西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

中年派遣員奮闘記(その16)

2016-01-06 | 奮闘記

NO.16[マラリア感染]

村から戻った翌日いつも私より早く起きているはずのSさんが起きて来ません。きっと昨日の疲れが残っているのかと思いながら事務所の掃除をしていますと部屋からタオルケットを体に巻いて出てきました。「マラリアにかかったみたいです。」、「えっ!マラリアですか!」私は驚いて見ますと顔色も蒼白く、熱があるみたいで小刻みに震えています。

これは大変と思いとりあえず行きつけのクリニックに急いで行くことになりました。乗り合いタクシーに乗り30分程の所にそのクリニックがあり、玄関に入ると60代後半位と30歳位の女性が椅子に腰掛けてピ-ナッツを食べております。

患者さんの付き添いの人がいるのかなと思い、受付は何処かと辺りを見回してもそれらしき所は無く、友達のラミンが何かその人に話をしていますと、その女の人は奥の部屋に行きしばらくすると戻ってきてドクターは今外出中なので待ってくれ、という事でした。Sさんは相変わらず高い熱がある様でぐったりとして辛そうです。

2人の私服の女性はナースだったようで体温計を取り出して熱を測るようSさんに手渡しました。それから1時間位待っている間にいろいろな行商の人が来てはナースに物を見せては話をしたり買ったり食べたり、患者はSさん一人だけだったのですがナース達は多忙です。

突然ドクターが何処からともなく来て診療室に案内され、普通は血液検査をするのですが体温と問診の結果やはりマラリアであるということでドクターが慣れた手つきで処方箋を書きナースに渡し約5分で診察終了です。

このような経験は私も日本の病院でありました、胸の間に硬い物があるので腫瘍でも出来ていたら大変と思い、母のかかっている大学病院へ行くことにしました。受付をして外来の待合所にいくと大勢の人が待っています。2時間後やっと診察をしたもらい採血をするところに行きレントゲンを撮るというのでその所へ行くとそこにもまた何人も待っており、それが終わると再び診察室の所でしばらく待ち、最後にドクターの言葉は「来週結果が出るのでまた来てください。」10時に受付をして帰りは午後3時でした。

一週間後、犯罪者が最終判決を受ける時のような沈痛な気持ちで病院へ行き診察室の前で再び長時間待ってナースに呼ばれやっと中に入りドキドキしながらドクターの説明を聞くと、レントゲン写真を見ながら「これは肋骨の間にある軟骨です。これは誰にでもあるもので特に問題は無く、これからもお大事に」と言う事でした。

今までの心配は一瞬で吹き飛んでしまいましたが同時に何と無く今の病院の在りかたに不満を感じます、確かに検査は大切なことですが普通私のような症状でしたら問診、触診でも充分わかるはずです。検査ということで多くの時間とお金を払うのは単なる金儲けしか考えていないのかと疑いたくもなります。

話を戻しますが、ナースにドクターの処方箋にある薬を近くの薬局で買って来るように言われ早速買いに出かけました。急いで薬局で注射と抗マラリア剤と解熱剤を買って帰り渡しますと60代後半のナースがゆっくりと落ち着いたしぐさで注射器にそれぞれの薬を入れ準備をします。

動作が遅いのは慎重なのか高齢の為かは判断できませんが熱で震えている患者の方はあまり意識せずマイペースに事を運んでいます。玄関のところが待合権処置室で高齢のナースの口の中にはまだピーナッツが残っているらしく口を動かしながら注射を持つ手がブルブルと震えています。こんなことで大丈夫なのだろうかと息を飲んで見ているとアルコールで消毒をして注射針がSさんの血管の所に近づくとナースの震えがピタッと止まりました。「さすがベテランのナースは素晴らしい。」と別の意味で感心してしまいました。

処置が終わり、まずは一安心ということで事務所に戻りSさんはベッドで休んでおりますが熱が高いのかとても辛そうです。ところが翌朝も熱が下がらず再びクリニックに行くとベテランナースが昨日の夜に来いといったのにどうして来なかったのかといっており、どうやら解熱剤を夜に注射することになっていたのを聞き漏らしてしまったようでした。

彼女は処方箋のところに、またいくつかの薬を書き、買ってくるよう言い、聞くと点滴のようで私とラミンは急いで少し離れた所にある大きな薬局へタクシーで向かい、薬を買って戻るとベテランのナースは出かけているらしく、若いナースに渡すと彼女は早速点滴の準備をし始め、Sさんの腕に針を刺しましたが彼女はまだ経験が浅いと見え2,3回やり直しやっと血管の中に入りました、別の部屋のベッドで点滴をしていますが中は熱く蚊も沢山いて、もしこの中にマラリアを持った蚊がいたらまた感染してしまうのではなどと思いながら点滴が終わるのをひたすら待っておりました。

点滴が終わり、また翌日ということで事務所に戻りましたが、相変わらず熱があるらしく元気がありません。数ヶ月前にもマラリアにかかったそうでそのときは注射をして1日で熱がなくなったそうですが今回はちょっと強いようです。

翌日になり幾分熱が下がったようで顔色も大分よくなっておりました。今日も再び病院へ行きまた点滴です。やはり昨日と同じ若いナースが担当です彼女は早速準備しSさんの腕に針を刺しますがなかなか血管に入りません。数箇所やり直しているうち温厚で我慢強いSさんもとうとう悲鳴を上げ、若いナースに抗議をして点滴をはずしてしまいました。

この国でもナースを養成する学校はありますが日本のように高度の医療知識や経験を修得しているナースは少ないようです。また国唯一のワガドゥグ大学には医学部はあっても付属病院はあるのですがインターンはフランスで行い、ドクターも先進国で医学を学ぶようです。外国のほうが高度な専門医療が出来るうえ収入もよいので、この国に帰る人は少ないようです。

この国は医師1人に対しての人口が日本は543人に対して240.000人と遥かに不足しております。そのために治る病気も手遅れになることもあり、お金がないため病院に行くことが出来なくて亡くなる人がとても多いことも事実です。

3日目になってSさんも大分回復してきたようで笑顔が戻ってきました。今日は一人でクリニックに行けるということで出かけ、しばらくして帰るとまた再び若い看護婦に注射をされたらしく乱雑で非常に身に危険を感じたということでした。腕を見るとあざがたくさんあり、熱があるうえに何回も痛い思いをして本当にお気の毒なことです。


次回をお楽しみに・・・・


ブルキナファソに暮らして

2016-01-05 | 暮らし

ここからリンク→ブルキナファソに暮らしてPDF←ここまでリンク


中年派遣員奮闘記(その15)

2016-01-05 | 奮闘記

NO.15[イミオグ村]

8月半ばに入り私も到着して1ヶ月たち、何と無くワガドゥグの環境にも慣れてきました。

Sさんは帰国の準備や日本からの物資輸送に係わる事柄、日本への民芸品の買い付けと慌しく動き回っております。

そのようなある日、マダム.ウエオドラオゴの紹介するイミオグという村を視察に行くことになりました。イミオグ村はワガドゥグより北に約100キロの所にあり隣の国マリの国境に近く、小高い丘の多い所でここでは金の採掘が盛んに行われています。村に行くと木陰で子供が一人寝ており、聞くとどうやらマラリアにかかっていたようで側には村の薬草で作られた薬が置いてあります。

