西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

明けまして!中年派遣員奮闘記(その11)

2015-12-31 | 奮闘記

NO.11[食べ物飲み物]

マルシェ(市場)に行くと色々な物があります。

果物は日本でもお馴染みのリンゴ、オレンジ、バナナ、パイナップル、スイカ、マンゴ、パパイヤなど、野菜はピーナッツ、トマト、キャベツ、なす、瓜、ジャガ芋、サツマ芋、とうもろこし、ピーマン、セロリなど日本のスーパーで売っているものも多くありますが、日本でお目にかかれない物もあります。イーヤムと言う巨大な芋で3~5キロくらいの重さがあり、細かく切ってゆでて鳥などのソースで味をつけて食べ、感触は里芋のような感じです。

ポムカネルという果物は薄緑の色で表面はいぼいぼの形をしていて果肉は少なく大きめの種が沢山あり口に含むととても甘く独特の香りがあります。

穀類はタイ米や中国の香米、国内産の粟など。魚は内陸なので少なくフナやナマズなどの淡水魚と輸入されたアジやサンマなどで殆どが日干しの物です。肉類は鶏、ホロホロ鳥、ウサギ、ヤギ、牛などあり、冷凍された物はなく鶏やウサギは生きている物をその場でして売っています。

また肉売り場に行くと、牛の頭や足がそのまま置いてあったり、とても新鮮ですが日本では見慣れない光景なので、はじめはショックを受けます。

こちらの飲み物で特に特徴のあるものはチャパロと言う飲み物です。チャパロはドローとも呼ばれ粟の実が原料でこれを発酵させたもので色は琥珀色でビールのように細かい泡が出来ます。

粟の実は赤い実と白い実と2種類あり、大きめの赤い実はチャパロ、小さめの白い実はトーなどに使われ、飲み口はまろやかで独特の香りがします。

味はビールのような苦味はなく炭酸水を飲む時の様な少しピリッとした刺激があり、アルコール度数はビールより少し高いようでビールのような感覚で飲むと後でかなり酔いが廻ってしまいます。

このトラディッショナルビールはどこの家でも作っている自家製ビールでカリバスと言うヒョウタンの様な硬い実の殻で飲みます。

小さめの粟はトーと言う食べ物を作るときに使われ、トーには粟(milet)で作る物と、とうもろこし(mais)で作る物の2種類あり,いずれのトーも粉にした物を使います。

作り方はまず粉を水で溶き、水を入れた鍋を火にかけて煮え立ったら水で溶いたものを加えてかき回し、少し固まってきたら別の容器に半分ほど移し残りの半分にまた粉を足し少し固めものを作り、そこに先ほど移した物を徐々に加えながら練って行き、その後とんかつ位の大きさに分けながら移し換えて熱をさまします。

そして鶏または牛肉などのソースと一緒に食べます。ソースにはスンバラと言って日本の干し納豆に良く似たものがありそれを砕いて入れると更に美味しくなります。

そのほか飲み物食べ物は、セネガル料理、ガーナ料理、コートディボアール料理などとても紹介しきれないほど沢山の物がありますが、ここでは特に珍しい物を紹介しました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その10)

2015-12-31 | 奮闘記

NO.10[ブルキナファソのお茶の会]

ワガドゥグの人たちはとてもお茶が好きで、何人か集まるとお茶を作りみんなで世間話をしながらお茶を飲んでいます。

お茶は中国の緑茶で5センチほどの深緑色のパッケージに入っていて葉は日本の物より黒い色をしています、作り方を言いますと、

①    まず10センチほどの火鉢に炭を入れて火をおこします、

②    直径10センチほどのやかんに水を入れ沸騰したらお茶の葉を大さじ2杯ほど入れ7~8分煮出します、

③    それから大き目のコップにやかんのお茶を全部注ぎます、

④    またお茶の葉が入ったままのやかんに再び戻し火にかけて7~8分煮出します、

⑤    これを2~3回繰り返します、

⑥    その後大きめのコップに砂糖を大さじ2杯くらいの砂糖を入れ再びやかんのお茶を注ぎます、

⑦    そしてコップの砂糖が完全にお茶に溶け込んだらまたお茶ガラの入ったやかんにまたもどします、そして2~3分火にかけます、

⑧    これをまた2~3回繰り返します、このときにはなるべく高い位置からお茶をコップに注ぎ泡をたてます、こちらでこの泡のことをムースと言います、

⑨    ウィスキーをストレートで飲む時に使う小さなショットグラスを5個ほど用意します、

⑩    まず大きなコップに高い位置から注いだときに出来るムースをグラスに取り分けます、

⑪    ムースを取ったらやかんにもどしグラスに注いで出来上がりです。

グラスに注がれたお茶は黒黄色ですが緑茶の香りで、ひとくち口に含むと日本のお茶のような苦味や渋みはなく濃厚なお茶の味と砂糖の甘味が程よくマッチしていてとても美味しく紅茶やウーロン茶などと比べても異質の美味しさです。

