太った中年

日本男児たるもの

ネネの世界

2011-04-14 | weblog

さて奥さん、消化試合レガスピ編となるワケだが、妻の実家ではメシを食うこと以外まったく楽しみがない。そのような生活は刑務所と同じで、罪のない服役はストレスが溜まる。妻も同様に感じているらしく、したがって何か用事に託け週一ペースでレガスピへ1泊出張した。このときはレガスピ湾に建設していた複合商業施設が完成してオープンしているつーのでそこを見学しながら妻の友人ドンちゃんと旧交をあたためた。

レガスピ湾の複合商業施設はエンバカデーロといい、調べてみるとサンフランシスコに同じ施設があった。

たぶん米国デベロッパーとの合弁事業で開発したのだろう、夜の雰囲気は非常によろしい。

この日は生憎の小雨で館内の人影も疎らと思いきや、屋外広場でフィリピンの有名ロックバンドがコンサートを開催していて会場は人で埋め尽くされていた。で、演奏しているのはロックつーよりポップス。未だ、レッド・ツェッペリンが最高と信じてやまないオジサンにとってこうしたヘナチョコ・ロックは聞くに堪えない。オメーら一体、何を考えているんだ、エエッ、マスター電源を引っこ抜いてやろうか、なーんて思ったのだ。

館内には数多くのレンストランがある。これは飛ぶ鳥を落とす勢いで店舗展開しているイナサル。

ボーリング場前のカラオケでドンちゃんと待ち合わせ。ボーリングはもう下火なのかな、人は少ない。

ドンちゃん登場。ビージーズで唸るドン。テレビ局のディレクターであるドンちゃんはエンバカデーロがオープンしたとき取材している。このあと支配人を連立って館内施設を見学。それからメシを食って解散した。

このレストランが一番旨いってことでここでメシ。

カニチャーハン。

フライドチキン。

 ビーフグリル。

 ジュースを飲んで消化試合終了。半年前のことを思い出してアップしているからもう懐かしいつー感覚だな。

でまあ、タイトルについてだが、まず、妻の略歴から触れよう。妻はハイスクールまでは故郷の実家で暮らし、卒業後、マニラ北部にある歓楽都市アンヘレスで外食チェーンレストランを経営する叔母さんの店に就職。そこで将来、恋人と結婚してマネージャーになる予定だった。しかし、そうならないのが人生というもの。

就職して何年か経た後、お店に来る客で芸能関係者と名乗る人物が現れ、「テレビドラマの女優の仕事をしないか」と熱心に口説かれたそうだ。場所柄どう考えてもそいつはゴーゴーバーのスカウトマンとしか思えないが、それを妻に言うと怒り出す。で、女優への布石として、ビコール地方で開催するミスコンテストに応募した。

妻は地区代表に選ばれ、本選の結果は準ミス。グランプリがビコール・クイーンで準ミスの妻はビコール・プリンセス、であるから、その彼氏としてプリンスと呼ばれるようになったワケだ。このミスコンを取材したのがフィリピン最大手テレビ局ABS-CBNレガスピ支局のドンちゃんだった。それから妻とドンちゃんは兄妹のような付き合いが始まった。ドンちゃんが取材編集したミスコンの番組は全国放映されたそうだ。

それぞれ地区代表の生い立ちから始まるその番組はDVDでゲップが出るほど妻から見せられました、ハイ。「鏡よ鏡、この世で一番美しいのはダーレ」の世界、ハイ。あなたは準ミスつーと妻は怒ります、ハイ。

でもってミスコンの全国テレビ放映をチェックしていた某プロモーターの目に留まり、タレント渡航禁止令が出た1985年、妻は最後のジャパゆきとして日本は静岡にある某老舗フィリピンパブへ勤めたのだ。それから妻はマニラの某KTVへ勤務。稼いだお金で家族を支え、家族のボスとして振る舞うのであった。

フィリピーナのことなら何でも知っている御馴染jet師範によればフィリピンでは妻のような存在を「ネネ」と呼ぶそうだ。ネネとは幼いくせにわがままで生意気な女の子のことで、ジャパゆき同様蔑称である。

jet師範からネネのことを聞いたとき、実は目から鱗が落ちる感覚があった。それまで妻が気が強く、口うるさく、強情でわがままなのは彼女の個人的資質によるものと考えていた。しかし、ネネとして共通認識されている以上、ネネの社会的な構造上の問題であることがわかった。つまり、妻の経歴から考えれば、妻はネネの優等生であり、ネネの世界に組み込まれた有能な代弁者に過ぎなかった。トチ狂ったネネの世界についての考察は改めてホームページのコラムに記そうかなと思っている。世の中、トチ狂ったことほど面白いものはない。

振り返ってみれば、フィリピーナと関わりをもって11年、ネネによって振り回された人生だった。ネネのメッセージは至極単純明快、「金クレ、金ヨコセ」、乞食と同じ精神構造である。そんなものは小馬鹿にしてきたが、今、最も気懸りなのは娘がネネとして育つこと。このことは半ば諦めている、つーか、諦めてかかったほうがいいのだろうな。娘は心やさしい女性になってほしいが、親の願い通りに育たないのが子供だから。あーあ。


