西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

ブルキナファソについて知るべき理由

2015-11-17 | Weblog

トリスタン・マコネル 著

西アフリカの内陸国ブルキナファソでは2014年10月31日、市民の激しい抗議デモのなか、27年前の軍事クーデター以来この国を支配してきたブレーズ・コンパオレ大統領が辞任に追い込まれた。

だが、直後に軍が介入。速やかな民政移管を求める声が国内外で高まっている。

 ブルキナファソがこれほど世界の注目を集めるのは初めてのことだろう。

西アフリカの小国で起きた市民の革命について知っておくべきこと、併せてこの国の政変が大きな波紋を広げている理由をまとめてみた。

■ブルキナファソの革命はなぜ重要なのか

 理由はいろいろある。これまでサハラ砂漠以南のアフリカ諸国には「アラブの春」の影響はまったく及んでいなかった。

アフリカの指導者の多くは軍部の出身で、数十年に及ぶ長期支配を続けている。

長老支配の政権と若年層が多数を占める国民の意識のギャップは広がる一方だ。

そうした中で、市民のデモで政権が倒され、比較的平穏に政権交代が実現するのは画期的なこと――アフリカではほぼ前代未聞の快挙だ。

 さらに、この国の政変は国境の外にも影響を及ぼす。コンパオレは欧米諸国と強い結びつきを持つ(最近では、サハラ南縁地域のイスラム過激派対策として、アメリカは無人機、フランスは特殊部隊をこの国に送り込んだ)。

近隣諸国に時には紛争を仕掛け、時には火消し役を務めてきたコンパオレは、旧宗主国のフランスにとって、使い勝手のいい仲介役でもあった。

■なぜコンパオレは失脚したのか

 何十万人もの市民が通りを埋め尽くした今回の抗議デモ。直接のきっかけは、コンパオレが政権の座に居座るために憲法改正の手続きに踏み切ったことだった。

コンパオレは、元友人で左翼革命家のトーマス・サンカラが殺されたクーデターで実権を握って以来、27年間政権を率いてきた(コンパオレ曰く自分はサンカラ殺害を命じていないと主張してきたが、訴追免除特権を失った今、法廷で裁かれる可能性がある)。

コンパオレの支配下では汚職がはびこり、国民の窮乏生活はいっこうに改善されなかった。

■今は誰が実権を握っているのか

 市民の勝利だったはずの革命は、すぐさま軍部に乗っ取られてしまった。

最初に全権掌握を宣言したのはコンパオレの盟友で軍の最高司令官のオノレ・トラオレ将軍だが、直後に大統領警護隊の副指揮官イサーク・ジダが実権をもぎ取った。

ジダは政権の座に長く居座る気はないと言っているが、当然ながら国民も野党指導者も信用していない。

アフリカ連合(AU)は2週間以内に暫定の文民政権に権力を委譲しなければ制裁を科すと警告している。

近隣諸国の首脳は11月5日、ブルキナファソの首都ワガドゥグーで緊急会合を行った。

■コンパオレは今後どうなるか

 コンパオレは33台の車を連ねて家族や側近たちと隣国コートジボアールに逃亡した。

祖国から遠いヨーロッパや友好国に向かわず、隣国に逃げたところにコンパオレの腹の内が透けて見える。

執念深く政権復帰のチャンスを狙うか、それが無理でも祖国の政界を裏で牛耳る気だろう。


レストランでの出来事

2015-11-16 | Weblog

親爺は外で食する時が好きで時々野外にあるMAQUISと呼ばれるレストランに行きます。

レストランと言っても日本にある屋台のようでビールや炭酸飲料を飲みながら周囲にある屋台に鳥や豚肉のグリルやヤギ肉の鉄板焼きなどを買って街の雰囲気に浸ります。

 

ある日のこと。

 

親爺は夜の一時を満喫しようと近くのレストランに行き、地ビールのブラキナ(140円)を注文し、そばの屋台で鳥のグリル(一羽700円)を注文しました。

鳥は生きている鳥をまず選んでから調理しますので出来上がるまでに30分ほどかかり、その間にビールは2本ほど消化してしまうのです。

3本目のビールの口をあけ程無く鳥のグリルが到着、これでビール2本のフライングはあったものの今夜の段取りはそろったと喜んだその時、10歳くらいの男の子がテーブルの横で見ているのです。

親爺は、たぶん外国人だから珍しくて見ているのかと思い、そのうちに行ってしまうだろうと気にせずにいますと、男の子がこちらに近づいてきて鳥のグリルを指さしています。

男の子はストリートチェルドレンのようで服が汚れ所々が破れています。

ブルキナファソの首都ワガドゥグには約7,000人もの子供が路上生活をしていると聞いたことがあります。

親爺は可哀そうに思い食べかけのものを子供にあげると、すかさず店の従業員が出てきて男の子の襟をつかんで引っ張って行き殴り始めたのです。

従業員はきっと私の食べ物を盗み取ったと思ったのでしょう

その時とっさに、やたらにあげるのではなかったと後悔し、私があげたのだからと止めようと思い後ろを振り向いたときには少年はおなかを押さえて座り込んでいました。

 

やっぱりあげるんじゃなかった。

 

親爺は呵責の念に苛まれながらも、じっとこらえている男の子を見ておりますと重い足取りでレストランの敷地の隅に歩いて行くのでした。

そこには切り倒された木があり、良く見ると暗い中に何人かの小さな子供たちが座っていました。

すると男の子は、そこに近寄って私の食べたものを渡していました。

きっと男の子は殴られながらも食べ物を他の子たちにあげたいと必死で守っていたのでしょう。

 

