西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

ブルキナ親爺の一人酒

2016-01-17 | 生き方

幸副とは・・・

ブルキナファソに住んでいるといろいろと事件が起こります。

昨日は近くの高級ホテルと向かい側の高級レストランがテロリストに襲撃されて23人が死亡し60人が負傷する事件がありました。

その後ブルキナファソ、フランス、アメリカの特殊部隊によって鎮圧されテロリスト4人(女性2人)が死亡、2人が拘束されました。

5年前にも軍の暴動があったり2年前には大統領の追放騒動や昨年はクーデターと物騒な事件が起こります。

そのようなことで今日は豚肉をつつきながら一人で晩酌をしている次第です。

酔いがまわるにつれ親爺の脳みそも回りだし、[幸福]とは何ぞや・・・・。

  • ニコマコス倫理学
    • 幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることであるとして、幸福主義をとなえた。
  • 『語録』
    • 己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きることを説く。
  • 『エチカ』
    • 物事を永遠の相のもとで見ることが幸福(神に対する知的愛)への道であるとする。
  • 『幸福について』
    • 目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であるとする。
  • 『意志と表象としての世界第四部』
    • 自他の区別を去った意志の否定を説く。
  • 『幸福論』
    • 健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。
  • 『幸福論』
    • 己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。
  • 『幸福論』
    • 神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論。
  • 『私の幸福論』
    • 不公正な世の現実を見据え、弱点を弱点と認識した上でとらわれなく生きること。望むものを手に入れるために戦い、敗北しても悔いないこと。

Wikipediaではこのように書かれています。

幸福という短い単語にはとても深い意味があります。

 

しかし幸福の実現の裏側には不幸があります。

親爺は最近テレビでライオンがシマウマをとらえて子供たちと一緒に食べるシーンを観ました。

ライオンは幸福ですがシマウマにとっては不幸です。

戦争も勝てば英雄、負ければ戦犯。

 

地球に暮らす人間は現在72億人を超えています。

世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えています。

世界中で、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれます。

貧富の拡大、温暖化など問題が山積です。

石油の枯渇が近づき、表土と森が失われています。

 

国際応用システム分析研究所(IIASA: International Institute for Applied Systems Analysis)の計算によると、世界の人口が90億人に達するのは、ようやく2070年のことになるだろうと予測しています。

ただ、このニュースはまったく落胆するような ものではありません。

これは人口過剰へのブレーキとなる。まさに地球が必要としていることなのです。

もうひとつの可能性は、人類が消滅していくというものです。

IIASAはこのことを確信しているようです。

08年のリポートによれば、もし現在のヨーロッパの出生率(女性1人あたり1.5人)が世界中でも定着すれば、世界の人口は2200年には半分になるだろうといわれています。

さらに、2300年には10億人をわずかに下回ると考えられています。

 

親爺も人間として生まれて凡夫でありますので先ず自分の幸福を考えます。

端的に言えば、人生が思い通りになることが幸福なのです。

 

自分の幸福は何が幸福と思えることなのかと。

人の役に立つこと、人に好かれること、無事に事を成し遂げた、もちろんパチンコや懸賞に当たった時など幸福です。

 

今親爺が一番心配していることは不幸が不幸を呼ぶことです。

各地で起こっているテロもある意味では不幸がさらに不幸を呼んでいることなのかと思います。

不幸が不幸を繰り返さない方法はあるのか親爺にはわかりませんが政治倫理や宗教の教えが多様化し戒律が機能しなくなってきている現在、これから先の人々は何を支えに生きてゆくのか。

きっと有能な人か宇宙人が現れて人間を幸福に導いてくれることでしょう。

もう夜の12時か。

ちょうど3本めのビールが無くなったところで寝ることにしよう。


中年派遣員奮闘記(終わりに)

2016-01-13 | 奮闘記

「中年派遣員奮闘記」終わりに

「三年間のブルキナファソの生活を振り返って」

2003年7月18日、初めてブルキナファソの地を踏んで依頼、時間の経つのは早いもので3年間に渡る現地派遣員生活も終了しようとしております。

3年前は言葉も解らず、周りには日本人もいなく、まして何の知識もない私はこれから駐在員としてどの様にしたら良いか途方にくれましたが団体本部の方々の適切なサポートにより何とかやり遂げることが出来ました。

リサイクル物資補助事業に始まり、ネリカ米栽培事業、診療所建設事業、感染症撲滅給水事業などのプロジェクトや2つのテレビ局のブルキナファソ取材のコーディネート、インターンシップの方々のお手伝いなど、いろいろと良い経験になりましたが今思うとただ夢中で一心不乱に動き回っていたように思いますと同時に今までかつてないエネルギッシュな自分を発見することが出来、また私生活では当初フランス語で挨拶も出来ずジェスチャーで意思の伝達をしていたのが最近やっと3歳児くらいの言葉が話せるようになりブルキナファソの友達も沢山でき、近所でも外国人扱いをされていたのが今では頑固な日本人おじさんとして仲間入りを認めてくれたようで、人間は時間をかければ何とか適応できるものだと自分ながらに驚いています。

そしてブルキナファソの素顔に触れれば触れるほど日本と違って良きにつけ悪きにつけ、いろいろな意味での人間味を感じます。それはどういうことかといえば日本のように発展していても人いじめや人を恨み、世を果敢無んで自殺をする人が大勢いるし、絶えず他との比較をしながら上を見、下を見、自分の位置づけを意識しながら生活し、物があり仕事も選ばなければ何とか生活をしていけるのとは違い、金や物がない仕事がない中でブルキナファソの人々はそれぞれに生きていくための知恵を凝らしているのです。

この国の多くの人々の意識は一言でいえば良い意味での個人主義、人は人、私は私という風に余り他人を意識しないのか、する余裕がないのか、でも決して無関心ということではなく弱者に対してはとても思いやりがあり決して自分を卑下するわけでもなく世間を気にするわけでも無く黙々と日々を暮らし貧困の中にもとても陽気です。

私はブルキナファソの人々から今の日本にはもう無くなっているかも知れない心の豊かさとバイタリティーを感じました。

 今私がブルキナファソの状況でとても心配していることがあります。それはお父さんやお母さんがエイズで亡くなった子供、いわゆるエイズ孤児といわれる子供たちが27万人もいるということです。

国連などの2002年の調査によれば、親をエイズで失った15歳未満の孤児は世界で1344万人、そのうち80%以上がアフリカだといいます。1990年には100万人だから、10倍以上に増えたことになります。2010年には2000万人を超え、子ども全体の6%にのぼるだろうと予測されています。