この薬はアカシア、ニム、パパイヤ、エカルプトゥスの葉にゴヤーブの実を混ぜて擂り潰し水に溶かして飲んだり、鍋に入れ煮立て頭から大きな布をかぶり蒸気を吸って汗を出したりしますが、熱を下げ体力を回復させる効果があり、村では昔から使われているものだそうです。

マラリアというと私達にはとても重い病気のように思われますが、この国の人はインフルエンザ程度にしか思っていないようです。また、この村の飲料水は10メートル程の井戸で、この水はギニアウォームの混在する可能性があり飲料水には向いていません。

少し離れた所には赤ちゃんを産む分娩所が在り、土を固めたブロックの建物で6畳間くらいの広さでその中には同じ土で固めた一畳くらいの分娩台があり、薄暗く地面には雨水が溜まっており衛生的にはとても良くありません。

ここの人々は生まれた時からこんな苛酷な環境の元で生活しているのかと思うと5歳未満で死亡する割合が日本は100人中0.5人に対して16人、平均寿命が46歳ということも不思議ではない事と感じます。

同じ人間として生まれ、場所や時代により運不運があることは事実と思いますが、21世紀の今日でこれほどかけ離れた生活を見るのは衝撃に近い印象を覚えると共に、せめて産婦、乳児への1日も早い環境改善を切望して止みません。

また、この村ではエイズの感染者が多く、年に6,7人もの人がエイズで亡くなっているといいます、都会ならともかく人口の少ない村でこれだけの人が亡くなるということはこの国をこれから支えて行く若い人々にとって、とても深刻な社会問題でもあります。

私はこの村を視察してブルキナファソの縮図を見た様な気が致します。しかし子供達の笑い顔や炎天下の中で汗をかきながら、もくもくと働いている人々の姿を見るとアフリカの人々のダイナミックなエネルギーを感じます。

この様に過酷な環境でも逞しく生きていくことに自分を含め今の日本人には何かが欠けていることを教えられたようにも思えます。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その14)

2016-01-04 | 奮闘記

NO.14[ボホベレバ村]

ワガドゥグより西に400キロ離れた所にボホベレバ村があります。バニキディ村とはちょうど反対の方角になりDr・イヴがプロデュースされている村でバニキディ村同様、学校や診療所、深井戸の建設整備を始めスクール机や椅子、保険衛生教育や薬の配備、教科書、ノート、ペン、石鹸、などの配布活動を数年に渡り行っています。

 今回は、教科書とノートペンの補充と製粉施設建設の為、村の人達と打合せをするという事で訪問する事になりました。メンバーはDr・イヴ、Sさん、ドライバーと私の4人、自動車に教科書やノート、ペン、石鹸を積み早朝に出発しました。

Dr・イヴは大学教授なのでさぞかし難しい性格の方なのかと初めて会った時は思っておりましたが自宅へ迎えに行くと日本語で「オハヨウゴザイマス!ソウソウソウ」とおどけています。見た目とは違いかなり明るい方で少し安心しました。

1時間程経過してDr・イヴが突然「ちょっと電話をかけたいのだけど止まって」と言ったのですが、周りは草原で電話ボックスは何処にも見当たりません。確か携帯電話を持っていたはずなのに、彼は外に出ると道路脇の草むらに歩いて行き小用を足してしております。間もなく戻ると「自然とのコミュニケーションをしていたのだよ。小はテレホン、大はファックスさ。紙を使うからね。」それを聞いて皆で大笑いです。

道中はDr・イヴの独壇場、おかげで村まで楽しく行くことが出来ました。

 村に着いたのは午後1時ごろ、村の人達が大勢で迎えてくれ一人一人挨拶をします。村では「ポー」というのが挨拶の言葉だと教わり「ポー」「ポー」と挨拶をしているうちに何と無く親近感が沸いてきました。

奥の家がDr・イヴの住まいと言う事で狭い通路を行くと土で作られたブロックを重ねてある塀や家が不規則に立っていてまるで迷路の様で、その一番奥まった所に家がありこの村の中では近代的な造りです。ひとまず荷物を降ろして一休みとソファに腰を掛け一時すると料理が運ばれてきました。

器の中から何とも言えない良い匂いがしますDr・イヴがふたを開けると鶏のソースとトーです、その後からはバケツに入ったチャパロ、彼はこれが大好きと見えて「トラディショナルビアー」と言いながらバケツからカリバスの器に並々と汲み取り皆に振舞います。そのとき初めてチャパロと言う物を飲んで、始めの内は独特の匂いがあり、なかなか喉を通りませんでしたが、酔いが廻るとだんだん慣れて来てビールの様に飲むことが出来ます。

ところがアルコール度数が高いのか後から一段と効いて来てカリバス2杯ばかり飲みますと完全に酔います、トーも少し酸味があり鶏のソースととても合っていて美味しく村の人達や風景に包まれながらひと時を堪能させて頂きました。おいしい食事が終わり診療所のドクターに案内され音楽室やクリニック、学校などを見学した後イヴの家の前にあるテラスに村の主な人達が集まり会議の始まりです。

Dr・イヴはさすがに教育者らしく少し速いテンポで話し、フランス語の解らない私も自然にうなずいてしまう様な歯切れの良い語り方で説明をしています。村の人達の色々な質問にも細かく答え90分程で終了しました、終わると徐にチャパロを出し「Sサン!イイダサン!トラディショナルビール!」とカリバスを渡されもう一杯、村の人達も帰り4人で椅子に腰かけているとボホベレバの草原の匂いと月の明りがとても心地よく感じられます。

「ここは私にとって一番落ち着く所です。」とDr・イヴが大きく深呼吸をして満足そうにまったりと椅子にもたれています、電気もなく土で作られた家は床も無く、コウモリや蚊は多いし何処に行くのも不便な村の生活は私にはとても困難ですが、彼の勤めているワガドゥグ大学は都会の中心ですから人も多いしバイクや車も沢山走っています。

その様な所で毎日忙しく仕事をしていると、自分の生まれ育った所が一番居心地の良い場所なのかなと感じました。夜も更けてチャパロの酔い心地も手伝い眠さが増して来ました。村に泊まるのは初めてなので少し戸惑いましたが、村の人が親切にバッテリーに蛍光灯を繋いでくれたりバケツにお湯を汲んでくれ、それで汗を流したりしてこれで何とか眠ることが出来そうです。

ボホベレバは雨量の多い所なので夜は涼しく、眠るのにはとてもよい環境ですが蚊も多く、防虫スプレーをつけていないと体中刺されてしまいます。しかし村の人達はその様な物はないし、どの様に過ごしているのかとても不思議です。朝になり部屋の外に行くと村の人達はもう働いていて、男の人は畑仕事で女の人は臼でとうもろこしを搗いたり、ポンプで井戸水を大きなたらいに汲み運んだりとても忙しそうです。