親爺は結果として良かったのか悪かったのか複雑な心境で家路につきました。

ただ言えることは、これが現実であることです。

物をあげるという行為ひとつをとっても、その時は酔いも手伝い、ただ気軽に可哀そうだから。

もしや動物に餌をやるような心情になっていなかったか。

少年の顔を思い浮かべながら、貰うほうの立場も思い憚らなければいけないと深く深く反省したのです。


東日本大震災被災地復興の仕事を通じて感じたこと

2015-11-12 | Weblog

親爺は日本に帰郷中、福島の南相馬市にて震災の被災地復興事業の一環として放射能除染に関わる放射能測定業務にて6カ月の間働きました。

何故かと申しますと、2011年3月11日に起こった東日本大震災をブルキナファソで知り、その後ニュースで流れてくる郷土の悲惨な有様に驚愕するとともに、対岸で見ている自分が卑怯者に思え、日本に帰った時には何が何でも被災地で復興に関わりたいと思ったからです。

 

幸いにも福島で雇われ会社の寮に住むこととなりました。

寮は個室で5部屋、各部屋は八畳ほどのワンルーム、新築で白い壁に囲まれた室内には木製のベッドやテレビ、冷蔵庫、電子レンジ、調理グリルの付いた流し台などがあり一人住まいには至れり尽くせりです。

親爺は毎朝4時に起床し、弁当を作り6時に同僚と一緒に事務所に向かいます。

それから測定の道具を持って各2名一組で軽ワゴン車に乗り込み現場事務所へ。 

現場事務所には共同企業体(JV)や除染関連業者の事務所があり約1,000人が集まり朝礼を行い周知事項の確認をします。

8時になると各業者は作業現場へと散っていきます。

私の仕事は定点にある測定箇所の放射線量を図る仕事です。

計測器を2つ肩に下げて測定点の線量を計り読み上げ、それを記録します。

1日に約80か所の家や農地、山林、道路等の測定を行います。

親爺は仕事を始める前は単純作業で力仕事でもなくこんなに簡単な作業で給料を頂いてよいのだろうかと高を括っておりました。

それが始まってみると家の周りには雑草が生え、農地は草が生え、でこぼこで歩きにくく、山林は崖があり木や篠竹が生い茂りという状況でなかなか容易に測定できません。

1日に歩く距離は6キロ程度で、測定するときにはしゃがみこんで測定しますので1日80回のスクワットをすることになります。計測器は3キロほどの重さでマスクとヘルメット、そして鉄板の付いた重い長靴を履くと体にかなりの負担となります。

還暦を過ぎた親爺は、始めのころは筋肉痛で体が痛くて、はたして足腰が持ちこたえてくれるのかと心配になりました。

そして1週間が過ぎ、親爺はだんだん仕事に慣れてくるに従い頑張る意欲もわいてきたのです。

仕事の同僚も皆よい人たちで始めは年配の私を気遣ってくれていましたが、比較的体力がある爺だと解かると「ベンさん(私の愛称)だけ一人で残業ね。」などと悪態を突かれるようにもなりました。

時々は寮の一室で4~5人の同僚と飲む機会などもあり、ご多分に漏れず愚痴を言いながらも皆の気持ちが打ちとけ合い、日ごろの疲れをいやす一瞬でもありました。

6カ月がたち私が仕事を離れることを知った同僚の人たちが、こんな私の為に送別会までしてくれてブルキナファソでも頑張ってと励ましてくれたことは、何にも例えようがない幸せです。

 

以前ブルキナファソで感じた心境を癒せた今思うと本当に福島に行ってよかった。

これが本音です。

被災地では被災した人、復興の仕事をする人がいて、そしてそれぞれの思惑があり、それぞれに人生があり、そして未来があります。

 

路は遠く険しいのかもしれませんが、ただ一つ言えるのは皆懸命に生きていることです。

 

復興が終われば被災地にまた人や家族が戻ってくるのでしょうか。

復興が終わればそれに携わる人たちはどこへ行くのでしょう。

 

ある農家の老夫婦が言ったことが今でも耳に焼き付いています。

「子供夫婦や孫は遠くの町に避難してもう戻らないと言っているが、私たちは先祖から受け継いでいるこの地を離れることはできない。だから毎日家に生えた草だけでも取ろうと来ているのだよ。」

 

このような老婆心(老爺心?)を抱く私もこれから何をするのでしょうか。

 

「自求自捨の心」は自分で求め自分で捨てること。

自ら求めること。しかし何もかも求めていてばかりいると何時かその重さに押しつぶされてしまう。

だから捨てるものは自ら潔く捨てることが大切で、その瞬間に次の展開が始まる。

 

これはブルキナファソから学んだことかもしれません。

 

最後に私を受け入れてくれた会社、そして毎日どんなに暑くても寒くても自分の足で歩きまわり頑張っている皆様。

 

どうも有り難うございました。


親爺の独り言

2015-11-11 | Weblog

人生には夢と希望がある。

夢は限りなく無限に広がり、あらゆる変化が可能だ。

親爺も幼少の頃は数え切れないほどの夢があったな。

人は誰も夢と希望を持ち、どのような世界でも存在する。

 

希望は夢とは違い、自己の可能性の欲求であり。

夢は現実の外側にあり無くしても元に戻るだけだが、希望は自己の可能性の欲求で現実の内側にあり無くしたら生きている甲斐がなくなることもある。

 

それには懸命に生きることが大切かと思う。

命を懸けてというと大げさな感じもするが。

 

体の五臓六腑は毎日私を生かそうと懸命に動いてくれている。

六十歳を過ぎて大部消耗して来てはいるのだが。

 

言い換えるなら体や環境には関係なく、今を生きることがどんなに大切なことかということなのか。

 

生きている限り我慢することはたくさんあり、それが災いになることも少なくない。

 

我慢とは我を抑えること。

いや、そうすれば何時か破裂してしまうか心身に大きな傷を残してしまうことだろう。

 

私が思う我慢とは我を満足させること。

我満だと信じたい。

 

自分の心が満たされれば良いのだ。

 

不平不満を募らせるより瞬時愚直懸命に生きることが大切なのかな。


ブルキナ親爺は健在です。

2015-11-10 | Weblog

皆さんお元気ですか?