エイズとエイズ孤児が激増する背景には、セーフ・セックスに対する意識の低さや貧困など、さまざまな原因がありますが、エイズ治療薬が値段は下がったとはいえ、1日ドル以下の生活をしているブルキナファソでは依然として高価なことも大きな原因のひとつです。エイズ孤児や貧困孤児はセックス・ワーカーや少年兵士、子ども奴隷を生み出す温床でもあり、一刻も早い解決が望まれていますが、前途は暗中模索の状態であるといわれています。

日本の昔の言葉に「親は無くとも子は育つ」と言いますが、せめて病気の治療や最低の教育だけは受けさせてあげたいと思うのは私も人の親としての人情なのでしょうか。

先進国から見ると世界はインターネットを始めIT産業の発展によりグローバリゼーションの推進がさけばれていますが、日本などでもよくいますが携帯電話やパソコンに1日中かじりついて情報や知識だけは豊富でなんとなく得意になっている人や仕事ならまだしも、まるで麻薬中毒のようにそれがないとパニックに陥ってしまう依存症人も多く存在しています。

私はそれらを否定するつもりはありませんし、とても便利な物と思っていますがそれに没頭しすぎて自分の本質、目的を発見できず見失ってしまうことが多々ありますがとても心配なことです。あくまでも使う人間が主体でありその人間の本質が高ければ高いほどすばらしい道具として真価を発揮できるものだと思います。

また、その一方ではそのようなことは全く無関係で、まだ先進国の動きに対応できない国も沢山あり、その国の中にも家が無く貧困で苦しむ人がいて貧困で苦しむ人の中にもさらに不幸な人がいることも事実です。私はその一番の底辺の人たちに目を向け、手を差し伸べてあげることが人として生まれてきたことの証のように思えてなりません。

これまで先進国と呼ばれている国々は途上国に対し援助と称していろいろなものを作り、また供与してきました。と同時に彼らの工夫する能力や協調して何かを創り上げることも奪ってきたように思います。彼らはそのような努力よりも、寧ろどうやって手に入れるかに努力しているような気がします。

また、今の国際ボランティアはわざと複雑にしてしまっているように思えます。困っている人を助けるという行為に何の能書きが必要なのでしょう。俄学者の意味のない廻りくどい能書きよりも、これからは事実やデータに基づいた的確なボランティアを本物の専門家の人たちは研究し、一般の人々がもっと簡単に理解が出来、気軽に参加できるように創意工夫をしなければ限られた人だけの理想論と自己満足の場になってしまうでしょう。

 私は50歳を過ぎてこれを良い経験として今後の人生に活かしたいなどというつもりはありませんが中年派遣員奮闘記を読まれた中年と呼ばれる方々に少しでも励みになればどんなに嬉しいことか、また青年の方々には多くの良い経験を積み今後の人生に生かしていただきたいという願望を込めて中年派遣奮闘記を終了させていただきます。

 


中年派遣員奮闘記(その22)

2016-01-12 | 奮闘記

NO.22[サピナ村の人々]

サピナ村は、ナオリ州の州都POから7キロほど西に行ったところにある人口1500人程の村で、周りは小高い丘に囲まれワガドゥグ周辺の平坦な風景とは少し違い日本人の私には何と無く親しみが湧く風景です。

人々は皆穏やかで、私が訪れるとまず子供が寄ってきます「ナサラ、ナサラ(白人の意)」と言いながら珍しいものでも見たか様に少し遠巻きに私を見ています。此処には私のような外国人は訪れることはないようです。中には恐ろしいのか泣き出す子供もいたりして、暫くすると好奇心旺盛の子供が近づいてきて握手をすると他の子供も安心したのか恐る恐る近寄ってきます。

皆と握手をして「私は日本人でイイダといいます。」ふと、この村には学校がなくフランス語は話すことは出来ないことを思い出し、自分を指差して「IIDA,JAPONE」「IIDA,JAPONE」と何とか子供たちに気に入ってもらおうとカメラを取り出して見ると子供たちは写真を撮られることが好きらしく、大騒ぎで集まってきます。他の方向にレンズを向けると又そこに集まるので面白くなり、写すマネをしていろいろな所に移動をして子供たちと戯れていますと、アリラが大声でなにやら一言云うと子供たちはすごすごと戻っていきました。

アリラが村のシェフ(酋長)を紹介したいから一緒に来てくれ、というのでシェフの家に向かいながら何と無く、これからこの村で私はこの村の人々に迎え入れてもらえるかどうか、言葉もあまり解らないでこの村の人々とうまくやっていけるのか不安が募ります。

シェフの家は全体が土で造られたグリシー族特有の曲線的な造りで大きな囲いの中に幾つもの家があり、そこで数家族が暮らしているようです。門の外に細い木で作られた椅子があり少し緊張した面持ちでそこで待っていますと、赤い帽子をかぶった60歳くらいのいかにも酋長と思しき身なりの人物が数人の人と共に近づいてきました。私はアリラに促され椅子から立ち上がり酋長が椅子に座るとアリラがしているように前にひざまずき、握手をしながらひたすら笑顔を作りアリラが私をカセナ語で紹介してくれているのを聞いていました。

ブルキナファソでは各国の援助で診療所や学校や井戸などの建設そのほか稲作や野菜の栽培など色々なプロジェクトが行われていますが、私どものようなNGOは政府の機関を通してプロジェクトを行うより直接村に行き村の人々の合意を持って行うことも多く、その村のシェフの動向で全てが決まります。

通常はその村の出身で行政や主な役職についている人に間に入ってもらい便宜を図ってもらうことが多いのですが、なかなか村の実情を知ることが難しいことと、その人への報酬や設備なども割高になることも多く効果的な実績を果たすには自分自身直接村の人と話をして村の実態を把握し直接自分で依頼し、結果を確認する必要があります。

そのようなことで、果たしてこれから新米の私が現地駐在員としての責務を遂行できるか、とても自信がありませんが気持ちの何処かにどうせ乗りかかった船だ、精一杯頑張ってダメなら諦めがつくという開き直りも同居していました。

一通りアリラが私とこれからの事業のことをシェフに説明した後、村の人達20人位と話し合いが持たれました。私の目的はこの村に稲と井戸を作ること、稲の種類はNERICAという新しい品種でこれからこの村に普及させ食事を栄養のないミレット(粟)から栄養のある米に替えていくことが必要。と同時に販売をして生活の向上に役立てたい。それから診療所の建設も行い村に人達が今まで病気で苦しんでいる状況をなくし、小学校を作り子供たちが公用語のフランス語を話せて読み書きが出来るよう、そして将来は日本と交流を盛んにし日本の人が沢山訪れる村にしたい。それらの事を代表のアリラを介して人々に説明しました。始めは見知らぬ日本人が一人で旅行にでも来たと思ったのか何と無く余所余所しく振舞っていた村人がだんだん身を乗り出し興味を起して来るのを感じました。