緑茶のエスプレッソとでも言えるでしょうか、またお茶の作り方の上手な人と下手な人がいて上手な人ほど高い位置からコップに注げるので泡が細かくマイルドに仕上がるようです。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その9)

2015-12-30 | 奮闘記

NO.9[ワガドゥグ探訪]

調べによるとBURKINA・FASOの人口は1260万人(2000年推計)で,首都OUAGADOUGOUは人口約70万人、地図を見ると国のほぼ中央に位置し放射状に各地を結ぶ幹線道路が伸び、市内は空港を中心に近くには大統領官邸や国家機関があり、その地域に隣接して銀行やホテル、駅などが在り、駅は2002年からコートディボアールが紛争で国境を封鎖しているので現在は不通になっていて閉鎖中です。(2015年現在は正常化開通)

都市化しているのは市の30パーセント程度で道路は幹線道路を除き殆どがラテライト道路、上下水道はもちろん公共施設の整備はまだこれからという所です。市内の道路はほぼ直線で碁盤の目のようになっており幅30㍍位の歩道つき道路と8㍍位の道路、それを結ぶ4㍍くらいの路地があり、舗装されていない道は側溝が無いので生活雑廃水が道路に流れ汚臭を感じます。

またラテライトは紅土といって熱帯地方に多く見られる土で、鉄やアルミニュウムなどの酸化物が多く含まれ作物の栽培には不向きです、砂状粒子がとても細かく精密機器などの中に入り込んでトラブルの原因の1つとなり、現に自動車はオートマティック変速機の物はなくマニュアル変速機が殆どで、一日外にいて白いタオルで顔を拭くとタオルがオレンジ色になります。

舗装道路には自転車、バイク、自動車が混在して走っていますが特にバイクに乗っている人が多い上に、こちらの国はバイクの免許が無くても乗れるので交通ルールを知らない人も多く、自動車に乗っていると衝突しそうなのでとても危険を感じます。

 市内の繁華街はグランマルシェと言ってとても大きな市場がありましたが2年ほど前に火災に見舞われ今は閉鎖されたままで再開まではもう2年ほどかかる見込みです。(2015年現在は開業)

しかしその周りには沢山の店があって、買い物客で賑わい活気があり、歩いていると生活用品や衣服などの店が特に目に付きます。また、歩きながら品物を売っている人も多くいて、それぞれ時計や電気製品、衣服、薬、食べ物、野菜、靴磨きその他いろいろな物を手に持ち、また頭の上に載せて道を歩いている人に見せながら品物を勧めて歩きます。

私の場合日本人なので目立つせいか何処へ行っても品物を勧められ、品物の値段は日本人などの場合は割りと高い場合が多く言われた値段の半額くらいから交渉すると安く購入出来ます。

また民芸品の店も数多くあり、布や木彫、金属の鋳造品、アクセサリー、楽器などの品物を売り、十数軒の店が固まって観光客などが前を通ると店の人が声をかけて来ます。中でも金属の鋳造品は一つ一つ手作りで同じ物はなく、黄銅製なのでとても美しい物です。

 それからワガドゥグの人々は映画が好きで市内には映画館が多くあります。2年に一度FESPACO国際映画祭が行われ世界各国の映画が上映され、開催期間中は職場や学校が半日で終わり沢山の人たちが着飾って映画を見に行きます。

残念ながら日本の映画は殆ど知られてなくジャッキーチェンやブルースリー、ジェットリ-などカンフー映画は好きな人が多いようで彼らはとても有名です。またテレビ放送も盛んでrtbやTNB、SMTB、CANEL3その他衛星放送ではヨーロッパの番組も見ることが出来、日本のアニメ「キャッツアイ」が放映されていてとても人気があります。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その8)

2015-12-29 | 奮闘記

NO.8[現地STAFF]

荷物も無事到着し、日本の本部より持って行くように依頼されたプリンターも壊れている様子もなく、やっとこれで一安心、夜は現地スタッフの顔合わせ並びにミーティングです。

午後7時頃でしょうかタプソバさん夫妻が訪れました。タプソバさんは自営で看板製作をする仕事の傍ら村などへ行くときはドライバーとして、またN夫人には色々な細かいサポート面でお手伝い頂いております。

タプソバさんは一見クールな印象ですが話をするととても明るく賢明で責任感のある人です。そしてN夫人は以前派遣員としてブルキナファソにおいでになり、フランス語、英語、共に堪能でアフリカは勿論オーストラリアやイギリスなど在留経験があり文字通り国際派の女性です。