ブルキナ親爺は2年の間、わが祖国日本に帰郷しておりました。

我が家での暮らしは、家族や友人の温かい愛と友情に包まれながらも元来枠にとらわれない親爺の性格が災いし、家族や友人に多くの心配と狼狽をもたらしてしまったことも事実です。

そして今再びブルキナファソに戻り、こうして一人物思いにふけることは日本ではありえないことで、何故か新鮮なことに感じます。

ブルキナファソという国は、というよりこの空間は日本のように決まり決まった社会の型式が無いと言いますか、「らしくあれ」ということが日本では外部に求めるのに対して、この国は自分に求めることが大きな違いです。

歴史と伝統の違いもあって何が良いのか親爺にはわかりませんが、先般に起こったブレイスコンパオレ大統領の追放は、それまで30年も続いた政権を引き続いて行うつもりだったブレイスコンパオレと、それに従う既得権の亡者たちに、そうはさせないと市民が立ち上がり、軍が市民の味方に付いて成し遂げた結果でした。

11月27日はブルキナファソの新しい大統領を選ぶ選挙があります。

市民に尋ねると、「もう独裁政治はご免だ。私達は自由であり私達の選んだ大統領と一緒にこれからのブルキナファソを創る。」と言っておりました。

貧困な中にも人々の心から滲み出る未来を想う活力に改めて感慨深く思うのです。

私はこのようなブルキナファソの人々の屈託の無い純粋さと人に阿ることが無い心が好きです。

これから再びブルキナファソの地からこよなく愛する祖国、郷里を想いながら発信して見たいと思いますのでよろしくお願い申し上げまする。

 


にんじん売りの少女

2014-04-23 | Weblog

ブルキナファソには屋外で物売りをしている人をたくさん見かけます。

野外で食事をしていると生活雑貨品、服、食べ物下着、漢方薬・・・・、それはそれはまるで動くデパートのようです。

親爺はいつもブルキナファソの人たちが普段食べている食事が好きなので、ご飯にピーナッツバター風味のソースをかけたものや、山羊肉の鉄板焼き、りグラ(混ぜご飯)などを食べています。

ある日、豚のグリルをほおばっておりますと、頭の上にたくさんの人参を載せた少女が近づいてきました。

人参は綺麗に重ねてあり、まるでメキシコハットのようで少女の頭を飾っているようでした。

少女が、[おじさん!人参いかが?」

私は生のニンジンを食べるのと衛生的な問題のためにしばらく考えておりますと、「この人参は小さいけど甘くてとてもおいしいよ。」と言って勝手に皮をむき始め私に差し出しました。

この際だ、とばかりに口に含みますと甘さと人参の香りが広がりまるでフルーツのような食感です。

少女は私の表情を見ながら「ほら、美味しいでしょ。」というともう一本向き始め、とうとう3本も食べてしまいました。

私は、ウサギでもあるまいし、、、、、。と独り言を言いながら少女のたくましい商売根性に敬服するばかりでした。


世界一貧しくも偉大な大統領「トーマス・サンカラ」

2014-04-19 | Weblog

サンカラが掲げた政治改革は、具体的にどんなものだったの?

社会的公正が貫かれている国家でなくては、国民を養うのに必要な食料を生産するだけの国力はつけられないと考えていたサンカラは、大統領に就任するとすぐ、抜本的な改革に着手した。 

さっきもいったとおり、当時国内にはおよそ38,000人の役人がいたが、人数が過剰な上に、大した働きもしていなかった。彼等は、旧来の地縁、血縁、盟友関係でかたく結ばれていて、居住区ごとにまるで幾重にも折り重なった山のようにさえ見えた。
実は、1960年以降次々に独立をはたしたアフリカ諸国はみな、多かれ少なかれ似たような事情を抱えていた。いかにしてこの山を切り崩すかは、どの国でも難しい課題だったんだ。若き改革者サンカラにも、さすがにこの問題は解決不可能なように思えたかも知れない。

働きに見合わず支払われている一人の役人の給料には、彼の家族や親族が15人、20人と芋づる式にぶら下がって生活していたからね。
しかも公的機関以外の働き口はとても限られていて、私企業と半官半民の働き口を合わせても、三万人分ほどしかなかった。
 そこでサンカラは、抜本的な解決策として「自主管理政策」の導入を決断し、国内の30の行政区を自治制にし、住民自身がその地域を治めていく方式に切り替えていった。役人も住民自身が雇い、道路建設、建物建設、水道事業、保険、医療事業など自分たちの実際の生活に必要な公共サービスを実施していくというものだった。さらに、行政区域はそれぞれそこに住む住民たちの持つ文化や歴史に配慮して決められた。住民を単位にしたこうした自主管理政策は、人々にとって今までにない魅力があった。彼等の意識の中にまどろんでいたすばらしい建設的な能力を引き出すことに成功したからだ。 