マカロニ・バー

2011-04-12 | weblog

さて奥さん、メンテナンスを終えたデスクトップPCは快調でスマート・ブロによるインターネット接続のカッタルさも吹き飛ばすほど気分がよく、調子に乗って更新したりする。消化試合のレガスピ編へ行く前に少し近況を記しておきたい。上記写真のはにわに似たフィリピーナのニックネームはマカロニ。彼女は現在住んでいるところから歩いて15秒、走ると10秒の最短距離に位置して小さなバーを開業しているのだ。

「マカロニ・バー」

そう奥さん、ほぼ毎晩ここでサンミゲルライトビールを飲んでこれは素敵なアル中ライフを過ごしている。

もう5ヶ月前になるのか、当初、妻がマカロニ嬢と出会い同じビコール出身ってこともあって意気投合、妻から彼女を紹介されてマカロニ・バーへ通うようになった。で、暫くしてちょっとした事件(それはまた今度)があって彼女はそれからソウルシスターNo.1になった。マカロニ・バーには老若男女を問わず様々なお客がやってくる。そこで気付いたのは彼女は誰からも慕われ気が強い妻とは逆のやさしい性格の持ち主だった。

妻のように煮ても焼いても食えないのがフィリピーナだと思っていただけに彼女の存在は意外や意外だった。

そして先般、御存知jet師範とミィーティングした際、その意外性の意味を解いて貰った。

彼女はビコール出身と言っていたが、実はセブ島の生まれで、幼い頃父母が別れビコールの親戚に預けられて育った。簡単に言えば父親がヤリ逃げしたのである。jet師範曰く、このようなテテナシゴは非常に多く親戚中をたらい回しにされて育つ。テテナシゴは親戚に嫌われたら行き場を失う。したがって防衛本能が働き、小さい頃から人に嫌われないよう自らを戒める。子供を我儘勝手に育てる一般的なフィリピンの家庭とは正反対だ。

そんなやさしい性格のマカロニ嬢(自称34歳)には9歳になる娘がいる。彼女もまたヤリ逃げされたのだ。人生とは数奇な廻り合わせ。ある日、忙しい彼女が娘に聖書を読んで学習させる姿を見たときオジサンは胸がジンとしましたよ。そうそうフィリピンはクリスチャンの国、聖書は親が子に教える最も大切なことだった。

ところでマカロニ・バーに足蹴く通うのは様々なフィリピン人に出会えるから(と言っても大半は徒歩10分圏内の近所に住む人たちだが)。でまあ、最近のマイブームは美人トンボイ(TOM BOY、レズビアンのこと)のドラエモン。彼女つーのか彼は物心ついたときからのレズ。31歳になる今でもヴァージンでレズプレイもしたことのないピュアなハートだけだという。ホントかね。では、好きな女性といるとどうなると聞けば股間は濡れるが性的興奮は禁忌されるらしい。男性用トランクスを使用するが陰毛の手入れは怠らないというから奥が深い。

ドラエモンに多大な興味をもっているが彼女つーのか彼もまた日本人に多大な関心を持っている。彼のお姉さんは日本人と結婚して東京に住んでいる。ドラエモンも暫く親族訪問で日本に滞在していたから少しだけ日本語を話す。最初に会った時、「ブロッチャー ターヨ、股間を舐めたい、舐めるとどうなる、濡れるのか」と聞けば「ダーメ」と答えた。アブノーマルワールド。美人トンボイは酒の肴として最高なのだ。

 

さてさて奥さん、最後はマカロニ嬢のサービスショット。彼女は舐め技が得意だと自負している。

彼女の好きなニホンゴは「チンチン タベル」。

そんなワケでjet師範、マカロニ・バーへの御来店、心よりお待ちしています。


震災によせて

2011-04-10 | weblog

 さて奥さん、ノートPCが不調で日本から持ってきたデスクトップPCに切り替えて使用しているワケだが、これまた不具合があり、キーボードとマウスの交換、メモリーの増設をして久々の更新となった。

本来なら太った中年は妻の実家飼育編、レガスピ出張編を経てマニラ床屋2階編に突入していなければならないのに上記理由からもう過去のことをアップするのは消化試合と同じで面白くないな、とか思いながらチンタラ時を過ごしていた。そしたらgooブログの編集画面も変わって更新自体が面倒になってしまった。

でもって更新したのは今回の震災について少し記しておきたいことがあったから。

現在、マニラ某所で暮らしていて、近所にカレーハウスがあり、毎日カレーを食している。そこで震災のあった翌日、ある日本人(正確には父が日本人、母がフィリピン人のジャピーノ)青年と出会った。彼はフィリピンの某大学に通っている学生で将来、外交官を目指していて日、英、ロ、中、タガログ語を話す真面目な秀才だ。

で、自己紹介を兼ねて一緒にカレーを食べながらいろいろなことを話し合った。当然、震災のことも話題になったが、彼のお爺さんとお婆さんが宮城県に住んでいて全く連絡が取れず、最悪の事態を覚悟しているという。

そして数日後、近所を散歩していると偶然その青年と会った。お爺さんとお婆さんのことについて聞くと「やはりダメでした」そう言って落胆した。このとき、震災による残酷な死を身近に感じ心が痛んだ。

それから震災に関連して原発の放射性物質の漏出が問題になっている。これについてはjet師範のミクシィ日記でニュースをチェックしている。実は以前、東海村の原発事故で、その因果関係はわからないものの、知人が半年後白血病に罹り8年間闘病して他界した。そのことが思い出され原発ニュースは気が重い。

震災があってからフィリピンで暮らしていてもホント、気が重いね。

そんなワケで震災に遭われ亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。