縁あってタプソバさんと結婚され、お二人にはEちゃんという生後10ヶ月程の女の子がおります。この子がとても可愛くて何とも言えない愛らしい笑みをこぼします。

Sさんが「Eちゃん、こっちへおいで。」と手を差し出すと、ちょうど人見知りの頃なのか見る見るうちに眉が険しくなりSさんの顔を凝視すると、「おいおい、そんなに睨むなよー。」N夫人が「女の人には特にだめなの。」と言うとSさんが「HAHAHAそれは良い事だぞー。」などと話をしているうちにDr.イブが到着しました。

身長190センチ位でSさんより大柄な巨体で、ワガドゥグ大学で教壇に立つ傍らスタッフとしてお手伝い頂いております。とても早口でユーモアがあり、強めのパルファムの香りがインテリジェンス且つジェントリィーなイメージを演出しております。

そして最後に現れしはDr.ディアノウ、氏は国の土壌の研究所に勤務される傍らスタッフとして活動をサポートして頂いております。少し小柄ですが渋い面持ちで落ち着きがあり、眼鏡をかけた顔を少し斜に構え俯き気味に眼光鋭く話をする様子は、いかにも百戦錬磨の智将を思わせる雰囲気があります。

と言う事で役者もそろい近くの「CAFEINN」にて食事をする事になりました。

向かい側に鳥や兎や魚料理のテイクアウトの店があり大勢の人がそれを求めに集まっております。私たちの今夜のメニューはどうやら鳥と魚料理のようで、2~30分すると料理が出来上がりテーブルの上がとても賑やかで、良く見ると鶏肉のグリルをさらに玉ネギ、トマトの入ったブイヨンベースのソースを加えソテーしたものと、カプテンという50㎝ほどの大きな淡水魚を同様のソースで煮たものに生野菜が乗っていて食欲をそそるとても良い香りです。

まずは鶏から食してみると肉は歯ごたえがあり日本の地鶏の様で、噛んでいるとジワジワッと鶏の旨みとソースそして野菜の甘さが絡み合い見事なハーモニーを醸し出します。また魚の味は淡白で白身の肉質で癖がなく、適度の油があり軟らかいので口の中で噛まずともトロッと蕩ける様な食感です。

これをビールで喉に一気に流し込むと、これらの味をビールの麦汁と泡がいっそう引きたて味は更に倍加します。ここでまた新たな発見をしました。まずビールですが日本ですと栓は既に取って持ってきますが、こちらでは栓は抜かずテーブルの上で抜きます。

そして自分のコップに注ぐとまた栓を上にかぶせます。何でそんな事をするのか不思議に思いましたが、こちらは蝿が多いので蓋をしないとビンの中に入ってしまうのです。また食べるときはスプーンやフォークは使わず普通は手で食べ、これがなかなか技術を伴い口に入れる時に慣れないとこぼれてしまいます。

日本でもみんなで鍋を囲んで突っつきますが、そんな雰囲気で初対面でも料理が取り持つ縁とでも言いましょうか、なんとなく親近感が増してきます。おいしい料理に舌鼓を打ちながら会話も進み和やかなうちにミーティングも終了し、皆さん満足げに帰路に向かわれました。


次回をお楽しみに・・・・


掛け替えの無いもの

2015-12-29 | 生き方

掛け替えの無いものを亡くした時

なぜか涙が出る

掛け替えの無いものって?

いつも心に希望を与えてくれていたもの?

あらゆる人々が掛け替えの無いものを持っている

 

人もいろいろの生き方があり

死に方もある

 

人の行いは数多くあるけれど

環境次第で行いの状況は変わる

 

爆弾を腹に巻いて散る人生

巻く人も巻かれる人も掛け替えの無いものを持っているはず

銃弾によって散らされる人生

暴力によって散らされる人生

それをする人にもされる人にも

自ら散る人生にも

 

あなたにも掛け替えの無いものがあるはず

些細でもあることを確信しよう

 

今日もどこかで涙を流す人がいると思うと心が痛む

 

憎しみや苦しみそして悲しみの涙ではなく

世界を潤す希望の涙となってほしい


中年派遣員奮闘記(その7)

2015-12-28 | 奮闘記

NO.7[キングオフキングス]

Sさんがインターネットカフェでの報告を終えて、前のテラスにて4人位で話をしておりますと斜め前の路地から一人の男が現れました。

足がちょっと不自由なのか、上半身を左右に揺らし何やら大きな声で叫びながら近づいてきます。彼はラスタ風の短めのドレッドヘアで痩せていて大きめの口からは歯が何本か抜けているのが見受けられます。

「カカーオー!、キングオフキングス!!」とちょっとかすれた声でSさんと恒例の挨拶である握手指パッチンを2回3回と繰り返しております。

そのうちSさんが顔をしかめながら「イテテ!コイツの握手はいつも痛くてー!、コイツは酒が好きで酔っ払うと何時もうるさいンですよ。」と言うとまた大声で「カッカオー! ビックビックラスター! キングオフキングス! WAHAHAHA!!」とより大きな口で大笑いしながらSさんに握手指パッチンを繰り返し、その度にSさんの表情がゆがみます。