しかし自主管理政策は、同時にたいへんな危険ととなり合わせていた面も見逃せない。アフリカのほかの諸国と同様に、ブルキナファソの人々も数百年にわたる民族間の激しい対立意識を意識の裡に秘めていたからだ。サンカラの住民主導型の政策は、そうした対立意識を公共の場に引っ張り出したという側面もあった。
 対立によって発生するかもしれない様々なリスクを回避するために、サンカラは国家レベルの大規模プロジェクトにも着手した。その一つが首都ワガドゥクからタンパオまでの鉄道敷設事業だった。 

アフリカで鉄道敷設をおこなうという事は、際立って象徴的な意味がある。過去の植民地支配時代の悲惨きわまりない搾取の記憶を人々に呼び起こす事業だからだ。ブラック・アフリカの多くの国がそうしたつらい歴史を経験している。
 アビジャン(コートジボアール最大の経済都市)――ニジェール間の鉄道敷設の際に数千人が死亡し、ダカール(セネガルの首都)――バマコ(マリの首都)間でも数千人が死亡し、マタディ[コンゴ民主共和国](旧ザイール)の主要都市――キンシャサ[コンゴ民主共和国の首都]間とポアントノアール[コンゴ共和国の海岸都市]――ブラザビル[コンゴ共和国の首都]間でも、工事期間中に数え切れないほどの遺体が積み重ねられた。

しかし、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業は異色だった。金銭的な報酬はないというのに、住民たちが自発的に集まり、男も女も与えられた水筒と両手一杯の米を腰に、何処までもつづくサバンナに鉄道を敷いていった。終点のタンバオは国内最北部の半砂漠地帯で、首都のワガドゥクからおよそ450キロ離れた地点だった。
 1987年2月25日の木曜日、父さんは、鉄道敷設事業の記念すべき最初の一日をサンカラと一緒に見守った。灼熱の太陽のもとに集まった数千人の人々が、レールを敷き、枕木を取りつけ、ボルトで締めていた。その年の暮れには、カヤという約30キロ地点まで工事は進んだそうだ。 

サンカラが実行したもう一つの改革が「人頭税」「納税能力によらず、各人一律に課する税」の廃止だった。1983年まですべてのブルキナファソの国民は地方税務署に毎年数千フランを人頭税として納めなければならなかった。一部の市街地の住民以外、大半の家長にとってこの税金の支払いは並大抵なことではなかった。
 支払いが出来ない世帯に対して、村の徴税係は、なけなしの家財、牛やヤギ、蓄えてあったミレットを容赦なく取りたて、時には女性が未納分のつけとして要求されることもしばしばだった。かわりに差し出すものがないとなると、村の長達のところで強制労働に従事させられた。

人頭税の廃止は市街でも効力を発揮したようだ。父さんの友人でテオドール・コンセイカというブルキナファソの郵政職員は、「私はサポネ地方のピシ村という農村の出身ですが、人頭税があったころは村に住む親族から金の無心がしょっちゅうでした。兄弟も従姉も遠縁の甥達まで、強制労働から逃れるために私の給料をあてにしてたんです。何せ私は親族中でただ一人、定収入がある身ですからね。今じゃ仕事上の恩典や公務員宿舎や自家用車を失いましたし、給料も下がりましたが、生活は以前よりずっと楽ですよ。何せ人頭税が無くなったんですから」と話していた。

 サンカラが人頭税廃止の次にしたのが、開墾可能な土地の国有化だった。まず、村の運営責任者達が自分達の判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作づけするか指導し、農作業の年間作業スケジュールをつくって村の農業を管理していった。そして、一人一人の作業量に応じて金銭か収穫物、あるいは人的サービスという形で支払いをおこなっていった。

 国では農業省の役人が土地帳簿をきちんとつけるようになった。土地が各戸の必要に応じて分配され、農民達は強制的な徴収に脅かされることもなくなり、安心して農作業に汗を流すようになった。

 

 

ヘエー、すごいね!改革の成果はどうだったの?

 素晴らしいの一言だ!改革が始まって四年も経たないというのに、農業生産は急激に増加、国家支出は大幅に削減され、そうやって生み出された資金は、道路建設や小規模水道建設、農業教育の普及、地域ごとの手工業促進の事業など、住民に密着したプログラムにまず投資された。たった四年間で自給自足の農業に切り換えられ、他民族の複雑な社会構成が民主・公正を是とする方向でまとまりを見せてきていたと評価していいだろう。


じゃあ、サンカラはアフリカ大陸のよき手本として英雄になったんじゃないの?

  そのとおり、不幸にも英雄になった。

不幸にも・・・・・・?

ブルキナファソに住む人々の数は100万人弱、その殆どがその日の食べ物に困るような貧しい人々だったのに、サンカラの改革によって不公平がなくなり、彼等は人間らしさと生きる誇りを回復して、雄大な希望に燃えてたちあがった。ブルキナファソの名は西アフリカはもとより、中部アフリカ地域に至るまで広まり輝き始めた。
ブルキナファソが経験した改革への希望は、政治腐敗で苦しんでいた近隣諸国にも影響を与えることになり、象牙共和国のウフエ・ボワニ大統領、ガボンのボンゴ大統領、トーゴのエヤデマ大統領などの各政権は大いに揺さぶりをかけられることになった。
 これらの政権はすべてフランスの傀儡で、手綱をひかれていたことは前にも話したとおりだ。
だからフランス本国政府の一部の勢力にとって、サンカラの改革手法を放置しておくことはとてもできない相談だった。サンカラ暗殺の指令が出たのは想像にかたくない。そしてついに、彼はかつての親友コンパオレの手によって殺害されてしまう。


サンカラの最後はどうだったの?