ブルキナファソの初等教育就学率は39.5%、中等教育就学率は8%、15歳以上の識字率は26.6%と低く、村落にいたっては5%未満の識字率です。此処サピナ村も近くの小学校までは10キロの道を歩いて行かなければならず小さい子供に毎日の通学はかなりの道程で、もし村に学校が出来たとしてもそこに赴任する教員の宿舎や生活の負担、教材の購入などを各家庭で授業料として払える余裕もありません。又、医療においてはブルキナファソでは5歳未満の乳児死亡率は16%、村落では30~50%と高い数値になります。

私はサピナ村の人々を見るにつれ、この様な過酷な生活環境の中でこの人達の描く未来はなんだろう、子供たちの夢はなんだろう、私のように日本の豊かな環境で育って来た者とは違って彼らは村の生活をどの様に思っているのだろう、先進国への憧れはあるのか、でもどんなに努力をしたところで今のこの村の状況ではそこに行く事は不可能で大半が村で一生を過ごすことになります。果たしてそれが不幸なのか、それとも知らない方が幸せなのか、たとえ今の日本の生活状況を知ったとしても彼達にはどうすることも出来ない。私の思いは複雑になると同時に何処となく虚しさも覚えました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その21)

2016-01-11 | 奮闘記

NO.21[POとサピナ村]

首都ワガドゥグから南に約140キロメートルの所にPOという町があります。POはナオリ州の州都で人口は約7.000人でグリシー族が多く住んでおり、この部族は国境を挟んでガーナにも住民は多くKASSENAという言語を使っています。

気候はワガドゥグとは違い降水量も比較的多く綿花並びに野菜やイネの栽培が盛んでガーナの国境までは約20キロメートルでガーナから働きに来ている人や品物も入っていて、たとえばガソリンはブルキナでは1リットル550Fですがポでは500Fで、ヤム芋や木材、清涼飲料水などのほか生活用品なども売られていて他の街とは少し違う町の雰囲気があります。

またPO近郊は観光地も多く、近くのチェベレと言う、東に20㌔ほどの所にある町にはグリシー族の代表的な建築様式の家があり、すべて泥で作ったブロックを積み上げて建てられたもので柔らかな曲線とグリシー特有の装飾模様はとても美しい物で、この模様は女性が描くのが習慣だそうです。

POから西に10キロ程行くとチャカネという村があり、此処にはガーナから最初に移り住んだグリシー族の酋長の家があり、家はもう大分朽ち果てていて訪れる人はあまり居らず、家の大きさや物置に残された古い装飾品などを見ると当時の隆盛が想像されます。

そこから20キロほど南に行くとナジンガ自然公園に至り、此処には象を始めマントヒヒやガゼルその他多くの動物が保護されていてブルキナを訪れた人やガーナからも観光客が訪れますが、3月からは狩猟が解禁になるので多くの外国のハンター達が訪れ腕を競います。

サピナ村はポから西に7キロ程行った所、地形的には周りを丘で囲まれた盆地のような所で、住民は1.000人程で電気はなく学校や診療所も近くにはありません、村ではミレットや米の栽培が行われています。

私とこの地の始めの拘わりですが、POは友達のラミンの生まれ故郷で、予てより一度行ってみないかと誘いを受けていたこともあり、ある日、日帰り旅行気分で行くことにしました。朝7時のワガドゥグ発のバスで駅には沢山の荷物を持った人達が大勢いて、バイクや家具などをバスの屋根に積んだ大型のバスがあります。

まずはチケットを買いに販売所に行き名前を告げますが、忙しいためか無愛想なプロレスラー曙似の中年婦人が居て「チケット2枚下さい。」というと「何処まで?」私もムッとして「PO!」と言うと「名前は?」「イイダ!」「エ!何?IDA?」「IIDA!」中年婦人が少しニヤケ顔で「この名前はブルキナファソでは女の名前だ。」と言うので私は余計腹が立って「日本では家族の名前だ。」と説明をしながら10.000Fを渡すとまた婦人は険しい顔になって「何で1.500F(現在は2.000F)なのに10.000F渡すの?お釣りが無い!」と言いますのでしかたがないので、しばらく待ってからお釣りを受け取ることにしました。

日本なら自動販売機があり、このような無駄な労力は要らないのにと思いながら待っていますと、バスの発射時刻になりバスの入り口で係りの人が乗客の名前を読み上げています。急いでお釣りを受け取りバスの乗車口に行くと、沢山の人が集まっていて名前が良く聞き取れません。そのうちに「イダ!。イダ!」と何回も読んでいるのでチケットを差し出すと係員も「IDAは女の名前だ」というので大きな声で「I I D A 、イーダだ!」と教えていますと、周りの人達が中国人か等と聞きますので「私はジャポネだ!」バスの乗るのに汗だくになり、こんなに苦労をしたのは生まれて初めてです。

漸くバスが走り出しやれやれと思いきや、後ろの10代の若者達4~5人が故郷に帰るので嬉しいのかバカンスで旅行に行くのかは解りませんが、歌を歌ったり大きな声で笑ったりはしゃいでいます。私は先ほどの心の疲れを癒そうと、少し寝たいと思っていましたが後ろが煩くて寝ることも出来ません。暫くすると横に座っていた人も私と同じ心境だったらしく、大きな声で「静かにしろ!」と怒鳴っています。一時は沈黙をするのですが30分もすると又はしゃぎ出します。そういえば私も10代の頃、友達と一緒に旅行をした時は周りのことなど考えずにいたことを思い出し、私もやっぱり中年だな、と考えながら暑さと若者達の騒音の中に身を委ねる事にしました。

ワガドゥグを出て2時間半、バスはPOに到着しました。まずPOで目に付くのは軍服を着た人が多いことです。POはガーナとの国境が近いので大きな軍の基地が2つあり、以前はコンパオレ大統領もこの基地に長年居た事もあるそうで、今もその住宅がきれいに保存されています。

バスを降りるとラミンから何人かの人を紹介されました。ラミンの兄のババ、サピナのアリラ、ウェニュャ、Me.エリザベットです。彼らはBIEN VENUE M.IIDAと笑顔で親切に迎えてくれ取敢えず近くのレストランに行き話をすることになりました。ババはラミンの兄と言うことで顔も良く似ていて家具を作る商売をしており、アリラはサピナで農業を営んでいて一見強面でギャング映画にでも出てきそうな顔立ちで、ウェニュャもサピナで農業をしておりいつもニコニコ顔でアリラとは対照的です。いろいろと話をしていくうちに彼らは村に案内をしてくれると言うことになりました。

