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アベ軍国甲子園より新天皇平和甲子園高校野球へ

2018-08-05 10:10:02 | せたっしーの絵日記!

甲子園高校野球100回大会が次期天皇皇后陛下観覧の中、始まった。

軍国主義の復活を目論むアベシンゾーに忖度した学徒動員的熱中症甲子園!が心配だったけど、

朝日新聞社主催の夏の甲子園100周年開会式は平和甲子園!に触れていた。

日本のバカな軍国主義が無ければ本来なら今年は100周年でなく104回大会である!

1931年(昭和6年)夏、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会の開会式に、錠者は札幌商業のエースとして参加していた。日本本土の学校だけでなく、大連や京城といった外地の学校のプラカードも見える。そこに交通事情から遅れて参加してきたのが、嘉義農林学校野球部の選手たちであった。物語はさらに1929年に遡る。のんびりしたチームの「嘉農」野球部は当然連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤が指導し、その指導に萎縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちが伸び伸びとプレーする姿は、近藤自身を成長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。少年たちは日本語で教育を受け、日本語を話した。しかし街や仲間内では台湾語を話した。日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり活気に満ちていた。一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。エースピッチャーの呉明捷(愛称は”アキラ”)は山陽堂書店の手伝いをしており、店員である静に憧れを寄せていた。しかし静はやがて台中の医師と結婚して嘉義を去る。アキラは爆竹を燃やして彼女を祝福しつつ寂しげに見送る。当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場するのは、決まって日本人のみで構成された台北一中や台北商業であった。当時は台湾全島で1校のみしか代表として甲子園に行くことが出来ず、その為に台湾大会で優勝する必要があった。「一度も勝ったことがない」チームの快進撃は止まらず、勢いに乗って全島優勝を果たす。台北から凱旋した選手たちは町中から大歓迎を受ける。しかし選手たちは、当時のアジア最大の水利事業であった嘉南大圳完成を知るや、パレードを中断して用水路へ向かう。水が満ちていることに感動すると、視察で用水路を下ってきた八田與一に会い、優勝を報告するとともに、八田から激励を受ける。迎えた甲子園大会、下馬評では弱すぎて本土のチームには相手にならないのではと危惧されていた。甲子園球場に来た嘉農の選手たちは、「甲子園の土」の質の良さに感動する。初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え、一躍注目チームとなる。その様子をスタンドから見ていた錠者は、激しく動揺する。マスコミからの取材を受けた嘉農の選手たちには当初「原住民野球」「日本人の子は手を挙げて」「日本語は理解できるのか」等と偏見の眼差しが向けられる。近藤は民族を問わず「同じ球児だ」と反論し、生徒たちを守る。

もう21世紀は軍国主義も民族差別もない在日高校、朝鮮高等野球部やアメリカンスクール野球部にも差別のないハイスクールベースボール野球⚾のヘイトの無い野球先進国になって欲しい!

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