 サンカラの死はあのアジェンデの死とそっくりだった。外国の勢力に糸をひかれた自国の軍部によって、終りを遂げなければならなかったからだ。 それに先立つ1987年9月のある晩、父さんはエチオピアのアディス・アベバで偶然、サンカラにでくわした。サンカラは国務で当地に、父さんはアフリカ巡回訪問の途中だった。 

サンカラ自身も自分の死を予期していたのだと思うよ。サンカラの宿泊先のホテルでいろいろ話しをするうちに、1967年にボリビアの山中で殺されたチェ・ゲバラ(1928年~67年。医者、キューバの革命指導者。67年、ボリビアでゲリラ活動中、政府軍によって射殺された)のことが話題になった。

 サンカラはこう聞いてきた。『チェは殺されたとき、何歳でしたか?』『39歳と8ヶ月だったと記憶してますが』と父さんが答えると、サンカラは、『そうですか。私はそこまで生きていることが出来るでしょうかね』と考え深げにもらした。もし、彼が生きていたら、殺された年の12月に38歳の誕生日を迎えるはずだった。 

サンカラの死とともに、人々の大きな希望も打ち砕かれた。現在のブルキナファソは、現在もコンパレオの統治下にある。そして普通のアフリカに戻ってしまった。政治腐敗、政治腐敗と表裏一体の外国支配、北部地方でつづく慢性的飢餓、新植民地主義下での人間としての尊厳の軽視、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、そして農民達の嘆き。


世界一貧しくも偉大な大統領 「トーマス・サンカラ」

2014-04-18 | Weblog

 

ジャン・ジグレール著・『世界が飢えるのはなぜ?』より抜粋

著者はヨーロッパで最も知られる飢餓研究者の一人、ジュネーブ大学の社会学の教授で、スイス連邦議会議員でもある。

本書は著者とその息子のカリムくんとの対話形式で書かれている。

  • 飢餓が起こるのはなぜ?

  • 援助が行き渡らないのはなぜ?

  • 自国で食料生産ができないのはなぜ?

このようなカリムくんの素朴な問いに、ジグレール教授は丁寧に答えていく。徐々にヒュドラの全体像が見えてくる。

アフリカの問題をなんとかしようと思った人物はいなかったの?

トーマス・サンカラという男が、まさにその人だと思う。友人たちと力を合わせて不可能なことを可能にしようとした人だ。ブルキナファソという国を知っているかい?西アフリカにあってサハラ砂漠の南端にあたるところに位置する世界の最貧国の一つだ。彼はその国の出身者だ。

父さんは、ブルキナファソという国にいったことあるの?

もちろん。

1983年から87年にかけてブルキナファソで政治改革の運動が盛り上がったころ、何度も出かけた。なかなか信じられないかもしれないが、たった四年間でブルキナファソは驚くほどの変化を遂げた。
サンカラはその時期に大統領を務めたのだが、彼の人生を知れば、誰でも抵抗を通じて人間の尊厳を示すことが出来るし、本当になんとかしようと思うなら、貧しさの只中にいてさえ、あそこまで頑張ることが出来るということが分かると思う。
 父さんがはじめてブルキナファソの首都、ワガドゥグに行ったのは1984年だった。思えば本当に不思議なきっかけとタイミングだったね。

なんなの、その不思議なきっかけて?

 1983年のクリスマスのことだった。聞いたこともない男の声で家に電話がかかってきた。
男は「大統領のサンカラといいます。ジグレール教授とお話をさせていただきたい」っていうじゃないか。

サンカラなんていう名前は聞いたこともなかったし、軍人のような命令調の話し方でいやな感じがしたので、こっちもかなり冷たく「本人ですがね」って答えた。すると、その声の主はこういった。「至急あなたにお会いしたいのです。私は牢屋であなたの本【Main basse surl Afrique】(未邦訳)を読んだんです。だから、あなたとどうしてもすぐにお話したいのです。来ていただけますか?」

そのときだ。今までに感じたことがないような、何ともいえない特異な直感に突き動かされて、「分かりました。いきましょう」って答えてしまった。そしてそのまま、その年末年始の休暇にブルキナファソを訪れるはめになった。



ブルキナファソで何を見たの?

 首都ワガドゥグについた時のことが今でも目にうかぶ。サヘルの強い風が赤い砂ぼこりを巻き上げる中で、若い四人の将校が小さな家で父さんを待っていた。彼等は83年8月4日のクーデター以来、国の政治で大事な役目を果たしている人たちだった。
 食事に招いてくれたのだが、案内された部屋はひどく暑く、出された食事は、緑色をした豆、トマト、サツマイモ、それから肉の缶詰が少しだけだった。飲み物は水。

四人のリーダーといった感じの人が、電話の主、トーマス・サンカラだった。モシ民族とフルべ民族の混血で、たいへん聡明で快活な人だった。サンカラの向かいに座っていたのが背が高くて痩せ型、眼光が鋭いサンカラの一番の友人ブレイズ・コンパレオ、そのとなりに、中背で人をひきつける魅力を持ったアンリ・ツォンゴ、いちばん端の席にいたのが年長で―――といっても38歳という若さだったのだが―――軍隊の責任者ジャン・バプティステ・リンガイだった。 
 実はこの四人のうち三人はもうこの世にいない。四人組の一人、コンパレオによってみんな暗殺されてしまったんだ・・・・・。