バイクをチャーターして行くという事で待っている間に食事をすることになり、ラミンが此処で美味いのがGHANAトーだと言うことでPO名物を戴くことにしました。作る所を見ようと思い店の前に行くと臼のような物と杵のような丸太があり、茹でたヤム芋を臼に入れ餅搗きと同じようなやり方で搗き込んで行きます。

これは通称フトゥと言いますが、搗く人と捏ねる人と一体になり10分くらい搗いていると程よい粘りが出てきて、それを10センチくらいの玉にして深皿に載せソースをかけて出来上がりです。ソースはトマトソースに鶏かムトンの肉を一緒に煮込んだものできっと何か調味料があるのでしょうか。このソースがさっぱりとしているにもかかわらず酷があり説妙な味付けで、それとモチモチとしたフトゥがとても相性が良くいつの間にか胃の中に滑り込んで行ってしまいます。

二杯御代わりをしてお腹が膨れた頃バイクが到着し、いよいよサピナへ出発です。


次回をお楽しみに・・・・


人のルーツID:g6unvl

2016-01-10 | 暮らし

人の母方の遺伝子をたどっていくとアフリカにいたイヴという女性にたどり着くといわれます。

私たちの先祖イヴが生まれた地域アフリカ

今から20万年前は物や生命のすべてが共有した世界でした

イヴの子孫は自然の中で、他の動物たちや災害から身を守り

子孫の繁栄を信じて大いなる自然に挑戦し可能性を広げ

自分で考え、力を出し合って自然界の中で色々な困難を克服してきたのです

21世紀に生きている私たちは今、イヴの末裔として先祖が築いてきた歴史の最先端を生きています

あなたは今、自分という存在をどのように思いますか

イヴは人の母として地球に生まれた時、いったいどのように思っていたのでしょうか

私たちも、もう一度イヴの気持ちに立ち返ってみてはいかがでしょう

なぜなら私たち世界の70億人を超える兄弟の母親なのですから

私たち一人一人が人類の母イヴに血のつながりを伝わってコンタクトが出来るようにすることにより人間として、そして地球の一生命として、これまで先祖達が繋いでくれた道筋を思い毎日の暮らしの中に生かして行くことが未来にも繋がっていくことになるのではないのでしょうか

私たちのルーツであるイヴの出現から私たちは現在72億人を超えています

世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えています

世界中で、1年に6千万人が亡くなり

1億3千万人が産まれます

貧富の拡大、温暖化など問題が山積です。石油の枯渇が近づき、表土と森が失われています

水と食料が、病院と学校が不足しています

人の生活が、太陽と地球からの恵みを、超えそうです

争いなんかしている場合ではありません!

分かち合って、共に生きなくては!


中年派遣員奮闘記(その20)

2016-01-10 | 奮闘記

NO.20[OUAGADOUGOUの商い]

ブルキナファソの1日はとても早く、5時には起きて掃除や朝食の準備が始まります。お手伝いさんがいますが大体は村から出てきている人で、13歳から18歳くらいの女性が多く、フランス語はあまり話せない人が多いようで1ヶ月の給料が2000フランくらいですが、食事と寝るところはあるのでワガドゥグに出稼ぎに来る人は多いようです。村の仕事と言えば男性は農作業、女性は食事に関する仕事、子供は10歳くらいから水汲みや燃料にする枯れ枝集めなどを行い、週に何度か女性達は近くのマルシェに行き自分達で作ったものを売りお金に換えていますが、1日の売り上げはほんの僅かのようです。ですから少しでもお金を稼げるところがあればとワガドゥグに来る若い女性も多く居ります。

 さて、バルコマ家でまず1番早く起きるのは勿論お手伝いさんです。毎朝5時にイスラムのモスクのスピーカーから朝のお祈りの声が聞こえ、すると間も無く庭を掃く音、こちらの箒は柄がなくサーガという40センチほどの真っ直ぐな細い枝を直径5センチ位に束ねた物で腰を屈めて器用に掃き慣らして行きます。6時頃になるとムッシュバルコマがプラスチックのヤカンを手にもち外のトイレに行きます。ブルキナの人達はトイレットペーパーを使う人は少なく殆どの人は御尻を水で洗います。私も何度か試みましたがとても心地良く考えてみればこちらの方が清潔なのかも知れません。

 トイレが終わると大きな声で皆を起こします。7時になると長男のボリスと次男のフィデルが学校に向かい、学校は7時半から始まりますのでとても慌しい様子で、マダムはトウモロコシの粉を乾燥させるために大きな台の上に広げていると、3女のフランソワーズは洗濯物を井戸の所に運びます。7人家族の洗濯物はとても多くおまけに女性は2~3度着替えをするので洗濯物は毎回山のようです。

お手伝いさんは掃き掃除を終わると洗濯に執りかかりますが洗濯物が多いときは洗濯を専門にする人も来ます。4女のエステルはムッシュバルコマの乗っている車の掃除が朝の仕事のようで、いつも車を拭く前に運転席で車のカセットデッキに好きな歌を入れ聞いていますが聞いているうちに気持ちが良くなり又寝てしまうことが多く、ムッシュバルコマが出かけようと車に行くとエステルが中で寝ているので結局ムッシュがぶつぶつ文句を言いながら自分で拭くことになってしまうようです。

 昼になると学校に行っていたムッシュバルコマ、ボリス、フィデル、小学生のロズモンドとお母さんのアンドレアが戻ってきます。12時から3時までは昼休みなので昼食後は体の汗を流し昼寝をします。ブルキナファソの自然環境で日中の暑さは厳しく特に5月の頃の気温は50度にもなり、汗とともに体力の消耗が激しく、屋外での直射日光は熱中症にもつながりますので社会環境もこの様な習慣になっていると思われます。昼寝を終えるとそそくさと再び職場、学校へと向かい、終業時刻は5時半です。

ブルキナファソには行商をしている人が多くいて、バルコマ家は家族が多いためか朝からいろいろな行商の人が訪れます。まず朝に来るのがガーナパン屋さんブルキナはフランスパン(ヴァゲット)が普通ですが、ガーナパンと言われるいわゆるブレッドもあります。主にガーナからやって来た人が作っていますがやはりガーナは昔イギリス領だったためかと思われます、次に来るのが古着屋さんでブルキナでは古着の事をYOUG YOUG(ユグユグ)と言い、ジュラ語で「洗う」という意味だそうです。

女性物と男性物、下着類、布類とそれぞれ別の人が売っており、古着はインド製やパキスタン製が多くジーンズは1500F(300円)、シャツは1000F(200円)位です。この人が来るたびに私にも声がかかりイイダも安いから何か買えば、といわれますが私の好みに合うものが無いので丁重にお断りします。それからミシンの修理屋や果物屋と行商も多種様々で、この人達は殆どが親方(パトロン)がいて仕事を貰い1日中売り歩きます。