「ボンジュールDr」とDr・イヴに挨拶をすると「イイダサン、オハヨウゴザイマス、ソウソウソウ」、とチャパロの入ったポリタンクを差し出します。「ノ、ノ、ノンメルシー」さすがに昨日の余韻が覚めやらぬところなのでお断りしました。朝食を頂き私達が学校へ行くと夏休み中でしたが先生達が待っていて、そこで車に積んできた教科書とノートやペン、石鹸を渡しブルキナファソの第二の都市ボボディュラソへと向かいました。

ボボディュラソは丘陵地であるせいか何と無くワガドゥグとは雰囲気が違います。昔はジュラ族の都として栄えた所でも在り、近くにはいくつかの河川が在り近隣の町バンフォラは水の都としてとても風光明媚な所です。また此処にはDr・イヴのセカンドハウスが在り、以前お父さんの住んでおられた家でお父さんがお亡くなりになり今約半分はボボディュラソで生活をしているそうです。

市内の入るとまず目に入るのがイスラム教の巨大なモスクで、土のブロックで作られたモスクは古くからの物でボボディュラソの象徴でもあるそうで、近くに行くと日本の神社仏閣のような霊験あらたかな心境になります。それからボボディュラソ駅(SITALAIL)も白い大きな建物で美しい造りです。しかし残念ながら隣のコートディボアールが内紛で国境閉鎖をしているため鉄道は不通になり今は使われておりません。(2015年現在は開通)

駅の近くには大きなマルシェ(市場)が在り、後楽園球場くらいの敷地に色々な店がぎっしりと並び、中に入ると間口3~4メートルくらいの店が軒を並べ上野のアメヤ横丁のような感じで、衣、食はもちろん電気製品、工具、薬、服の仕立屋その他あらゆる物が売られています。

私達は駅前のレストランで昼食を取ったのち今日はこの街のホテルに宿泊をすることになり、Dr・イヴのお勧めで繁華街の中ほどにあるホテルにチェックインし時間も余裕があったので彼の家に行くことになりました。

Dr・イヴの家は市街からはちょっと離れた所に在り、白い壁に囲まれた家はモダンな造りで中に入ると大きな居間には高級な家具、いかにもハイクラスな佇まいで、音楽が好きと見えてサイドボードの横にはコンポーネントステレオがあり、窓の外のガレージにはドイツ製の高級車、村の家とは相まってこちらは近代的な暮らしで、都会と田舎と郊外に3つも家があり、なんとも羨ましい限りです。

翌日、ボボディュラソの近くのクンセニという村に行き教科書やノート、ペン、石鹸を配布した後、Dr.・イヴがボボディュラソで組織している「SIDA  KA  TAA」というアソシエーションの事務局に行き色々とお話しを聞くと、「SIDA」はエイズのことで、「KA TAA」はジュラ語で「出て行け」という意味らしく世界中で深刻な病気もこの国では感染者が特に多いそうでボボディュラソで毎年コンサートを催し音楽を通してエイズの感染防止を呼びかけており、著名な会社、団体の協力や外国のミュージシャンも参加するなど年々大きなイベントになりつつあるようです。

この活動を通して感じたことですが、村では農民が毎日の生活の中での食べることだけで精一杯で居や住はとても質素です。日本も嘗てそうであった様にブルキナファソの農工商の内92.2%を占める農業就労者の生活向上がこの国を豊かにするきっかけのひとつと言っても過言ではないと考えます。

農民の暮らしが少しでも豊かになれば国も豊かになり学校や道路もよくなります。一日も早く村の人達が感染症やそれを治す医療処置はもとより学校に行けない子供達が一人でも少なくなるよう国の農業政策の進展が期待されてなりません。


次回をお楽しみに・・・・


迎春*中年派遣員奮闘記(その13)

2016-01-03 | 奮闘記

NO.13[ワガドゥグ独り歩き]

ブルキナファソに来て1週間ほど過ぎた頃、Sさんよりワガドゥグの街を早く知るのに一人で行動して見てはと言う提案があり、それまで何処に行くにしても道や場所が解からないので行く所へついて行くのが当たり前と思っていましたので、とても不安でしたが思い切って行動して見ようと決心し、ちょうど郵便局まで行く用事があったのでタクシーで行く事にしました。乗る場所と降りる場所の地名を聞いて身支度を整え、その時の心境は3~4歳の子供が初めてのお買い物に行く時の様です。

大通りに出ると緑色のタクシーが沢山走っていて、いつもSさんが車を止める時の様に右手を出し車に合図をすると、当たり前の事ですが私の所に止まってしまいました。タクシーの運転手と乗っていた乗客がこちらを見ています。緊張していたのか恐る恐る運転手に「パームツリーホテル」と言うと、ちょっと時間が止まったかの様に無言の時間があり運転手は進行方向を向き行ってしまいました。

ちょっと発音がまずかったかと思い次のタクシーが来たので気を持ち直し何回か練習をしながら手を差し出し、タクシーが止まると今度は少しゆっくりと「パームトゥリーホテル」と言いますと,またしても運転手が首をかしげながら走り去ってしまうではありませんか。

自暴自棄になり、もし今度行かれたときは帰ろうと思いながらタクシーを待ち、もう1度手帳に書いた場所に目を通し、よく見ると「パームビーチホテル」だったのです。

やっとのことで車に乗ったのは良いのですが今度はパームビーチホテルの場所が解らないのです。こちらのタクシーは乗り合いなので決まったルートしか通らず料金もその範囲であれば200セファー(40円)でそこから外れると高くなり、日本のタクシーのようにその場所まで連れて行ってはもらえないので、その場所に行ったら運転手に声をかけて止めてもらいます。

その時タクシーには5人くらい乗っていましたので止まるたびに周りを見渡し注意深くホテルを探し「海がないのにパームビーチ、それはないだろう~。」などと呟きながら行くと繁華街の十字路の角のところにホテルはありました。

そこでからプレジデンス(大統領官邸)の近くの郵便局まではタクシーのルートが違いますので乗り継ぎます。ところが今度はプレジデンスの場所を知らないのでどちらの方向に行くタクシーに乗れば良いのか解かりません。

考えても仕方がないので十字路の所でそれぞれの方向に行くタクシーに声をかけまくり、やっと思いでプレジデンス方向のタクシーに乗りまた周りを注意しながら行きますと前に白い大きな建物が見え一段と豪華な建物なのですぐそれと解りました。

このあたりは政府の色々な機関が集まっており機関銃を持った警官が沢山いて、なんとなく繁華街とは異質の雰囲気で、タクシーの運転手はプレジデンスのちょっと手前で止まりました。

郵便局はプレジデンスの並びにあり500メートルほど歩いて行くのですが、道を歩いていると機関銃を持った警官がこちらを見ていてなんとなく不気味で、何も悪い事はしていないのにもかかわらず、もし職務質問でもされたら言葉を知らないので大変だと思い、あまり周りは見ない様にして歌を口ずさみながら自然と早足で歩きました。