ブルキナファソという国のことを少し話しておこう。ブルキナファソは元フランス領で、1960年に独立したときはオートポルタという国名だった。84年にブルキナファソ(「高潔な者たちの国」の意味)と国名をかえた。国土は27万平方キロメートル、人口は1100万人(1999年)だ。
 モシ民族を中心にポポ民族やフラニ民族など国民の構成は実に複雑で、牧畜民であるフルベ民族やトゥワレグ民族、また北部や西部の草原地帯ではベラ民族が行き交っている。東部や南部にはマリンケ、サモ、ゴールマンヘ、セヌフォの各民族たちも見られる。

国の中央には、かつてのモシ王国時代の栄光をうかがわせる建物があり、「地上の主権者」と呼ばれたモシ王国の皇帝、モロ・ナバ当時の古い考え方が、今尚、その地に住む農民たちに影響を及ぼしているようだった。のちに、そのモシ人の貴族階級が、サンカラたちの改革勢力に抵抗していくことになる。

ブルキナファソという国はどんな状態だったの?

 ブルキナファソはかつての宗主国フランスに何から何まで管理されていて、政府は全く無力だったし、政治腐敗がはびこっていて、国内はあっちもこっちも傷だらけという状況だった。経済的にも社会的にも混乱続きで、世界銀行の統計では調査した170ヶ国のうち国民総生産が124位、一人あたりの国民所得が第164位と、びりから数えて6番目だった。(2002年現在、ブルキナファソの国民総生産は182カ国中129位、一人あたりの国民所得は208カ国中193位)。

南部の一部の地域を除き、国土の大半が乾燥していて、耕作可能な土地は全体のわずか25%しかない。しかも、穀物の収穫量は1ヘクタールあたり540キログラム。フランスの平均が4883キロだから、比べてみるといかに少ないかが分かるだろう?
 学校に通っている子供は全体の20%。7000の村落に1300しか学校がなくてね、先生が18,000人も足りなかった。

貿易収支は、毎年赤字続き。例えば、ブルキナファソ第2の年ボボデュラッソの東側にサトウキビ畑があるが、輸入砂糖に比べると18倍もの生産費がかかっていた。ご多分に漏れずこの国も、寄生虫のような役人達に牛耳られていた。38,000人の役人が国家予算の70%を自分達の給与に当てている始末だった。毎年のお決まりで、10月になるとすっかり予算を使い果たし、10月、11月、12月の3ヶ月間はどうにもならなくなって外国の援助に頼っていた。

父さんは砂漠化の実態を見たの?

ああ、どりという街の近くでね。ドリはブルキナファソの最北部に位置するセノ県の中心都市で、広さは約三万平方キロほどだ。セノ県は九つの区域に分かれていて、住民の数はおよそ30万人。その殆どは牧畜民だ。
 ブルキナファソの中心部からドリまでは260キロほどだが、車で約6時間もかかる。道中、放棄されたテントや道端に積まれたコブウシの死骸を見かけた。あるいは焼けこけた軍のトラックが道をふさいでいるところもあった。おそらく、食料調達のトラックだろう。
時折、父さんたちの乗ったジープの前方をヒョロヒョロとした人影がフラフラと横切っていった。
 見ていると、その人達はひざまづいてシロアリの巣をほじくり返しているようだった。かれらにとって、シロアリが残された最後の食べ物なのだろうか。

 サヘル地方の民族構成は複雑この上ない。サハラの牧畜民として名高いトゥワレグ民族の他にも、フルベ民族、ベラ民族など様々な牧畜民が住んでいる。それぞれが原初的分化を保持しながら連綿と暮らしてきたのだが、彼等は今飢えのために死の脅威にさらされている。
サヘル地方の農民達は、6月の雨季の到来に合わせてミレット(和名トウジンビエ。稲科の穀物)を植える。8月、2度目の天の恵みを得てミレットは成長し、九月には収穫時期を迎える。

それがその年は六月の雨季は例年通りだったものの、8月には激しい雨に見舞われ、薄い腐植土層に作づけされたミレットの大半がやられてしまった上、九月になると今度はカラカラ天気が続き、わずかに残ったソルガム(和名モロコシ。稲科の穀物)もすっかり干からびてしまい、結局収穫はゼロという状態だった。

1984年のサヘル地方の平均降水量は200ミリ、これは最低の収穫量を確保するために必要な雨量、400ミリの半分しかなかった。地下水位が下がり、オアシスの水が急速に干上がり始め、15メートル以上掘らないと水が出なくなってしまった。
 サヘル地方では約40万頭のコブウシが飼われていたが、ゴロムゴロム(ブルキナファソ)トンブクトゥ、ガオ(マリ)などの家畜取引市場での価格が暴落してしまったために、牧畜民の中から、首都ワガドゥクにあるフランス系ホテルの裏口で物乞いをして暮らす人が出て来たのも不思議なことではなかった。

国際機関はブルキナファソに援助をしたの?
     
 したにはしたのだが、焼け石に水だった。

どうして?

ブルキナファソという国は、国際政治の関心からいうと決して話題の中心になることはないからだ。地下資源にそれほど恵まれていないため、「青空」と「岩石」と「潅木」と「ラクダ」の国(そして、「飢える人々」がそこに加わる)でしかない。おまけに改革者サンカラの掲げた政策は、全く持ってフランスとその属国の支配者達のお気に召さなかった。

次回につづく



 


今は大切?