その他街に出ると本、メガネ、アクセサリー、薬、ビデオCD,CDレコード、水やジュース、それからとても多いのがパンクの修理屋です。バイクや自転車が一般の乗り物で日本のようなチューブレスなどというタイヤではなく普通のチューブ入りのタイヤでこれがあまり良い品質ではないので、すぐパンクをします。修理代は1箇所100フランですが修理するところを見ていないと穴の開いていないところも修理をしてしまい5箇所パンクしていた、などと言われますので気が抜けません、OUAGADOUGOUには沢山のオフィスビルや商店などがありますが、それぞれに専用駐車場はありません。

また公共駐車場もありませんので入り口の近くに車やバイクを駐車し、するとそこにいる人にチケットを渡されます。その人は駐車している車やバイクが、いたずらされたり盗まれないように見張っている仕事なのです。車は100フラン、バイクは50フランでその人は店やオフィスとは関係が無く個人で事業をしているようで、店やオフィスとなぜ関係が無いのかを聞きますと、もし盗まれ たときに店やオフィスの責任にならない様に、だそうです。

 まだまだ職業は沢山ありますが主な職業を紹介してみました。いつもこの人達を見ると熱い中歩いて回るのはとても大変なことだし、売り上げはどれ位あるのか計り知れませんが、怪我や病気などになったときは何の保証も無く、この国では健康ということが最大の資本であることをつくづく考えさせられました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その19)

2016-01-09 | 奮闘記

NO.19[エステル]

エステルは24歳バルコマ家の4女、看護婦になることが夢で現在看護学校に通っています。とても人懐こく穏やかで毎朝起きるとまず彼女がボンジュールと声をかけてくれます。彼女の趣味はおしゃれをすることの様で1日に多いときで3回服を取り替えます。毎日お姉さんと交代で料理を作ったり家の掃除をしたり勉強はあまり好きではないようで時々教科書を私のところに持ってきては「イイダこれ何か知っている?」などといいながら「私の彼はアルノって言って銀行員、けれどとても浮気者。」などと言う話になってしまい、「なんで?」と尋ねるとこの前彼の家に遊びに行ったら他の女がいて親しそうにしていたと言うのです。

私は思わず「それは単なる友達できっとエステルのことが一番好きだと思うよ。だからあまり気にしない方が良いよ。」、と言うとエステルは気が休まったのか後で彼に電話してみると言って家に帰ります。また何日かすると事務所に来て「このまえミサで教会に行ったときアルノが知らない女といたの。見ない振りして家に帰ってきちゃった。」、すると側で聞いていた弟のフィデルが「アルノは良くないよ~、女がいっぱいいる~。」とエステルを横目で見ながら言いますので、私はすかさず、「アレ!このまえフィデルは学校に何人も彼女がいて俺は女にもてるって得意そうに言っていたじゃない?」そうなると強いのはエステルで「アルノよりお前の方が一番悪い!」3人で大笑いです。

時々バルコマ家の夕食に呼ばれます。夕食の席ではムッシュバルコマの威厳は強く、さすがに一家を養っているだけのことはあると感じます。「イイダ!イルフォマンジェ、イルフォマンジェ(食べなさい、食べなさい)」と言いながらブルキナの地ビール、ブラキナをおいしそうに飲みます。私が「今日の食事はエステルが作ったのですか?」と聞くとエステルが、「そう私が作ったの。」というと少し離れた所にいるお姉さんのフランソワーズが「それは私が作ったんでしょ、あなたは野菜を切っただけ。」、父と母が口を揃えて「フランソワーズは料理が上手だけどエステルはだめ。」、と言うとエステルが「本当に作ればお姉さんより私のほうが上手よ、お姉さんに悪いからへたな振りをしてるの。」、と言うとフランソワーズが大きな石を持ってエステルに近づいて来ます。エステルはすかさず笑いながら外の門のところに身を隠し、「怒った、また怒った」とフランソワーズをからかいます。「エステル、いい加減にしなさい!」とムッシュバルコマの雷が落ち一件落着。「エステルは小さいころから要領が良いんだから。」、フランソワーズが苦笑しながらまた調理場のほうに戻っていきました。

エステルの笑い声にはとても特徴があります。お腹のそこから大きな声で「ワッハッハッハ」と笑った後に高音で「ヒー」と言います。これが事務所にいると一日に何回か聞くことができて、どんなに落ち込んでいるときでも彼女の笑い声を聞くと思わず笑ってしまう、と言う不思議な魔力があります。事務所は私一人なのでフランス語で書かれた難解な文章を辞書と首っ引きで解読をしているときに隣の家から「ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー」と聞こえてきます。それに連られて私のお腹から笑いがこみ上げてきて「ゥワッハッハッハッハー」、これが1日3回は日課です。

その人がいると何と無く楽しくなるという人がいますが、そのような作らない自然な魅力を持っている人はとても人徳のある人だと感じます。皆顔をしかめて話すより楽しく話をした方が良いに決まっていますが、もし逆にその人がいるために周りを不愉快にしてしまうとしたらどんなに人生において損をしているのかとも思います。私も出来る事であればエステルのように心穏やかにいつも周りを楽しくさせるような自然な魅力のある人になりたいと思うと同時に、ブルキナファソで人生の機微を言葉や人種、環境の違うエステルから教えていただけるとは思いませんでした。

それから私は何とかしてエステルを笑わそうと、それが趣味であるかの様になっていました。エステルが来ると言葉ではだめと思いジェスチャーや表情で何とか笑わそうとするのですが微笑むくらいまででなかなか笑ってくれません。バルコマ家には番犬が居ります家の人以外の人が来ると牙をむき出し今にも襲い掛からんとするので、何とか慣ついてもらおうと努力をしていましたが思うように行きません。

エステルがいつも犬のことを「イベ!、イベ!」と言っているので、この犬の名はイベと言う名前だったのか。それから犬のことを見る度に「イベ、ヴィェン、ヴィェン」と呼んでいましたが犬は顔をしかめ一向に来ません。ある時エステルにイベはいくら呼んでもこっちに来ないけど何で来ないのと聞きましたら大きな声で「ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー、ワッハッハッハ、ヒー」と突然笑い出しました。

私はどうしたのかと不思議に思いながらも連られて笑っていますと暫くしてエステルが笑い疲れて表情をこわばらせ、涙を拭きながら話し出しました。「イイダ、あの犬の名はトゥパスと言うのよ。」私が「でもエステルはいつも犬のことをイベって言っているじゃないか。」と言うとエステルは又ワッハッハッハ、ヒーと笑いながら「イベはモレ語で行けって言うことなの。」、これで謎が解けました、いくら呼んでも来ない理由が、日本語に訳すと「行け!来い、来い」といっていたのですから犬も顔をしかめるはずです。この時だけは私も暫く笑えませんでした。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その18)

