親爺は時々日本が恋しくなりインターネットなる物で政治、経済、スポーツ、教育、生活、文化などを見ては一喜一憂をしておりまする。
遠く日本から離れアフリカで暮らしておりますと、自分はやはり日本人なのだ、と思うことが度々ありまして、そのような時に生まれ育った日本スピリットが体に沁みこんでいるのだなぁ、と思うことが再認識されるのであります。
最近、親爺が心を痛めておりますことを申しますと、日本人の気質に付いてでございます。何処の国にも善悪、喜怒哀楽はございますが、日本人といえば、良いにつけ悪いにつけ、感情を表さない無表現、無表情、無感動、上辺だけの友愛といった人たちが多く、その半面心の中では煮え返るような感情を蓄え、それを押し殺しては、いつも心の引き出しに仕舞い込み平静を装うことが日本人の美徳と思っていることにございます。
そこから生じるのが正義に向けての思考であればよいのですが、恐ろしいことは時折陰険な思考と化し、事無かれ主義、仲間と組んで人を陥れる、責任なき評論言論、意地を張り続ける、責任転換というような誠に身勝手な思考へと発展して取り返しのつかないことになってしまうことでございます。
先進国日本は、様々なることに於いて目的目標の無い、負のスパイラルに陥っているがごとく光明が見出せない状態なのでそのような事が特に目立つのでははないかと思うのであります。
その昔、社会的な規範が乏しかった日本は孔子の儒教からも多大な影響を受けました。
仁 (誰それと隔たりなくいつくしむ心)
義 (義理人情を尽くす心)
礼 (礼儀を重んじ感謝する心)
智 (善悪を見分ける心)
信 (信じる心)
日本へ儒教が伝わったのは500年頃ですから538年に仏教が伝来する以前に、もう伝えられていたのです。
加えまして、まことに恐縮ではございますが、親爺が付け加えたい言葉は
陽 (陽気で明るい心)
助 (助け合う心)
融 (打ち解け合う心)
素 (飾りの無い素直な心)
穏 (穏やかな心)
皆様、如何でございましょう。
親爺がこんなことを言うのも誠におこがましいのではございまするが、一人一人の尊い命、尊い人生、私たち先祖の故郷日本のためにも今一度心の原点に戻り、そして実践し、目的を持ち世界の日本人となれるよう精進して参ろうではありませぬか。