2014-04-15 | Weblog

家の近くの公園の桜の木に花が咲きました

ブルキナファソに桜はありません

10年ぶりで遠くや近くに咲いている満開の桜を改めて観ると

雄大さに思わず圧倒され、なぜか呆然としてしまいます

と同時に先人たちもきっと桜が好きだったのかな

などと思いに耽るのです

 

一片一片の桜の花びらが

まるで優雅な踊りを舞うがごとく宙に舞っては地に落ち

やがて花びらで作られた桜色のジュウタンに

 

 

花の一片が散り行くが如く

人生も一時と過ぎて行き

そしていつかは最後の一枚が散って

もし、桜が自分ならば

どれくらいの花が残っているのかな

 

 

今がこれまでの人生の終わりであるならば

今はこれから残る人生のはじまり

そうだ

今を大切に

そして悔い無く生きることにしよう

 


Tiga NONGUERMAN

2014-04-14 | Weblog

Tiga NONGUERMANは私のもうひとつの名前です。

Tigaはモレ語で大きな木と言う意味です。

以前、コムシルガ村の酋長から頂いた名前です。

酋長いわく、あなたは物言わずただ人に尽くしている。

この村のバオバブの木は生けるものすべてに生命を与えている。

葉や幹や果実、そして木陰、しかし何一つ誇らないし恩を着せない。

貴方はまるでバオバブの様です。

 

私はこの名前を聞いた時、とても恥ずかしく思い、この様な名前を頂くことはできませんとお断りしました。

なぜなら、お金も無いし、言葉も話すことができないから、ただ黙って村の人々の仲間に入れて頂いていただけです。

 

すると酋長は微笑みながら私に言いました。

飯田さんあのバオバブの木も、もし心があればきっと貴方と同じ気持ちなのだと思います。

人の評価はただの結果なのです。

貴方はそれを求めていたのではなく、ただただ自分を生きていた、だから貴方はTigaなのですよ。

 

私はその時、いつか本当のTigaになりたいと思い、これからの人生の励みにする意味でお名前を拝命させて頂きました。

 

 


寂しい人へ

2014-04-13 | Weblog

 

いつも寂しいあなたは何故満たされないのでしょう

 

お金、もの、心

 

満たされない心は本当に自分の中から来ているのでしょうか

 

毎日仕事があり、食べるものがあり、寝るところがあり

 

 

寂しい人は、いつも何かされたいと願う人

でも、その前に人を心から思いやることができましたか

 

 

寂しい人は、いつも何か人に見せたいと思う

でも、その前に真剣に自分を見つめましたか

 

 

寂しい人は、良きことは自分のおかげ、悪きことは人のせい

でも、本当は良きことは人のおかげ、悪きことは自分のせい

 

 

あなたが大切にしているものが、他人を意識してのことだとしたら

いつか疲れ飽きてしまうでしょう

 

 

あなたが大切にしているものが自分の魂で意識してのことだとしたら

いつまでも大切にすることでしょう

 

体の不自由な人や、貧困の中に生きている人は、ものは満たされてはいませんが、心は満たされているのです

 

だから明るく生きているのです

 

あなたは、もしかしたら心が不自由で貧困なだけなのではないですか


乞うご期待!ブルキナファソ、テレビ放映3連発!

2013-08-16 | Weblog

皆々様。

永らくご無沙汰を申し上げておりまする。

親爺はこれまで10年のブルキナファソ滞在に終わりを告げ、今年日本に帰郷して次の人生を模索するに当たり、これまでのブルキナファソでの生活を今一度振り返り脳裏に焼き付ける意味で、敢えて皆様からのご厚誼にもお答えすることもございませんでした。

このたびブルキナファソのことで日本のテレビ番組から放映される予定がございますれば、是非皆様にご覧いただければと思い、ご連絡いたすところでございます。

 

先ずは、

8月23日(金曜日) テレビ東京「世界ナゼここに日本人」 午後7時54分から

 

そして、

8月25日(日曜日) NHK BS1「地球アゴラ」 午後5時00分から

 

それから、

9月1日(日曜日) テレビ東京「日曜ビッグバラエティ・仰天日本滞在記」 午後7時30分から

 

これらの番組にはブルキナファソの魅力や笑いあり、涙あり盛りだくさんの内容がございますれば是非ともご覧頂きたくお願い仕ります。


サプライズ!一足早いクリスマスプレゼント

2012-12-21 | Weblog

2012年も残りわずかとなりました。

今年も大いに飲み、食い、寝ては動き回った一年でした。

先日ここからから80キロほど離れたyakoと言う町に住むouedoraogoさんから電話がありました。

今度OUAGADOUGOUに行くときに贈り物を届けると言うことでした。

昨日朝7時、玄関をたたく音で目を覚ましドアを開けるとouedoraogoさんは大きな箱を抱え笑顔で玄関に立っていました。

朝早くの訪問なので何時に出てきたのかを聞くと5時に出てきたとの事。

今ブルキナファソは冬で早朝は16度、でもとても寒いのです。

わざわざ朝早くから大変でしたと労いながら重い大きな箱を受け取りあけてみると中にはなんと沢山の山芋。

ブルキナファソに山芋?