郵便局に行くと奥の入り口の左側に私書箱があり、そのナンバーの所を鍵で開け郵便物を取り、これでひとまず用事は済みました。

 さて今度は帰り道です、郵便物を取り終えて表通りへ出て、また来た道を引き返し歩きましたが警官のいる所を通るのが何と無く嫌なので暫くタクシーの来るのを待っていましたが5分経っても10分経っても車は来ません。

仕方なく警官のいる所をまた通る事にしました。人間の心理状態というのは不思議な物で、一端その様に思い込むとなかなか払拭出来ないもので、警官の方は何とも思っていないのに、こちらの方で妙に意識過剰になり、前を通り過ぎる時にいかにも郵便局へ行って来たと解る様に封筒で扇子の様に扇ぎながら、警官の方を見ない様にと思っていると見てニコニコしてしまったり、後で思うと御目出度い東洋人に見えてしまったかも知れません。

機関銃と警官の姿が見えなくなるまで振り向かず歩いて行くとタクシーに乗ることをすっかり忘れ繁華街まで来てしまいました。

とにかく早く帰ろうと思いタクシーの運転手に暗記した手帳に書いてある地名をいうとまた通じません、地名はサマンデンヌゴグドロン、日本人にはどうも解釈のつかない発音です。(本当はサマンデン・ヌーボー・グドロン)

ここでも何台か行かれた後やっと解かった様でとりあえず乗り込みましたが町並みが皆同じに見えて何処で降りたら良いのか解からず、運転手が後ろを振り向き盛んに聞くのですが一向に解かりません。

だんだん焦りも出て来てあまり遠くに行く迄に降りた方が良いと考え、お釣りを受け取るのも忘れ、とりあえず周りを見ても同じような店や屋台の形で何処が事務所か見当がつかず、きっと運転手は自分の言った場所と違う場所に来てしまったのだ。と思うと急に不安に陥り、もしこのまま夜になったらどうしようと思うと居ても立ってもいられず緊張し喉が異常に渇いたので、ミネラルウォータを買ってそれを飲みながら一目散に無我夢中で歩き出しました。

途中何回か聞きながら事務所を探したのですが全然見当たらず、3時間くらい同じ道を行ったり来たりしているうちに暑い事もあり疲れも出て来ました。冷静に冷静にと自分に言い聞かせ、少しずつ距離を伸ばして行くと何時も行く店のお兄さんが立っていたので、そこでやっと解かりました。何時もの道を反対の方向から来たので解からなかったのです。

何しろ初めての道で見当もつかず何処も同じ所に見え、パニック状態でまるで迷路に入った時の様な状態でした。

私はやっとの思いで事務所に戻り、Sさんに「いや~思ったより簡単にすんなり行けましたよ。」と苦笑しながら封筒を渡すと、郵便局の私書箱は共同で使っていて他の人の封筒も持って来てしまった様です。

また翌日返しに行く事態になり、顔もこわばり身も心も疲れ果てた私にとって、気の遠くなるような心境でしたが、とりあえず明日に備え早く寝る事にしました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その12)

2016-01-02 | 奮闘記

NO.12[バニキディ村]

ワガドゥグから北東約300キロの所にバニキディという村があります、そこはDr.ディアノウがプロデュースされている所で、私の派遣団体では学校や診療所、井戸、などを作るほか、保健衛生教育や、教育面で教科書やノート、ペン、石鹸などを配布するなど数年に渡り係わっており、今回の訪問は離乳食と学校給食を作る施設建設の事で村の人達との事前の話し合いをすると言う活動です。

どんなに日本から色々な施設や物を与えても、それを使う人達の意見や意思、意識がなければ何もならないと言うSさんの話しを聞き、確かにブルキナファソは、まだ電気や清潔な飲み水も無い所が多く、また貧困の為病気になっても病院にかかれない人や学校へ行けない子供も沢山いて日本で考えるよりも実際に苛酷な環境の中で生活をしております。

それゆえにどんなに便利な物でもそれを使えるだけの知識や技術、維持するための最低の財力が無いと使い物にならないか、使えても維持管理が出来なくては宝の持ち腐れとなってしまいます。それにはまず村の人達との話し合いを充分にした上で村に人達が主体となって恒久的に使えるようにしなければ意味がないという事です。

ワガドゥグを出発したのは7時頃で、5人乗りのトラックにはドライバーとタプソバさんそしてDr.ディアノウと息子のマリオ君、そして清水さんと私の6人で乗り込みましたがトラックは少し後部座席が狭くかなりの鮨詰め状態です。ワガドゥグから数十キロ行った所からは舗装道路からラテライト道路になり、おまけに雨季なので雨が降るたびに道路が傷みます。

トラックはあまり乗り心地のことは考えて造られてはいない様でガタン!ガタン!と体に伝わる衝撃は予想したよりも激しく、道の壊れた所を縫うようにトラックは走ります。

約150㌔行った所で昼食を取る事になり、ブルキナ風ドライブインとでも言えましょうか広い敷地に屋根のあるテラスが5つ6つ在りとても良い雰囲気の所です。

私は朝から何も食べていませんのでビールとライスにピーナッツソースをかけたものを頂きました。鶏をピーナッツバターとコンソメスープで煮込んであるソースでこれが日本ではちょっと味わえない風味です。皆お腹もふくれ休息をして再び苦痛の道のりです。

しばらく車に揺られておりますとなんとなく込上げる物があり汗が出て、このまま我慢しようと堪えましたが車の振動が激しく、とう とう耐えかねて車を止めてもらい先ほど食べた物を全部出してしまいました。日本ではこんな事は無かったので、これから先は長いしとても不安にかられます。

20分程休息してどうにか気分も落ち着いて来たのでどうにか続行となりました。どこまでも続く悪路、揺れる車の中で「これがアフリカだ」と思いました。

バニキディ村に着いたのは夕方6時頃、もう日も暮れかかっていてDr.ディアノウが村の主な人達を紹介してくれ一通り挨拶が済むと診療所の前に行き一時たつと徐々に人が集まりだして、大人子供を含め約40人程度男性と女性のグループに分かれDr.ディアノウの進行で会議が始まりました。

議題は離乳食と学校給食を作る施設建設に付いてです。Dr.ディアノウが施設に付いてまず説明し、後に質疑応答デスカッション、会議は約1時間、最後はみんなで拍手をして滞りなく終了です。

会議も無事終了しボガンデと言う近郊の町に宿泊する事になり、街のレストランにて食事をしましたが初めての旅の疲れか体調も思わしくなく食欲も無いのでコーラを頂きましたが他の方々は美味しそうに鳥の料理を食べています。

Dr.ディアノウが「食べないと元気が出ないよ。」と言ってくれるのですが匂いだけでもまた気分が悪くなりとても食べる状態ではありません。ホテルは一戸建てで5部屋位あり一番奥が私の部屋です。

中を見ますと薄暗い部屋にベッドが在り、1日の汗を流そうとシャワルームに行くとタオルと石鹸が有りません、それまで日本のホテルの感覚でいましたので備わっているだろうと思っていたのは間違いでした。

