た。アルバムはRIAAからゴールド・アルバムに認定されたが、アルバムの販売元であるポリドールはほとんどプロモーションをしておらず、さらにはクラプトンがドミノスのメンバーであることが知られていなかったため、アルバムのセールスは思ったほど伸びなかった。この結果にダウドもクラプトンも失望した。
 1972年、クラプトンのコンピレーション・アルバム『エリック・クラプトンの歴史』が発売された。「いとしのレイラ」はこの中に収録されており、また同年7月にはシングルとして再発され、全米10位、全英7位のヒットを記録した。これがきっかけでアルバム『いとしのレイラ』も再評価されるようになった。
 現在では『いとしのレイラ』をクラプトンの最高傑作に推す声も高い。


 『いとしのレイラ』制作中の9月9日、クラプトンは友人ジミ・ヘンドリックスの作品「リトル・ウイング」をレコーディングしているが、その直後の9月18日にヘンドリックスが急死。ヘンドリックスはクラプトンにとってかけがえのない友人だったため、クラプトンは精神的に大打撃を受けた。それに加えて『いとしのレイラ』に対する不評がさらにクラプトンを鬱状態とドラッグへの依存へと追い詰めていった。


 1971年秋、ドミノスはセカンド・アルバムの制作に取りかかったが、完成させることなく解散した。クラプトンの重度のヘロイン中毒そしてパティ・ボイドとの不安定な関係による荒れた精神状態、バンド内でのドラッグの蔓延、バンド内のエゴのぶつかり合いによる極度の緊張が解散の理由だと言われている。
 この年10月29日には、クラプトン自身が「音楽の兄弟」と呼んでいた盟友デュアン・オールマンがオートバイ事故で死亡した。ふたりの尊敬する友人を失ったクラプトンの精神状態はさらに打ちのめされた。


 解散後のクラプトンは薬物中毒からのリハビリテーションに多くの時間を費やしたが、1973年1月に行われたロンドンのレインボウ・シアターでのコンサートで劇的な復活を遂げた。
 ウィットロックはアメリカのABCダンヒルと契約し、1972年に『ボビー・ウィットロック』、『ロウ・ヴェルヴェット』の2枚のソロ・アルバムを発表した。2枚ともドミノスのメンバー全員がゲスト参加している。
 レイドルは、クラプトンがソロ・アーティストとして復帰した1974年から1979年夏までクラプトンのツアー・バンドのベーシストを務めていたが、1980年5月に37歳で死去。
 ゴードンはアルコールとドラッグの過度の摂取が原因で徐々に仕事が減り、1983年には母親を殺害した。統合失調症と診断されたゴードンの病状が快方へ向かうことはなく、一度も仮釈放されないまま2023年に医療施設で死亡した。



【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

 <アルバム>

  1970年 いとしのレイラ/Layla and Other Assorted Love Songs US16位
 ☆1973年 イン・コンサート/In Concert US20位

  1990年 レイラ・セッションズ/The Layla Sessions: 20th Anniversary Edition US157位
 ☆1994年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア/Live at the Fillmore

 <シングル>
  1970年 テル・ザ・トゥルース / ロール・イット・オーヴァー
  1971年 いとしのレイラ / アイ・アム・ユアーズ US51位
  1971年 ベル・ボトム・ブルース / キープ・オン・グロウイング US91位
  1972年 いとしのレイラ / ベル・ボトム・ブルース US10位
  1973年 ベル・ボトム・ブルース / リトル・ウイング
  1973年 恋は悲しきもの [live] / プレゼンス・オブ・ザ・ロード [live] 
  2011年 ガット・トゥ・ゲット・ベター・イン・ア・リトル・ホワイル / いとしのレイラ


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