2016-01-08 | 奮闘記

NO.18[フィデル]

フィデル・バルコマ(20歳)6人兄弟の末っ子で将来は薬剤師を目指し目下のところ専門学校にて学業に励んでおり、理数系が得意で家では大きい黒板を壁の前に置き夜は屋外にある蛍光灯のところで勉強をしています。ブルキナファソでは学生がいる家には庭に黒板がおいてあるところが多く夜は静かで涼しい屋外で勉強をするようです。日本では学生は自分の部屋がありエアコンやパソコンその他いろいろな電気製品をそろえて至れり尽くせりの環境ですがこの国ではなかなかその様には行きません。

家族が多いので個室はありませんし、電気製品や電気そのものが高価なのでよほど恵まれた家庭でもなければ日本のような環境では勉強することが出来ないのです。フィデルに聞いてみるとブルキナファソは仕事が少ないし給料が安いので、将来はアメリカやヨーロッパで仕事をしたい、そしてそこで結婚し暮らしたい。だからどんなに難しくても勉強するんだといつも言っています。確かに日本とは大きく違う社会環境の中で彼なりに考えたことなのでしょう。

この国の多くの人達はヨーロッパやアメリカ、日本などの先進国への憧れは強く、私もフィデルに日本人ということでいろいろと日本の様子などを聞かれます。「ブルキナファソは7階建ての建物があるけど日本はもっと大きな建物があるのか?」、とか「東京にはこの国の人口と同じくらいの人が暮らしているそうだね?」、「日本には何処の村にも学校や病院があるの?」、など日本では殆ど話にならないことも聞かれます、私は、日本は確かにいろいろ便利な物がたくさんあるけど、その便利な物を買ったり使ったりするにはお金が必要で、この国の人の何倍もお金を持っていないと普通の生活が出来ない。

そのために日本では人々が子供のときから競争して勉強をし、働くようになってもそれは変わらない。その競争に負けることは、日本ではとても不自由な生活に繋がり、それはブルキナファソで生活をするよりも過酷なことになってしまう。もしこの国の人が今すぐ日本に行って生活をしたなら殆どの人が1ヶ月も生活が出来ないかもしれない。なぜなら、例えばこの国の社会システムは何も無いところに山を築き、その山の頂点を目指して登って行くのに対し、日本の社会システムは高い所から篩いにかけられる様なものだと話します。

この国には61の言葉がありフランス語が公用語として使われていますが、小学校に行かないと勉強できませんので学校の無い村や、学校があってもお金がなく働いている子供も多く、この国では山どころか丘を築くのさえ難しいのが現状です。10歳から15歳の子供が楽しげに牛やヤギを追っている姿や街で卵や果物を売っている姿を見ると、この子達の夢はなんだろうとふと思ってしまいます。

日本の子供に将来の夢はと聞くとよく宇宙飛行士やパイロット、医者や教師などと言いますがブルキナファソの子供でそのような夢を語ることが出来る子供は大臣や医者の子供でもないといません。大体がどこかで働きたいとかサッカーの選手とか家族といつも一緒に暮らしたいとか、夢と現実との大きな開きがあるのを理解しているのか、それでも村の子供やワガドゥグで働いている子供は厳しい現実の中で元気に毎日暮らしています。

ある日フィデルが訪れ、明日友達の家で結婚式があるからイイダも一緒に行ってみないかというのでブルキナの結婚式を見ておくこともいいと思い誘いに乗ることにしました。翌日彼の友達と共に6人3台のバイクで30キロほど離れた村はボボデュラソに通じる国道沿いにあります。ワガドゥグの料金所を過ぎると景色は変わりアフリカのサバンナ地帯の自然が広がっていて、私は日本にいるときからバイクが好きで、よく友達と共にツーリングに出かけたものです。

私のバイクは中国製で50ccの普通の物ですがフィデルのバイクはフランスのプジョー製のバイクで、名前はなぜか「Ninjya忍者」、自転車にエンジンが付いている物でブルキナの人達にはとても人気があります。アフリカの大地の風を体中に感じ気分は爽快、皆で笑いながら私もつい尊敬する矢沢エーちゃんの「ルイジアナ~、テネシ~、シカゴ~、遥かブルキナファソまで~」と口ずさみながらいつの間にか気持ちは青春時代に戻り、3台のバイクは目的地にむかってアフリカの原野を貫く国道をひた走ります。

40分くらい走ったところに会場はあり、沢山人が集まっています。新郎新婦の顔も知らない私は何と無く部外者ではないのかと言う不安に駆られフィデルたちの後について家の中に入り、暫くして両親と思える人が来て私たちに何か話しかけています。このような場合、日本でも緊張して言葉が出ないのに、ましてブルキナファソの結婚式では何と言ったらよいのか解からずにただ笑顔を作るだけが精一杯でした。

その後広い庭に行くと運動会で使うテントが4~5張り並んでいる披露宴会場があり椅子に座るとフラッグと言うビールを貰いました。フィデルと仲間の青年達は上機嫌で、あっという間に飲み干すともう2本目を飲み終わろうとしています。イイダももっと飲め、と言われても日本の結婚式ではお祝いの金一封を持って行き飲み物や食べ物を戴きますが、ただで戴くのは気が引けますし、おまけに日本人は私一人なので何と無く目立っているし、浮いてしまっているようで来て失敗したと後悔していると横に座っているフィデルたちは3本4本とビールを腹に流し込んでいます。

「何でイイダは飲まないの?」、もう酔いが廻り始めているのかフィデルの声がだんだん大きくなっています。アトラクションのジェンベの演奏と踊りが始まり、青年達は水を得た魚のように踊りだし、何処から持ってきたのかPASTISと言う酒を飲んでいます。これがとても強い酒で飲み慣れない味なので少しずつ飲んでいると又注ぎ足され私も周りの雰囲気に釣られ陽気になってきました。

酔いも手伝い周りの雰囲気にも慣れて、どうやら私の心配は行き過ぎだったようです。ブルキナファソの人達はしきりにイイダも一緒に踊れと促し、仕方なく見様見真似で踊っていると皆が笑って拍手をしてくれ、いつの間にか自分も仲間に入れたという満足感でいっぱいです。1時間ほどするとクライマックスで新郎新婦が皆輪になった中でジェンベに合わせ踊り、どちらも幸せそのものの笑顔で輝いていてとても微笑ましいもので、ブルキナファソでも日本も同じだな、と感じました。