親爺は目を疑いながら山芋を見、そしてあまりの嬉しさに心が躍りました。

親爺は山芋のとろろが大好きなのです。

ブルキナファソは数少ない中国ではなく台湾を承認している国ですので台湾の支援事業の一環でyakoで山芋の栽培を初めて以来、もう10年になるそうです。

親爺はouedoraogoさんを丁重にもてなし、お帰りいただくとそそくさと台所へ。

先ず大きな山芋を取り出して、皮をむき、下ろし金で擂り、卵をかけ、ハイ出来上がり。

さて、朝食を頂くとするか。

熱いご飯、いんげんの醤油煮、ポテトサラダ、そして主役は山芋とろろ。

山芋とろろに醤油をかけて、ご飯にかけて、と。

「ズルズルズル~、美味~い!故郷が恋しい~」

ouedoraogoさんの一足早いクリスマスプレゼントの温かい心に触れ、これで今年の締めくくりが出来たと深くうなずく親爺でした。

 


ぶるきな親爺の里帰り

2012-09-09 | Weblog

三ヶ月ほど前、五月といえばここブルキナファソは年間で一番気温が上がる季節でございます。

45度の猛暑との戦いに明け、日暮れには角にある焼き豚家で冷た~いビールを息もつかず2本飲み干すのが、この季節を楽しく乗り切るコツと過去からの体験により学習されたものでございます。

この焼き豚なのでございますが、さっきまでその辺を歩いていた豚が、あっという間に部位も解らぬほどに見るも無残な姿に身も骨も切り刻まれてから、約2時間後にはこれが見違えるような美味しそうな姿に変化するのでございます。

親爺は皮付きの塩豚焼肉がとても好きでしてブルキナベももちろん大勢の人が屋台の側に群がり我先にと肉の争奪戦が起こります。

しかし、ブルキナベは何故か解りませんが肉の部位は知らないらしく私が残りを見ると、そこには一番美味しいバラ肉が残っているのでございます。(薄笑い)

と同時に、不図何故か日本人で良かった~、というおかしな優越感に浸るのでございます。

そのような日々を送っておりましたとき、ひとつのメールが届きました。

内容は某大学医学部学会での講演の依頼でした。何かの間違いであろうと親爺は目を疑いながら何度か読み直しては思慮対策を講じ、恐れながらと確認を賜るべく返事を送りましたところ、どうも本当らしいのです。

さてどうしたものか。

どのようなお話をすれば良いのであろうか。

まさか焼き豚の話をしても・・・・・。

月日の過ぎるのは早いものでございまして、毎日考えに明け暮れて現在日本に帰国する10日前なのでございます。

親爺は元来、楽天的性格なのでありましょうか、これまでブルキナファソで暮らしてきた約10年、50歳からの我がままでこの国に足を下ろしてはみたものの、初めは言葉もぜんぜん解らず毎日のコミュニケーションにも事欠き食事も合わず外にも出ず、ある意味の引きこもりになっていたころが今では懐かしく思い出されます。

学会の講演では私がブルキナファソの暮らしの中で実際に経験してきたことを皆様にお話できればと思っております。

日本も現在、東日本大震災、経済、政治とさまざまな問題を抱えておりますが、やがて復興や修復は出来るでしょう。しかしブルキナファソのような途上国は政治基盤や経済基盤がまだまだ脆弱なため、もし日本と同じようなことがあったとすれば直ぐにでも国が滅亡してしまうかもしれません。

それが解ってるのかどうかは計り知れませんが、貧困にもめげず毎日陽気に不平不満を言わず、健気に生きているブルキナベの姿に、何故かひたすら尊敬の念を抱くのでございます。

ともあれ、今回のようなことは一生に一度しかないと思いますので久日ぶりの日本を精一杯満喫して来ようと思っておりまする。


尊い命、尊い人生

2012-07-16 | Weblog

親爺は時々日本が恋しくなりインターネットなる物で政治、経済、スポーツ、教育、生活、文化などを見ては一喜一憂をしておりまする。

遠く日本から離れアフリカで暮らしておりますと、自分はやはり日本人なのだ、と思うことが度々ありまして、そのような時に生まれ育った日本スピリットが体に沁みこんでいるのだなぁ、と思うことが再認識されるのであります。

最近、親爺が心を痛めておりますことを申しますと、日本人の気質に付いてでございます。何処の国にも善悪、喜怒哀楽はございますが、日本人といえば、良いにつけ悪いにつけ、感情を表さない無表現、無表情、無感動、上辺だけの友愛といった人たちが多く、その半面心の中では煮え返るような感情を蓄え、それを押し殺しては、いつも心の引き出しに仕舞い込み平静を装うことが日本人の美徳と思っていることにございます。

そこから生じるのが正義に向けての思考であればよいのですが、恐ろしいことは時折陰険な思考と化し、事無かれ主義、仲間と組んで人を陥れる、責任なき評論言論、意地を張り続ける、責任転換というような誠に身勝手な思考へと発展して取り返しのつかないことになってしまうことでございます。

先進国日本は、様々なることに於いて目的目標の無い、負のスパイラルに陥っているがごとく光明が見出せない状態なのでそのような事が特に目立つのでははないかと思うのであります。

その昔、社会的な規範が乏しかった日本は孔子の儒教からも多大な影響を受けました。

仁 (誰それと隔たりなくいつくしむ心)
義 (義理人情を尽くす心)
礼 (礼儀を重んじ感謝する心)
智 (善悪を見分ける心)
信 (信じる心)

日本へ儒教が伝わったのは500年頃ですから538年に仏教が伝来する以前に、もう伝えられていたのです。

加えまして、まことに恐縮ではございますが、親爺が付け加えたい言葉は

陽 (陽気で明るい心)

助 (助け合う心)

融 (打ち解け合う心)

素 (飾りの無い素直な心)

穏 (穏やかな心) 

 

皆様、如何でございましょう。

親爺がこんなことを言うのも誠におこがましいのではございまするが、一人一人の尊い命、尊い人生、私たち先祖の故郷日本のためにも今一度心の原点に戻り、そして実践し、目的を持ち世界の日本人となれるよう精進して参ろうではありませぬか。