疲れていて借りにいくのも面倒なのでとりあえず水で汗を流してハンカチで体を拭きベッドに倒れこみました。しかしそれからが大変、蚊は沢山いるしカヤがないので刺されないようにまた服を着て寝ると今度は暑苦しくてどうしようもないので扇風機を最大にして寝る事にしました。

ところが夜中の2時頃、雷の音で目が覚め間もなく停電に見舞われ、真っ暗の中で何も見えず暑くて体は汗でびっしょり、また「これもアフリカだ」と思い知らされました。

朝になり体は重くだるいので気分転換でも図ろうと外に出ますとマリオ君が居て、一緒にあたりを散歩していると沢山のアリがいます。そのアリが日本のアリに比べると3倍位あってあまり大きいので驚きます。アリの通り道を辿って行くと小さなアリを捕まえ自分の巣へ運んでいる様です。

そこでちょっといたずらをしてアリの通り道に大きな石を置いて見ると一瞬パニック状態になりますが又何も無かった様にもくもくと作業を続けます。「アリの世界も弱肉強食なんだな」などとちょっと複雑な心境に陥り、しばらく見とれていると出発の呼び声がして慌てて部屋に引き返し荷物をまとめ車に乗り込みました。

また帰りは過酷な道のりで、昨日の事も有り朝食は軽めに済ませワガドゥグへと車は走ります。

約半分の所で一休憩と言うことで車を止め固まった体をほぐしまた出発です。後部座席が窮屈なのでタプソバさんが荷台に乗り20キロくらい走った頃突然タプソバさんが大声で運転手に何か話をしています。

車が停止して話を聞くとどうやら財布を落としてしまったらしく、免許証や身分証明書なども一緒に入っていた為これは一大事と言う事で、又来た道を引き返す事になりました。道路ですれ違う人一人一人聞きながら戻ったのですが見当たらず、荷台に乗り移った所まで引き返しても有りません。

諦めて又引き返すと10キロほど行った所で財布が見つかりましたが、残念ながらお金と免許証が無くなってしまった様です。とても気の毒で何とも言えない心境でした。日本では荷台に乗って悪路を何十キロも行くと言う事は今では有り得ない事ですし、お金はともかく免許証は戻るはずです。

また「これがアフリカだ」と感じました。


次回をお楽しみに・・・・


明けまして!中年派遣員奮闘記(その11)

2015-12-31 | 奮闘記

NO.11[食べ物飲み物]

マルシェ(市場)に行くと色々な物があります。

果物は日本でもお馴染みのリンゴ、オレンジ、バナナ、パイナップル、スイカ、マンゴ、パパイヤなど、野菜はピーナッツ、トマト、キャベツ、なす、瓜、ジャガ芋、サツマ芋、とうもろこし、ピーマン、セロリなど日本のスーパーで売っているものも多くありますが、日本でお目にかかれない物もあります。イーヤムと言う巨大な芋で3~5キロくらいの重さがあり、細かく切ってゆでて鳥などのソースで味をつけて食べ、感触は里芋のような感じです。

ポムカネルという果物は薄緑の色で表面はいぼいぼの形をしていて果肉は少なく大きめの種が沢山あり口に含むととても甘く独特の香りがあります。

穀類はタイ米や中国の香米、国内産の粟など。魚は内陸なので少なくフナやナマズなどの淡水魚と輸入されたアジやサンマなどで殆どが日干しの物です。肉類は鶏、ホロホロ鳥、ウサギ、ヤギ、牛などあり、冷凍された物はなく鶏やウサギは生きている物をその場でして売っています。

また肉売り場に行くと、牛の頭や足がそのまま置いてあったり、とても新鮮ですが日本では見慣れない光景なので、はじめはショックを受けます。

こちらの飲み物で特に特徴のあるものはチャパロと言う飲み物です。チャパロはドローとも呼ばれ粟の実が原料でこれを発酵させたもので色は琥珀色でビールのように細かい泡が出来ます。

粟の実は赤い実と白い実と2種類あり、大きめの赤い実はチャパロ、小さめの白い実はトーなどに使われ、飲み口はまろやかで独特の香りがします。

味はビールのような苦味はなく炭酸水を飲む時の様な少しピリッとした刺激があり、アルコール度数はビールより少し高いようでビールのような感覚で飲むと後でかなり酔いが廻ってしまいます。

このトラディッショナルビールはどこの家でも作っている自家製ビールでカリバスと言うヒョウタンの様な硬い実の殻で飲みます。

小さめの粟はトーと言う食べ物を作るときに使われ、トーには粟(milet)で作る物と、とうもろこし(mais)で作る物の2種類あり,いずれのトーも粉にした物を使います。

作り方はまず粉を水で溶き、水を入れた鍋を火にかけて煮え立ったら水で溶いたものを加えてかき回し、少し固まってきたら別の容器に半分ほど移し残りの半分にまた粉を足し少し固めものを作り、そこに先ほど移した物を徐々に加えながら練って行き、その後とんかつ位の大きさに分けながら移し換えて熱をさまします。

そして鶏または牛肉などのソースと一緒に食べます。ソースにはスンバラと言って日本の干し納豆に良く似たものがありそれを砕いて入れると更に美味しくなります。

そのほか飲み物食べ物は、セネガル料理、ガーナ料理、コートディボアール料理などとても紹介しきれないほど沢山の物がありますが、ここでは特に珍しい物を紹介しました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その10)

2015-12-31 | 奮闘記

NO.10[ブルキナファソのお茶の会]

ワガドゥグの人たちはとてもお茶が好きで、何人か集まるとお茶を作りみんなで世間話をしながらお茶を飲んでいます。

お茶は中国の緑茶で5センチほどの深緑色のパッケージに入っていて葉は日本の物より黒い色をしています、作り方を言いますと、

①    まず10センチほどの火鉢に炭を入れて火をおこします、

②    直径10センチほどのやかんに水を入れ沸騰したらお茶の葉を大さじ2杯ほど入れ7~8分煮出します、

③    それから大き目のコップにやかんのお茶を全部注ぎます、

④    またお茶の葉が入ったままのやかんに再び戻し火にかけて7~8分煮出します、

⑤    これを2~3回繰り返します、

⑥    その後大きめのコップに砂糖を大さじ2杯くらいの砂糖を入れ再びやかんのお茶を注ぎます、

⑦    そしてコップの砂糖が完全にお茶に溶け込んだらまたお茶ガラの入ったやかんにまたもどします、そして2~3分火にかけます、

⑧    これをまた2~3回繰り返します、このときにはなるべく高い位置からお茶をコップに注ぎ泡をたてます、こちらでこの泡のことをムースと言います、

⑨    ウィスキーをストレートで飲む時に使う小さなショットグラスを5個ほど用意します、

⑩    まず大きなコップに高い位置から注いだときに出来るムースをグラスに取り分けます、

⑪    ムースを取ったらやかんにもどしグラスに注いで出来上がりです。

グラスに注がれたお茶は黒黄色ですが緑茶の香りで、ひとくち口に含むと日本のお茶のような苦味や渋みはなく濃厚なお茶の味と砂糖の甘味が程よくマッチしていてとても美味しく紅茶やウーロン茶などと比べても異質の美味しさです。