彼の名前は「ワゾタ」ブルキナファソでも指折りの太鼓(ジェンベ)のプレイヤーで良くコンサートにも出ているようです。手の平を見せてもらうと殆ど全部が硬い靴底の様な状態で硬くなっていて、この手でジェンベのように叩かれたらかなりの衝撃かと思われます。

現地語のモレ語で何を言っているのかは解りませんが殆ど一人で語り続け、時々ラミンが涙を流しながら笑うので、それを見てこちらも可笑しくなり笑ってしまいます。

「ワゾタは太ったお尻の大き~い女性が好きなんだ。」と言うと、ちょっと恥ずかしそうな仕草で「NO~~~」とニヤニヤと笑みを浮かべ、なんとなく憎めない人柄で皆の人気者のようです。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その6)

2015-12-27 | 奮闘記

NO.6[ぺティデジュネ・朝食]

ワガドゥグの朝は清清しく、ここの人たちは皆早起きで6時頃は通りのバイクの音や、近くの家からラジオ放送が聞こえています、暫くの間まだ昨日までの疲れが残っているせいか微睡でいました。

眠さが心地よく感じられ薄目を開けて横を見ると昨夜の激戦の跡の蚊が壁に2匹ほど血にまみれて張り付いております。

「6箇所も刺しやがってこれでマラリアになったら最悪だぞ~。」などと寝惚け声でつぶやきながら部屋を出ると、Sさんも丁度起きて来て「おはようございます、昨日はお疲れだったでしょう。昨日は眠れましたか?」という爽やかな問いかけに思わず「おはようございます。はい良く眠れました。」と答えてしまいました。

少ししてSさんから今日の日程を聞き、何か朝食をという事で外に出ました。朝の通りは昨日の夜と風景が変わり皆活動的で、なんとなくアフリカの人達の活気が感じられ、通りを歩いて行くと道端にある屋台風の椅子に人が何人か座っています。

Sさんがそこでサンドイッチでも食べますか、と言うので早速その椅子へ腰を卸しテーブルを見ると、沢山の蝿が群がっているではありませんか。いくら追い払っても蝿の一匹一匹がそこにいるのが当然の様に馴れなれしい有様で、周りの人達もあまり気にしていない様。

日本でもそうですが屋台と言うのは一般庶民が気軽に利用出来るというのが良いところ、Sさんが「カフェオレ飲んで見ますか、ちょっと日本では味わえないですよ。」という事でSさんにお願いして頼んで頂きました。

まずカップが置かれ、コーヒーカップでは無くアルミニュウム製の給食のカップに似た形の器に練乳を並々と入れ、そこにネスカフェを小さじでサラッと入れ、そして熱いお湯を注ぎカップの上に蝿よけの皿をかぶせて出来上がり。口に含むとコーヒーの味より練乳の方の甘さと香りが先に来てホットコーヒー牛乳の様です。

次はサンドイッチで、屋台のおっさんが長いフランスパンを片手に持って器用にナイフで縦に切り込みを入れ、細切にした玉ねぎと卵を混ぜフライパンに載せてマギースープの粉末を少々加え炒めてパンに挟むと、これが結構美味いのです。

蝿もこの甘いカフェオレが大好きと見えて蓋代わりの皿をとって飲もうとすると空かさず飛んで来ます。そのうち蝿と人間のカフェオレ争奪戦の様相になって来て敵は大群、こちらは二人。最初は追い払ってハエが逃げる時にカフェオレを飲むという頭脳プレイで交わしていましたが、蝿も学習能力があるのか戻って来る速度がだんだん速くなっているように感じたのは気のせいでしょうか。

朝食も済み、昨日行ったホテルの側の所でSさんはインターネットカフェで本部との交信、私は昨日知り合ったラミンと片言の英語でボディーラングウェッジを交えながらコミュニケーションを図っておりました。

ブルキナファソでも多くの日本製の車やバイクがたくさん走っていてカメラ、パソコンなどの日本製品の話をしているうちにラミンの人柄がだんだん解って来ました。彼は自尊心が強く日本に興味を持ち、ほかの物売りの人とはちょっと違う個性を持っていて、「昨日の荷物の事は心配ない。また俺が一緒に空港へ行ってあげるよ。今日の飛行機で必ず来るから大丈夫安心しなさい。」などと話をしていると、ふと日本にいる時にブルキナファソの人は穏やかだと聞いていた事が思い出されます。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その5)

2015-12-26 | 奮闘記

NO.5[駐在事務所]

空港から乗り合いタクシーで10分位行った所にサマンデンと言う地区があります。市内の中心は狭い所に沢山の住居や店が雑居し、この辺りは住宅も庭があり商店街があって閑静な住宅街(日本とはちょっと違いますが)、Sさん曰く「ワガドゥグの杉並区」という事で、その一角に事務所兼住宅が在ります。

薄いオレンジ色のコンクリートフェンスに囲まれ鉄の扉がいかにも堅固に中の建物を包み、その扉を押すとギギギギーと鉄とコンクリートの擦れる不協和音を奏でます。もしかしてチャイムも兼ねているのでしょうか。

向かって右が城主ムッシュ・バルコマのメゾン、そして左側が私達の住居で、着いた時が夜でしたのであたりは暗く、そして古めかしい建物があり、その時の心境はディズニー、いや浅草花屋敷の恐怖の館にでも入るかの様にドキドキワクワクしながら事務所の扉に近づくと壁の上で何か動いております。壁面をチョロチョロと、恐る恐る凝視して見ると何とトカゲとヤモリではありませんか!