 さてフィデルはというと、まだPASTISのビンを抱え、顔を良く見ると目が少し内側によっているようにも見え、踊りながら飲むペースが速くなっています。踊っているのかよろけているのか。まもなく新郎新婦が空き缶の沢山付いた車に乗り込み新婚旅行に出発です。周りの人達もバイクや車やトラックの荷台に乗りワガドゥグの空港まで送りに行くようです。

道中は皆一斉にクラクションを鳴らし他の車の通行には一切注意を払いません。日本なら飲酒暴走行為そのもので途中には警察もいますが無視をしています。フィデルもバイクのクラクションを思い切り鳴らしながら、大きい口を顔いっぱいに広げて蛇行運転をしています。私はこれが良いのか悪いのかは別にして、いつしかブルキナファソの人達の大らかな雰囲気に飲み込まれ、日本にいたころいつも何事にも神経質になっていたことがうそのように思えてきました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その17)

2016-01-07 | 奮闘記

NO.17[一人暮らし]

Sさんが日本へ旅立ち、いよいよ独りの生活になりました。

今まで何もかもSさんに頼っていた私にとって、これからのことを考えると何とも心細い心境になると同時に一日も早くこの国の生活に慣れなければいけない。そして駐在員としての職務を果たさなければならない。そして何のためにこの国に来たのか、自分で今出来ることは何か、言葉も出来ない私にとってこの国で生きていけるのだろうか。独りになって考えると今までの人生が小さく平面的なものであったかが悔やまれます。

日本にいるときは全て整った環境の中で物事を比較判断して来ましたし、頼る人もたくさんいてそれが当たり前の生活でもあり、自分で飛び込んだ世界がこんなにも深くそして大きな物とは思いもよらないことでした。それはブルキナファソの環境があまりにも日本のシチュエーションと違うことです。

税収が少ないためか公共施設は殆ど整備されてなく、道にはごみが到る所に捨てられ下水道も無く汚水が道に流れています、街には仕事が無く道端にごろごろと寝そべっている人や子供はもちろん物乞いをしている人達も多くいます。

同じように今日の日本も失業者が多く、ブルーシートやペーパーハウスでの生活を余儀なくされている人が多くいますが日本は仕事を選ばなければ何かあるし、それが無くても何らかの救済措置がありますがこちらでは全くありません。健康保険や生命保険 に入っている人は少なく、不慮の事故で身体障害になってしまうことは、日本とは比較出来ないほどの大きなハンデキャップとなってしまいます。

 何日か部屋にこもり色々と考えていましたが、ある朝考えていても何も始まらないと思い、まず自分で今出来ることは何か。それは近くのマルシェに行き野菜を買い食事を作ることです。いつも行きと帰りに出会う人に挨拶をしてマルシェの人と会話をするうちにだんだん外に出ることが億劫でなくなり、むしろ楽しみに思えるようになってきました。

近くの道路沿いでいつも5~6人の若い人達がお茶を飲んでいます。その中には事務所を借りている大家さんの息子フィデルがいました。フィデルはメディカルドクターを目指している学生で日本にもいるような音楽好きの青年で、フィデルがお茶を飲まないかというので思い切って若者の中に加わりお茶を御馳走してもらうことにしました。

こちらの人達が普段使う言葉はモシ族の言葉でモレ語と言って周りはモレ語が飛び交います。私には何を話しているのか一向に解からずただ周りの人が笑うと合わせて笑うという状況です。少しして村で飲んだチャパロ(ドロー)を思い出し、「ドロー セパボン」というとイイダはドローを知っているのかといいます。「ウィ ジュコネ ドロー」というと一人の青年が「500セファー出せば買って来てやる。」と言い出しました。

そこで私は酒もたまには人間関係を作る良い道具だと思い、思い切って1000セファーを出してこれで買ってくれと頼み、一時すると青年は4リッターのタンク2つを持って戻ってきました。内心こんなに沢山買えるのかと思う、と同時にこんなに飲んで大丈夫なのか少し心配になりましたが若者達の嬉しそうなしぐさを見て自分も何とか仲間になれたようで心が弾み、そしていよいよ宴会の始まりです。

カリバスと言うヒョウタンに似た器を皆で廻しながら少しずつ飲みます、酒は日本では少し強いほうでしたので、私は少しほろ酔い加減で日本には「イッキ」という飲み方があるといって飲み方を教えると若者達はもう止まりません、皆で「イッキ!イッキ!」と言いながら何度も繰り返すうちに8リッターのドローは瞬く間に無くなってしまいました。

気が付くと地べたに寝ているものもいれば隅のほうで「ゲーゲー」とやっている者もいます。「何だ?皆もう酔っ払ったのか、不甲斐無い奴らだ。」などと言いながら午前11時ころ事務所に歩いて行ったことまでは覚えていますが、それから先は全く白紙で気がつくと翌日の午前11時ごろで事務所のソファーで目が覚めました。

昨日の二日酔いで頭痛と気分が悪く水を飲み暫くするとフィデルが来てニコニコしながら私を見ると「イイダは酒が弱い。24時間寝てた。」などというので少しムッとして「ドロー セパボン」と言うとまたフィデルが大笑い、そのうちに大家さんの家族が来て昨日の話で持ちきりです。

すかさずフィデルの悪態「この次は何時イッキをやるの?」などと聞くので私はムムッとして「今日はしない。」と答えるのが精一杯でした。と同時に悪いことを教えてしまったと反省。

大家さんの家族を御紹介しますと、ムッシュ・バルコマはこの家の主で62歳、税務署を退職し現在運輸会社の重役です。働き者でほかに4箇所の貸家があり車はもちろんメルセデスで大きいお腹はいかにも主の貫禄があり、とても陽気で家族的な人柄です。

奥さんのマダムバルコマは56歳、良妻賢母を地で行っているような人でお金持ちの奥さんの割には派手さが無く、家の要として家事をする傍ら洋裁が得意でいろいろな人が服を作ってもらいに来ます。

長女のアンドレアは35歳、バス会社に勤務していてロズモンドという7歳の娘がいて、いつも仕事で忙しそうです。

次女のナターシャは御主人と10ヶ月になる娘のアンドリンと共に隣の国マリに住んでおり時々実家に戻り2ヶ月ほど過ごしていきます。やはり生まれたところは一番良いのでしょうか気さくな性格でいつも賑やかです。