緑茶のエスプレッソとでも言えるでしょうか、またお茶の作り方の上手な人と下手な人がいて上手な人ほど高い位置からコップに注げるので泡が細かくマイルドに仕上がるようです。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その9)

2015-12-30 | 奮闘記

NO.9[ワガドゥグ探訪]

調べによるとBURKINA・FASOの人口は1260万人(2000年推計)で,首都OUAGADOUGOUは人口約70万人、地図を見ると国のほぼ中央に位置し放射状に各地を結ぶ幹線道路が伸び、市内は空港を中心に近くには大統領官邸や国家機関があり、その地域に隣接して銀行やホテル、駅などが在り、駅は2002年からコートディボアールが紛争で国境を封鎖しているので現在は不通になっていて閉鎖中です。(2015年現在は正常化開通)

都市化しているのは市の30パーセント程度で道路は幹線道路を除き殆どがラテライト道路、上下水道はもちろん公共施設の整備はまだこれからという所です。市内の道路はほぼ直線で碁盤の目のようになっており幅30㍍位の歩道つき道路と8㍍位の道路、それを結ぶ4㍍くらいの路地があり、舗装されていない道は側溝が無いので生活雑廃水が道路に流れ汚臭を感じます。

またラテライトは紅土といって熱帯地方に多く見られる土で、鉄やアルミニュウムなどの酸化物が多く含まれ作物の栽培には不向きです、砂状粒子がとても細かく精密機器などの中に入り込んでトラブルの原因の1つとなり、現に自動車はオートマティック変速機の物はなくマニュアル変速機が殆どで、一日外にいて白いタオルで顔を拭くとタオルがオレンジ色になります。

舗装道路には自転車、バイク、自動車が混在して走っていますが特にバイクに乗っている人が多い上に、こちらの国はバイクの免許が無くても乗れるので交通ルールを知らない人も多く、自動車に乗っていると衝突しそうなのでとても危険を感じます。

 市内の繁華街はグランマルシェと言ってとても大きな市場がありましたが2年ほど前に火災に見舞われ今は閉鎖されたままで再開まではもう2年ほどかかる見込みです。(2015年現在は開業)

しかしその周りには沢山の店があって、買い物客で賑わい活気があり、歩いていると生活用品や衣服などの店が特に目に付きます。また、歩きながら品物を売っている人も多くいて、それぞれ時計や電気製品、衣服、薬、食べ物、野菜、靴磨きその他いろいろな物を手に持ち、また頭の上に載せて道を歩いている人に見せながら品物を勧めて歩きます。

私の場合日本人なので目立つせいか何処へ行っても品物を勧められ、品物の値段は日本人などの場合は割りと高い場合が多く言われた値段の半額くらいから交渉すると安く購入出来ます。

また民芸品の店も数多くあり、布や木彫、金属の鋳造品、アクセサリー、楽器などの品物を売り、十数軒の店が固まって観光客などが前を通ると店の人が声をかけて来ます。中でも金属の鋳造品は一つ一つ手作りで同じ物はなく、黄銅製なのでとても美しい物です。

 それからワガドゥグの人々は映画が好きで市内には映画館が多くあります。2年に一度FESPACO国際映画祭が行われ世界各国の映画が上映され、開催期間中は職場や学校が半日で終わり沢山の人たちが着飾って映画を見に行きます。

残念ながら日本の映画は殆ど知られてなくジャッキーチェンやブルースリー、ジェットリ-などカンフー映画は好きな人が多いようで彼らはとても有名です。またテレビ放送も盛んでrtbやTNB、SMTB、CANEL3その他衛星放送ではヨーロッパの番組も見ることが出来、日本のアニメ「キャッツアイ」が放映されていてとても人気があります。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その8)

2015-12-29 | 奮闘記

NO.8[現地STAFF]

荷物も無事到着し、日本の本部より持って行くように依頼されたプリンターも壊れている様子もなく、やっとこれで一安心、夜は現地スタッフの顔合わせ並びにミーティングです。

午後7時頃でしょうかタプソバさん夫妻が訪れました。タプソバさんは自営で看板製作をする仕事の傍ら村などへ行くときはドライバーとして、またN夫人には色々な細かいサポート面でお手伝い頂いております。

タプソバさんは一見クールな印象ですが話をするととても明るく賢明で責任感のある人です。そしてN夫人は以前派遣員としてブルキナファソにおいでになり、フランス語、英語、共に堪能でアフリカは勿論オーストラリアやイギリスなど在留経験があり文字通り国際派の女性です。

縁あってタプソバさんと結婚され、お二人にはEちゃんという生後10ヶ月程の女の子がおります。この子がとても可愛くて何とも言えない愛らしい笑みをこぼします。

Sさんが「Eちゃん、こっちへおいで。」と手を差し出すと、ちょうど人見知りの頃なのか見る見るうちに眉が険しくなりSさんの顔を凝視すると、「おいおい、そんなに睨むなよー。」N夫人が「女の人には特にだめなの。」と言うとSさんが「HAHAHAそれは良い事だぞー。」などと話をしているうちにDr.イブが到着しました。

身長190センチ位でSさんより大柄な巨体で、ワガドゥグ大学で教壇に立つ傍らスタッフとしてお手伝い頂いております。とても早口でユーモアがあり、強めのパルファムの香りがインテリジェンス且つジェントリィーなイメージを演出しております。

そして最後に現れしはDr.ディアノウ、氏は国の土壌の研究所に勤務される傍らスタッフとして活動をサポートして頂いております。少し小柄ですが渋い面持ちで落ち着きがあり、眼鏡をかけた顔を少し斜に構え俯き気味に眼光鋭く話をする様子は、いかにも百戦錬磨の智将を思わせる雰囲気があります。

と言う事で役者もそろい近くの「CAFEINN」にて食事をする事になりました。

向かい側に鳥や兎や魚料理のテイクアウトの店があり大勢の人がそれを求めに集まっております。私たちの今夜のメニューはどうやら鳥と魚料理のようで、2~30分すると料理が出来上がりテーブルの上がとても賑やかで、良く見ると鶏肉のグリルをさらに玉ネギ、トマトの入ったブイヨンベースのソースを加えソテーしたものと、カプテンという50㎝ほどの大きな淡水魚を同様のソースで煮たものに生野菜が乗っていて食欲をそそるとても良い香りです。

まずは鶏から食してみると肉は歯ごたえがあり日本の地鶏の様で、噛んでいるとジワジワッと鶏の旨みとソースそして野菜の甘さが絡み合い見事なハーモニーを醸し出します。また魚の味は淡白で白身の肉質で癖がなく、適度の油があり軟らかいので口の中で噛まずともトロッと蕩ける様な食感です。

これをビールで喉に一気に流し込むと、これらの味をビールの麦汁と泡がいっそう引きたて味は更に倍加します。ここでまた新たな発見をしました。まずビールですが日本ですと栓は既に取って持ってきますが、こちらでは栓は抜かずテーブルの上で抜きます。

そして自分のコップに注ぐとまた栓を上にかぶせます。何でそんな事をするのか不思議に思いましたが、こちらは蝿が多いので蓋をしないとビンの中に入ってしまうのです。また食べるときはスプーンやフォークは使わず普通は手で食べ、これがなかなか技術を伴い口に入れる時に慣れないとこぼれてしまいます。

日本でもみんなで鍋を囲んで突っつきますが、そんな雰囲気で初対面でも料理が取り持つ縁とでも言いましょうか、なんとなく親近感が増してきます。おいしい料理に舌鼓を打ちながら会話も進み和やかなうちにミーティングも終了し、皆さん満足げに帰路に向かわれました。


次回をお楽しみに・・・・


掛け替えの無いもの

2015-12-29 | 生き方

掛け替えの無いものを亡くした時

なぜか涙が出る

掛け替えの無いものって?