私はこのタイプが非常に苦手で一瞬後ずさりしましたが、アフリカの環境に順応しているSさんは何事も無いかの様に扉の鍵を開けています。周りを注意しながら部屋に入ると薄暗い電球に浮かぶ白い壁の部屋、そして中央には白いプラスチック製の丸テーブルに同様の椅子、奥にはご当地風のごつい応接椅子があり、天井にはヤモリが1匹。

ここではごく普通の事も初めて経験する世界は何事も刺激的に感じられます。「この部屋をお使いください。」とSさんに促され部屋に入ると8畳間位の広さで目も慣れて来たせいか、思っていたよりは良い感じです。

居間兼オフィスで少し寛いだ後、食事をして無かったので近くのレストランで食事をする事にしました。「CAFEINN」と言って道路沿いのアフリカ風カフェテラスの店は、大きい交差点の近くで夜も人や乗り物が行き交いとても賑やかで、FLAGというビールを頼みSさんに注ごうとすると「ブルキナでは自分の飲み物は自分で注ぎます。知っておいた方が良いですよ。」と言われ、周りを見ると皆その様でした。

ここでまた日本との習慣の違いを実感し、疲れもあり気温も高いせいか1本のビールがとても強く飲み終える頃は、かなり酔いが廻り目も半開き状態になり、千鳥足で事務所に引き上げました。

さて、そこからまた一難去ってまた一難、荷物が届かなかったのでシャワーをするにもタオルは無いし着替えも無く2日前のまま、タオルはSさんに借りてとりあえず2日分の垢を落としベッドに転がり込みました。ところが暑苦しくなかなか寝付けず、ウトウトしていると足のほうが痒くなって耳元でプーンという小さな音が聞こえます。

ブルキナファソはハマダラ蚊によるマラリア感染が多いし、Sさんも以前罹ったと聞いていたので、これは一大事と電気を点け蚊の捜索と駆除に執りかかり4~5匹は撃退したでしょうか。敵もさる者で電気を点けるといなくなり消すと現れ、蚊との攻防を繰り返すうちに寝てしまったらしく、いつの間にか朝になっていました。

アフリカ・ブルキナファソの一日は暑く、そして私にとってとても過酷で、これまで日本の生活にどっぷりと浸りきっていた私は、これから3年間生活をすると思うととても気が重くなってきます。と同時に大変な所に来てしまったなと思ったのは正直な心境かも知れません。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その4)

2015-12-22 | 奮闘記

NO.4[はじめて観る首都ワガドゥグ]

どこの街にもその街の匂いがあるもので、北京へ行ったときは中華料理の香辛料の香り、ハワイは潮風とサンオイル、ロスアンジェルスはアスファルトとGRASSの香り、とそれぞれに特色があるものです。

それではワガドゥグの香りは、と目を瞑り胸いっぱいに何回か深呼吸してみると1回目は自動車やバイクの排気ガスの香り、2回目は汚水の香り、3回目は近くにいたお兄さんの汗とワキガの香りでした。

Sさんに空港での事情を説明すると空港の近くのホテル・イビという側に民芸品やインターネットカフェなどの在る賑やかな所があります。

そこには何人かの人達がいて皆道路を挟み、向かいのホテルの方を向いて団欒している様で、風体はラスタマン風の人、本や雑誌を抱えている人、新聞の一点をじっと見詰めている人、長い髭のイスラム風の人、だんだん近くになるに連れその人達がこっちを見ております。

ウワー前を通るのはいやだなーと思い、なるべく視線を避けてやり過ごそうとSさんの体に身を潜めるように歩いて行くと、何とSさんは加速しながらそちらに方に近づいて行くではありませんか。

側に行くと皆ニコニコ「カカオー、カカオー」と言って握手指パッチンをしております。

この国の言葉で「カカオー」が挨拶と思い「カカオ~」と小さく震える声で握手をすると笑顔で「アンシャンテ、コマサヴァ、ボンナリヴェ!」と、とても気持ちよく迎えてくれました。

どうやらみんなSさんの友達だったみたいで、後でよく考えてみると挨拶と思っていた「カカオー」はSさんの名前「タカオ」だと判明しました。中でもちょっと小柄でフランクな感じの人で名前はラミン。