いつも心に希望を与えてくれていたもの?

あらゆる人々が掛け替えの無いものを持っている

 

人もいろいろの生き方があり

死に方もある

 

人の行いは数多くあるけれど

環境次第で行いの状況は変わる

 

爆弾を腹に巻いて散る人生

巻く人も巻かれる人も掛け替えの無いものを持っているはず

銃弾によって散らされる人生

暴力によって散らされる人生

それをする人にもされる人にも

自ら散る人生にも

 

あなたにも掛け替えの無いものがあるはず

些細でもあることを確信しよう

 

今日もどこかで涙を流す人がいると思うと心が痛む

 

憎しみや苦しみそして悲しみの涙ではなく

世界を潤す希望の涙となってほしい


中年派遣員奮闘記(その7)

2015-12-28 | 奮闘記

NO.7[キングオフキングス]

Sさんがインターネットカフェでの報告を終えて、前のテラスにて4人位で話をしておりますと斜め前の路地から一人の男が現れました。

足がちょっと不自由なのか、上半身を左右に揺らし何やら大きな声で叫びながら近づいてきます。彼はラスタ風の短めのドレッドヘアで痩せていて大きめの口からは歯が何本か抜けているのが見受けられます。

「カカーオー!、キングオフキングス!!」とちょっとかすれた声でSさんと恒例の挨拶である握手指パッチンを2回3回と繰り返しております。

そのうちSさんが顔をしかめながら「イテテ!コイツの握手はいつも痛くてー!、コイツは酒が好きで酔っ払うと何時もうるさいンですよ。」と言うとまた大声で「カッカオー! ビックビックラスター! キングオフキングス! WAHAHAHA!!」とより大きな口で大笑いしながらSさんに握手指パッチンを繰り返し、その度にSさんの表情がゆがみます。

彼の名前は「ワゾタ」ブルキナファソでも指折りの太鼓(ジェンベ)のプレイヤーで良くコンサートにも出ているようです。手の平を見せてもらうと殆ど全部が硬い靴底の様な状態で硬くなっていて、この手でジェンベのように叩かれたらかなりの衝撃かと思われます。

現地語のモレ語で何を言っているのかは解りませんが殆ど一人で語り続け、時々ラミンが涙を流しながら笑うので、それを見てこちらも可笑しくなり笑ってしまいます。

「ワゾタは太ったお尻の大き~い女性が好きなんだ。」と言うと、ちょっと恥ずかしそうな仕草で「NO~~~」とニヤニヤと笑みを浮かべ、なんとなく憎めない人柄で皆の人気者のようです。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その6)

2015-12-27 | 奮闘記

NO.6[ぺティデジュネ・朝食]

ワガドゥグの朝は清清しく、ここの人たちは皆早起きで6時頃は通りのバイクの音や、近くの家からラジオ放送が聞こえています、暫くの間まだ昨日までの疲れが残っているせいか微睡でいました。

眠さが心地よく感じられ薄目を開けて横を見ると昨夜の激戦の跡の蚊が壁に2匹ほど血にまみれて張り付いております。

「6箇所も刺しやがってこれでマラリアになったら最悪だぞ~。」などと寝惚け声でつぶやきながら部屋を出ると、Sさんも丁度起きて来て「おはようございます、昨日はお疲れだったでしょう。昨日は眠れましたか?」という爽やかな問いかけに思わず「おはようございます。はい良く眠れました。」と答えてしまいました。

少ししてSさんから今日の日程を聞き、何か朝食をという事で外に出ました。朝の通りは昨日の夜と風景が変わり皆活動的で、なんとなくアフリカの人達の活気が感じられ、通りを歩いて行くと道端にある屋台風の椅子に人が何人か座っています。

Sさんがそこでサンドイッチでも食べますか、と言うので早速その椅子へ腰を卸しテーブルを見ると、沢山の蝿が群がっているではありませんか。いくら追い払っても蝿の一匹一匹がそこにいるのが当然の様に馴れなれしい有様で、周りの人達もあまり気にしていない様。

日本でもそうですが屋台と言うのは一般庶民が気軽に利用出来るというのが良いところ、Sさんが「カフェオレ飲んで見ますか、ちょっと日本では味わえないですよ。」という事でSさんにお願いして頼んで頂きました。

まずカップが置かれ、コーヒーカップでは無くアルミニュウム製の給食のカップに似た形の器に練乳を並々と入れ、そこにネスカフェを小さじでサラッと入れ、そして熱いお湯を注ぎカップの上に蝿よけの皿をかぶせて出来上がり。口に含むとコーヒーの味より練乳の方の甘さと香りが先に来てホットコーヒー牛乳の様です。

次はサンドイッチで、屋台のおっさんが長いフランスパンを片手に持って器用にナイフで縦に切り込みを入れ、細切にした玉ねぎと卵を混ぜフライパンに載せてマギースープの粉末を少々加え炒めてパンに挟むと、これが結構美味いのです。

蝿もこの甘いカフェオレが大好きと見えて蓋代わりの皿をとって飲もうとすると空かさず飛んで来ます。そのうち蝿と人間のカフェオレ争奪戦の様相になって来て敵は大群、こちらは二人。最初は追い払ってハエが逃げる時にカフェオレを飲むという頭脳プレイで交わしていましたが、蝿も学習能力があるのか戻って来る速度がだんだん速くなっているように感じたのは気のせいでしょうか。

朝食も済み、昨日行ったホテルの側の所でSさんはインターネットカフェで本部との交信、私は昨日知り合ったラミンと片言の英語でボディーラングウェッジを交えながらコミュニケーションを図っておりました。

ブルキナファソでも多くの日本製の車やバイクがたくさん走っていてカメラ、パソコンなどの日本製品の話をしているうちにラミンの人柄がだんだん解って来ました。彼は自尊心が強く日本に興味を持ち、ほかの物売りの人とはちょっと違う個性を持っていて、「昨日の荷物の事は心配ない。また俺が一緒に空港へ行ってあげるよ。今日の飛行機で必ず来るから大丈夫安心しなさい。」などと話をしていると、ふと日本にいる時にブルキナファソの人は穏やかだと聞いていた事が思い出されます。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その5)