Sさんが何やら英語で話をすると、もう一度確認に空港へ行って見て下さい、という事でラミンと二人して空港に向かいました。空港までは1キロ位でしたが、クタクタに疲れ果てた私にとってはとても辛い道程です。

ところがラミンはとても歩くのが早く、無言で歩く私に気を使ってか「俺は何キロ歩いても疲れないよ」、とか「ここからマラソンするか」とか気の遠くなるような言葉を投げかけてきます。地元の利を生かし細い裏道をスイスイとすり抜けていくラミンの後を汚水の小川を避けながら、もつれる足を最大限に動かして必死で追いかけました。

再び空港へ戻り職員の説明を聞き明日の飛行機で着くとの事でひと安心、また地獄の道程をどうにか引き返して来たのが午後7時ごろでした。

それからSさんと共に駐在事務所に乗り合いタクシーに乗り行く事になり、このタクシーがまたまた凄く古い型のベンツが多くて色は薄緑、艶は無くガラスはひび割れ、まるでシーラカンスのような容姿です。ディーゼルエンジンなので真っ黒い煙を出してガラガラと勇ましい機械音を立てて走ります。

日本のタクシーは普通メーター料金ですが、ブルキナ の乗り合いタクシーはルート内であれば200フランセファー(4〇円)で、電車やバスが無いのでこの乗り合いタクシーが市民の足となり大活躍していて、乗車定員が無く何人乗っても大丈夫で多い時には7人も乗ります。

まあ日本の電車の通勤ラッシュも同じようなものかもしれません。

と言うことで幾多の難関を乗り越えて無事に駐在事務所に到着出来たわけです。



次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その3)

2015-12-20 | 奮闘記

NO.3[ロビーでの出来事]

午後の3時ブルキナの暑さは日本とは異質です。日本に比べ湿度が無いせいか、とにかく太陽光線が暑く日陰に行くととても涼しい。早く外に出て現地オフィスのSさんと会わなければ、と逸る気持ちを抑えながら荷物の受け渡しを待っていました。Sさんは日本人で私と業務を引き継ぐまで滞在されている方です。

ところが待てども一向に荷物が出てきません。やがて到着の時の賑わいも無くなりとうとう機械も止まってしまいました。頭の中はパニック状態、呆然としていると荷物係りの人なのか、何かこちらに向かって話しかけているので「私の荷物がない」と言うと事務所に連れて行ってくれ、そこにはベージュ色の税関の制服を着た大柄の人で金縁の眼鏡をかけ、髭面でプロレスラー・ブッチャーの様な強面の人が座っておりこちらを見ております。

そこでまた恐る恐る消え入りそうな、か細い声で「私の荷物がない」と言うと以外に優しく荷物のチケット見てパソコンで調べてくれた結果、シャルル・ドゴール空港にあることがわかりました。どうやら成田でワガドゥグ迄と言わなくてはいけなかったようです。

明日取りに来てくれと言われ、仕方なくすごすごとゲートを出ながら、Sさんがさぞかし心配しているだろうと思い周りを見ると、Sさんらしき姿は見受けられません、きっと待ちくたびれて帰ってしまったのか、それともあたりを探し回っているのか、などと最悪の事態を考えながら30分くらいじっと待っていると、ふと事務所の電話番号のメモがあったのを思い出し電話ボックスを探しましたが、それらしき物はありません。

なにやら電話の絵が描いてある小屋を覗いて見ると、幾つかの小さな部屋があり電話らしき物があります。その時ふと脳裏に、きっとここはブルキナファソの如何わしい出会い系のダイヤルの電話小屋なのかと思い、小屋の中にいた女の人に片言の英語で聞くと解からないようすで、仕方なく汗だくで身振り手振りで説明をするとムッとした顔で電話のほうを指差しています。

部屋に入ると電話は普通のものでお金を入れるところは無く、とりあえず勇気を振り絞って「お願いだから電話に出てくれー!」と念じながらダイヤルすると「アロー」とSさんらしき声、「今着きました~!」というと「あれ、もう着いたのですか?」と気軽の口調でおっしゃる。「今行きますから待っていて下さい。」

アア~!良かった~!と気の遠くなるような安心感を覚え外へ出ると、 険悪顔で電話屋の娘が目を吊り上げて追い駆けて来て「モネー!モネー!」うっかり電話代を払うのを忘れていました。

それからSさんが来るまでの40分の時間が不安感からか何倍にも感じられました。何しろ初めて見る世界で右も左もわからず、猛暑の中タクシーの運転手は集まってくるワ、物売りは寄って来るワ、まるで小鹿?に群がるハイエナのごとく・・・。

日本から来るとあまりにも景色が違うので、はじめは戸惑ってしまいます。Sさんの姿が見えたときは遭難者が救助隊に発見されたかのような思いでSさんの大柄な姿がより雄雄しく見えました。Sさんに聞くと、どうやら飛行機はいつも夜8時ごろ着くようで、まさか早い時間に着くとは思ってなかったようです。ブルキナファソまでどうにか一人で来られたという満足感と安堵感は、これまでの道中で何物にも例え様のないものでした。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その2)

2015-12-19 | 奮闘記

NO.2[ブルキナに着陸]

シャルル・ドゴール空港からの機中で、日本人の女性の方に出会いました、彼女は国際協力機構のボランティアでブルキナファソに2年間活動をしていたそうで、私もこれからの事に不安がありましたので色々とブルキナの事を聞きながらふと外を見ると、眼下に白い海が遥か遠方まで広がっています。

彼女に「やはり南国の海はきれいですねー」、といったら困惑顔で微笑みながら、「それサハラ砂漠です」日本の海岸しか見た事のない私にとって、こんなに広いものとは、私の頭脳は理解できなかったようです。

機中約5時間後、眼下にワガドゥグの市内が見えて来て、これまでの苦悩?は吹き飛んで体に気力が満ちて来ました。草原の中に集落が点在し中心部はとても簡素で東京や、パリのように大きな建物はなく平面的な様子です。

ここでこれから三年間にどの様な出来事があるのか、この国の人達は私を受け入れてくれるだろうか、などとこれからのことを思うと複雑な心境になり、それまであまり外国に行ったことがない私にとって月に軟着陸でもするかの思いです。飛行機は旋回しながら徐々に高度を下げ着陸態勢に入り、まもなくワガドゥグ空港に滑り込みました。

ブルキナファソでの第一歩、タラップを降りたとき「私にとっては小さな一歩だがブルキナファソにとっては大きな一歩です。」(大小逆ですが)などと独り言をつぶやきながら、疲れが出たのか脚がもつれ、やっとの思いでロビーに辿り着きました。

 

次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その1)

2015-12-18 | 生き方

NO.1[まだ見ぬ国を目指して、道中の出来事]

 成田よりモスクワ、フランス経由でブルキナファソの首都ワガドゥグ空港に着くまで2日要します。成田を出て約4時間、シベリヤを越えている時、隣には三十歳代のロシア人の美しい女性が座っていました。

それまではロシア語は出来ないし、何を話しかけて良いかと戸惑いながら無言でいると、突然女性のほうから「どこまで行くのですか?モスクワ?」と、とても流暢な日本語で話しかけてくれて一瞬びっくり、まるで映画に出で来るような美しいブロンドの女性が私に・・・?話を聞くと、どうやら日本のスナックで働いていてもう長いそうです。

私の住んでいる街の近くにもロシア人の女性が何人か働いているお店があるので場所を言うと、そのお店に二カ月間居た事がある、と言うので友達の名前を言って見ると、「その人なら毎日のように来てたョ~!」、それまでは遠いモスクワが近所のように感じられました。

モスクワの空港では4時間ほどトランジットがあります。彼女に後ろ髪をひかれながらもお別れし、ちょっと腹が空いたので空港を散策しながら何か食べようとコーヒーショップに行き、お金を出すと言いかたが悪かったのでしょうか。何やらドルは使えるがユーロは使えないらしいのです。成田で全部ユーロに変えてしまいモスクワ空港の銀行でドルに換えようとしましたが換えてもらえず、仕方なく途方に暮れパリへの便の時間を待つ事にしました。まだブルキナファソまで3分の1の道のり、これからの事が思いやられます。

やっとの思いでパリのシャルル・ドゴール空港に着きました。「ここがパリか~!」空港はモダンで明るく、お洒落な人たちが笑顔で会話をしています。ここでは11時間のトランジット、ホテルは高いし時間も中途半端なので、仕方なく空港内で過ごす事にしました。空港に着いたのが夜中の12時ごろなので、ワインでも食らって寝てしまおうと探しましたが、店は全部閉まっていて仕方なくロビーのベンチで寝る事に、しかし神経が高ぶってなかなか眠れず腹は空くし、タバコは吸えないし、ながい、なが~いパリの一夜でした。

 やがて朝になり、時差ぼけと睡眠不足で頭がふらつく中「いよいよ~今日はブルキナファソだ~!」と残る元気を奮い立たせ、期待と不安を抱きながらコーヒーショップで半開きの目で、まだ見ぬ国ブルキナファソに思いを馳せるのでした。

 

次回をお楽しみに・・・・・


中年派遣員奮闘記

2015-12-17 | 奮闘記

「ブルキナファソ親爺暮らし」

(はじめに)

ブルキナファソ。人に言うとほとんどの人が国の名前とはわからないほど日本とはなじみのない国の一つです。

私は、そのブルキナファソに2003年に渡航し、10年間にわたり滞在し、NGO活動や孤児施設の建設、日本食堂「和が家」などを開設しました。そのようの生活の中でブルキナファソの人々と直接触れ合い、そして共に考え、共に暮らしたことは、私の人生にとってなにものにも換え難い体験となりました。