2015-12-26 | 奮闘記

NO.5[駐在事務所]

空港から乗り合いタクシーで10分位行った所にサマンデンと言う地区があります。市内の中心は狭い所に沢山の住居や店が雑居し、この辺りは住宅も庭があり商店街があって閑静な住宅街(日本とはちょっと違いますが)、Sさん曰く「ワガドゥグの杉並区」という事で、その一角に事務所兼住宅が在ります。

薄いオレンジ色のコンクリートフェンスに囲まれ鉄の扉がいかにも堅固に中の建物を包み、その扉を押すとギギギギーと鉄とコンクリートの擦れる不協和音を奏でます。もしかしてチャイムも兼ねているのでしょうか。

向かって右が城主ムッシュ・バルコマのメゾン、そして左側が私達の住居で、着いた時が夜でしたのであたりは暗く、そして古めかしい建物があり、その時の心境はディズニー、いや浅草花屋敷の恐怖の館にでも入るかの様にドキドキワクワクしながら事務所の扉に近づくと壁の上で何か動いております。壁面をチョロチョロと、恐る恐る凝視して見ると何とトカゲとヤモリではありませんか!

私はこのタイプが非常に苦手で一瞬後ずさりしましたが、アフリカの環境に順応しているSさんは何事も無いかの様に扉の鍵を開けています。周りを注意しながら部屋に入ると薄暗い電球に浮かぶ白い壁の部屋、そして中央には白いプラスチック製の丸テーブルに同様の椅子、奥にはご当地風のごつい応接椅子があり、天井にはヤモリが1匹。

ここではごく普通の事も初めて経験する世界は何事も刺激的に感じられます。「この部屋をお使いください。」とSさんに促され部屋に入ると8畳間位の広さで目も慣れて来たせいか、思っていたよりは良い感じです。

居間兼オフィスで少し寛いだ後、食事をして無かったので近くのレストランで食事をする事にしました。「CAFEINN」と言って道路沿いのアフリカ風カフェテラスの店は、大きい交差点の近くで夜も人や乗り物が行き交いとても賑やかで、FLAGというビールを頼みSさんに注ごうとすると「ブルキナでは自分の飲み物は自分で注ぎます。知っておいた方が良いですよ。」と言われ、周りを見ると皆その様でした。

ここでまた日本との習慣の違いを実感し、疲れもあり気温も高いせいか1本のビールがとても強く飲み終える頃は、かなり酔いが廻り目も半開き状態になり、千鳥足で事務所に引き上げました。

さて、そこからまた一難去ってまた一難、荷物が届かなかったのでシャワーをするにもタオルは無いし着替えも無く2日前のまま、タオルはSさんに借りてとりあえず2日分の垢を落としベッドに転がり込みました。ところが暑苦しくなかなか寝付けず、ウトウトしていると足のほうが痒くなって耳元でプーンという小さな音が聞こえます。

ブルキナファソはハマダラ蚊によるマラリア感染が多いし、Sさんも以前罹ったと聞いていたので、これは一大事と電気を点け蚊の捜索と駆除に執りかかり4~5匹は撃退したでしょうか。敵もさる者で電気を点けるといなくなり消すと現れ、蚊との攻防を繰り返すうちに寝てしまったらしく、いつの間にか朝になっていました。

アフリカ・ブルキナファソの一日は暑く、そして私にとってとても過酷で、これまで日本の生活にどっぷりと浸りきっていた私は、これから3年間生活をすると思うととても気が重くなってきます。と同時に大変な所に来てしまったなと思ったのは正直な心境かも知れません。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その4)

2015-12-22 | 奮闘記

NO.4[はじめて観る首都ワガドゥグ]

どこの街にもその街の匂いがあるもので、北京へ行ったときは中華料理の香辛料の香り、ハワイは潮風とサンオイル、ロスアンジェルスはアスファルトとGRASSの香り、とそれぞれに特色があるものです。

それではワガドゥグの香りは、と目を瞑り胸いっぱいに何回か深呼吸してみると1回目は自動車やバイクの排気ガスの香り、2回目は汚水の香り、3回目は近くにいたお兄さんの汗とワキガの香りでした。

Sさんに空港での事情を説明すると空港の近くのホテル・イビという側に民芸品やインターネットカフェなどの在る賑やかな所があります。

そこには何人かの人達がいて皆道路を挟み、向かいのホテルの方を向いて団欒している様で、風体はラスタマン風の人、本や雑誌を抱えている人、新聞の一点をじっと見詰めている人、長い髭のイスラム風の人、だんだん近くになるに連れその人達がこっちを見ております。

ウワー前を通るのはいやだなーと思い、なるべく視線を避けてやり過ごそうとSさんの体に身を潜めるように歩いて行くと、何とSさんは加速しながらそちらに方に近づいて行くではありませんか。

側に行くと皆ニコニコ「カカオー、カカオー」と言って握手指パッチンをしております。

この国の言葉で「カカオー」が挨拶と思い「カカオ~」と小さく震える声で握手をすると笑顔で「アンシャンテ、コマサヴァ、ボンナリヴェ!」と、とても気持ちよく迎えてくれました。

どうやらみんなSさんの友達だったみたいで、後でよく考えてみると挨拶と思っていた「カカオー」はSさんの名前「タカオ」だと判明しました。中でもちょっと小柄でフランクな感じの人で名前はラミン。

Sさんが何やら英語で話をすると、もう一度確認に空港へ行って見て下さい、という事でラミンと二人して空港に向かいました。空港までは1キロ位でしたが、クタクタに疲れ果てた私にとってはとても辛い道程です。

ところがラミンはとても歩くのが早く、無言で歩く私に気を使ってか「俺は何キロ歩いても疲れないよ」、とか「ここからマラソンするか」とか気の遠くなるような言葉を投げかけてきます。地元の利を生かし細い裏道をスイスイとすり抜けていくラミンの後を汚水の小川を避けながら、もつれる足を最大限に動かして必死で追いかけました。

再び空港へ戻り職員の説明を聞き明日の飛行機で着くとの事でひと安心、また地獄の道程をどうにか引き返して来たのが午後7時ごろでした。

それからSさんと共に駐在事務所に乗り合いタクシーに乗り行く事になり、このタクシーがまたまた凄く古い型のベンツが多くて色は薄緑、艶は無くガラスはひび割れ、まるでシーラカンスのような容姿です。ディーゼルエンジンなので真っ黒い煙を出してガラガラと勇ましい機械音を立てて走ります。

日本のタクシーは普通メーター料金ですが、ブルキナ の乗り合いタクシーはルート内であれば200フランセファー(4〇円)で、電車やバスが無いのでこの乗り合いタクシーが市民の足となり大活躍していて、乗車定員が無く何人乗っても大丈夫で多い時には7人も乗ります。

まあ日本の電車の通勤ラッシュも同じようなものかもしれません。

と言うことで幾多の難関を乗り越えて無事に駐在事務所に到着出来たわけです。



次回をお楽しみに・・・・