その十年間のいろいろな出来事をまとめ、多くの皆様に遠いアフリカにあるブルキナファソでの暮らしをお伝えしたいと思い、まとめてみました。

また、タイトル「ブルキナファソ親爺暮らし」は、人の暮らしは様々で、満足とは際限がなく、不足の生活の中に生きていくことの大変さは物事の大切さを育んで行くことは自分自身のテーマでもあります。

努力をすれば、真面目に生きればいつかは報われる。それが当り前ではあります。しかしそれが当てはまらない環境も多くあることも現実です。特に途上国と言われている国々は、生活基盤はもとより、政治、経済、医療、教育などのインフラのどれをとっても未熟であり、これからの成長も難しいうえに、国際機関の援助なしでは成り立たない国が多く、それゆえの無意味な紛争が起きていることも事実です。

私たちは、ニュースで感染症や紛争、難民などのことを知り、自分でなくて良かったと思う人も多いでしょう。しかし、それを対岸の火事として見るのではなく、これからいつどこで起こるか解からない自然、人的災害が私たちの身近に起きるとも限らないことをも踏まえて、途上国の人々の暮らしから何かヒントを得ることもあるかもしれません。

私は物書きが苦手で非常に稚拙な文脈ではありますが、自らのブルキナファソでの暮らしを連載で思いのまま書き綴ってみたいとおもいます。

次回に続く・・・お楽しみに


ブルキナベ

2015-12-05 | 生き方

ブルキナファソの国の人たちのことを総称して「ブルキナベ」と言います。

ベナンの人たちは「ベニノアーズ」、トーゴの人たちは「トーゴレン」、コートジボアールの人たちは「イヴォアリアン」という呼び方です。

日本人は「ジャパニーズ」ですね。

ブルキナファソはBURKINA(清廉潔白な人)というモレ語と、FASO(国)というジュラ語で成り立っています。

これは約30年前に第5代の大統領「トーマス・サンカラ」が、かつて「オート・ポルタ」という国名を変更し今日まで及んでいます。

ブルキナファソには約60の部族がそれぞれの違った言語と習慣があり、日本の方言は一つの言語の変形であるのとはまた違うのです。

日本でもアイヌ語や琉球語などは異質ですね。

これは以前アフリカに国境がなかったころ、ほとんどの人々は狩猟民族で農耕民族が少なかった時代、狩猟民族は大きな集団では移動できなかったために一族で動物や植物を求めて移動していたようです。

その時に違う部族との接触があるときに暗号のように用いられたのと、同じ部族の連携を保つためという学説もあります。

宗主国の植民地政策で国境が敷かれ、大陸を自由に移動できなくなると定住し農耕をおこなうようになり現在に及んでいます。

さて、ブルキナファソに戻りますが、宗教はイスラム教が約50%、カトリックは約30%、そしてプロテスタント約15%というところです。

 

人々は温厚で争いをすることは好みません。

 

ブレイス・コンパオレまでの殆どの大統領はクーデターで大統領になりました。これらのクーデターにしても市民は関わらず、軍が前大統領を拘束して首謀者が大統領になったので、朝起きたら大統領が変わっていたという感じでしょう。

 

それでも市民は大きな暴動も起こさず国を委ねていました。

 

今回ブレイス・コンパオレ大統領降板の経緯は27年間も続いた政権に市民がNOを突き付けたことです。

その理由はブレイス・コンパオレが大統領になってからも選挙はあるにはあったものの、金と権力を使ってライバルを排除してきたことと、前回の選挙ではこれが最後と言って政権の座に就き、また今回も議会に再選を可能にする法案を出したことです。

 

一部の既得権を持つものが豊かになり、一般市民の生活が豊かにならないこと。

ここまでは途上国にはよくある話でありますが。

 

ここからが他の国の人とブルキナベの違うところ。

多くの市民が発奮し大統領府や国会議事堂に詰めかけ抗議行動を起こしました。その数は20万人~30万人とも言われています。

 

その直後に軍が市民側につき介入し戒厳令がひかれました。

 

間もなくブレイス・コンパオレ大統領や家族、親戚、そして漁夫の利を得ていた者たちは一目散に国外へ逃亡。

その際には大きな暴動や内戦にはならず、その後カファンド暫定政権が発足しました。

 

市民の抗議行動から1年が経ち、2015年11月29日に公明な選挙がおこなわれ現在のロック・マーク・カボレ新大統領が誕生しました。

 

一人の市民がこう言っていました。

「今度こそ自分の手で自分の大統領を選ぶのだ。」と。

 

また、ある若い兵士はこう言っていました。

「私達は大統領を守るのではなく、家族と国民と国を守るのだ。」と。

 

親爺は国の名前の通りのブルキナファソ、そしてブルキナベが大好きです。