三女のフランソワーズは26歳、家事手伝いで独身、料理が得意で時々ご馳走に預かります、真面目で堅実な人です。

四女のエステルは23歳独身、保健学校に通っており将来は看護婦を目指しています。とても明るく彼女の独特の笑い声は周りを明るくさせます。

長男のボリースは22歳、経理の専門学校に通い将来は銀行に勤務したいといっております。オーディオが好きでとても真面目で慎重派、しっかりものです。

そして末っ子のフィデル、20歳、メディカルスクールに通っていて将来は薬剤師志望、HIP・HOPが好きな日本にもいるような若者です。酒、タバコ、ガールフレンドと時々ダンスホールに行くなど青春を謳歌しています。

 もちろんこのように恵まれた家庭はブルキナファソでは少なく、ワガドゥグでは定職に就かず物売りや建設の日雇いで毎日を過ごすだけで精一杯な人たちがほとんどです。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その16)

2016-01-06 | 奮闘記

NO.16[マラリア感染]

村から戻った翌日いつも私より早く起きているはずのSさんが起きて来ません。きっと昨日の疲れが残っているのかと思いながら事務所の掃除をしていますと部屋からタオルケットを体に巻いて出てきました。「マラリアにかかったみたいです。」、「えっ!マラリアですか!」私は驚いて見ますと顔色も蒼白く、熱があるみたいで小刻みに震えています。

これは大変と思いとりあえず行きつけのクリニックに急いで行くことになりました。乗り合いタクシーに乗り30分程の所にそのクリニックがあり、玄関に入ると60代後半位と30歳位の女性が椅子に腰掛けてピ-ナッツを食べております。

患者さんの付き添いの人がいるのかなと思い、受付は何処かと辺りを見回してもそれらしき所は無く、友達のラミンが何かその人に話をしていますと、その女の人は奥の部屋に行きしばらくすると戻ってきてドクターは今外出中なので待ってくれ、という事でした。Sさんは相変わらず高い熱がある様でぐったりとして辛そうです。

2人の私服の女性はナースだったようで体温計を取り出して熱を測るようSさんに手渡しました。それから1時間位待っている間にいろいろな行商の人が来てはナースに物を見せては話をしたり買ったり食べたり、患者はSさん一人だけだったのですがナース達は多忙です。

突然ドクターが何処からともなく来て診療室に案内され、普通は血液検査をするのですが体温と問診の結果やはりマラリアであるということでドクターが慣れた手つきで処方箋を書きナースに渡し約5分で診察終了です。

このような経験は私も日本の病院でありました、胸の間に硬い物があるので腫瘍でも出来ていたら大変と思い、母のかかっている大学病院へ行くことにしました。受付をして外来の待合所にいくと大勢の人が待っています。2時間後やっと診察をしたもらい採血をするところに行きレントゲンを撮るというのでその所へ行くとそこにもまた何人も待っており、それが終わると再び診察室の所でしばらく待ち、最後にドクターの言葉は「来週結果が出るのでまた来てください。」10時に受付をして帰りは午後3時でした。

一週間後、犯罪者が最終判決を受ける時のような沈痛な気持ちで病院へ行き診察室の前で再び長時間待ってナースに呼ばれやっと中に入りドキドキしながらドクターの説明を聞くと、レントゲン写真を見ながら「これは肋骨の間にある軟骨です。これは誰にでもあるもので特に問題は無く、これからもお大事に」と言う事でした。

今までの心配は一瞬で吹き飛んでしまいましたが同時に何と無く今の病院の在りかたに不満を感じます、確かに検査は大切なことですが普通私のような症状でしたら問診、触診でも充分わかるはずです。検査ということで多くの時間とお金を払うのは単なる金儲けしか考えていないのかと疑いたくもなります。

話を戻しますが、ナースにドクターの処方箋にある薬を近くの薬局で買って来るように言われ早速買いに出かけました。急いで薬局で注射と抗マラリア剤と解熱剤を買って帰り渡しますと60代後半のナースがゆっくりと落ち着いたしぐさで注射器にそれぞれの薬を入れ準備をします。

動作が遅いのは慎重なのか高齢の為かは判断できませんが熱で震えている患者の方はあまり意識せずマイペースに事を運んでいます。玄関のところが待合権処置室で高齢のナースの口の中にはまだピーナッツが残っているらしく口を動かしながら注射を持つ手がブルブルと震えています。こんなことで大丈夫なのだろうかと息を飲んで見ているとアルコールで消毒をして注射針がSさんの血管の所に近づくとナースの震えがピタッと止まりました。「さすがベテランのナースは素晴らしい。」と別の意味で感心してしまいました。

処置が終わり、まずは一安心ということで事務所に戻りSさんはベッドで休んでおりますが熱が高いのかとても辛そうです。ところが翌朝も熱が下がらず再びクリニックに行くとベテランナースが昨日の夜に来いといったのにどうして来なかったのかといっており、どうやら解熱剤を夜に注射することになっていたのを聞き漏らしてしまったようでした。

彼女は処方箋のところに、またいくつかの薬を書き、買ってくるよう言い、聞くと点滴のようで私とラミンは急いで少し離れた所にある大きな薬局へタクシーで向かい、薬を買って戻るとベテランのナースは出かけているらしく、若いナースに渡すと彼女は早速点滴の準備をし始め、Sさんの腕に針を刺しましたが彼女はまだ経験が浅いと見え2,3回やり直しやっと血管の中に入りました、別の部屋のベッドで点滴をしていますが中は熱く蚊も沢山いて、もしこの中にマラリアを持った蚊がいたらまた感染してしまうのではなどと思いながら点滴が終わるのをひたすら待っておりました。

点滴が終わり、また翌日ということで事務所に戻りましたが、相変わらず熱があるらしく元気がありません。数ヶ月前にもマラリアにかかったそうでそのときは注射をして1日で熱がなくなったそうですが今回はちょっと強いようです。

翌日になり幾分熱が下がったようで顔色も大分よくなっておりました。今日も再び病院へ行きまた点滴です。やはり昨日と同じ若いナースが担当です彼女は早速準備しSさんの腕に針を刺しますがなかなか血管に入りません。数箇所やり直しているうち温厚で我慢強いSさんもとうとう悲鳴を上げ、若いナースに抗議をして点滴をはずしてしまいました。

この国でもナースを養成する学校はありますが日本のように高度の医療知識や経験を修得しているナースは少ないようです。また国唯一のワガドゥグ大学には医学部はあっても付属病院はあるのですがインターンはフランスで行い、ドクターも先進国で医学を学ぶようです。外国のほうが高度な専門医療が出来るうえ収入もよいので、この国に帰る人は少ないようです。

この国は医師1人に対しての人口が日本は543人に対して240.000人と遥かに不足しております。そのために治る病気も手遅れになることもあり、お金がないため病院に行くことが出来なくて亡くなる人がとても多いことも事実です。

3日目になってSさんも大分回復してきたようで笑顔が戻ってきました。今日は一人でクリニックに行けるということで出かけ、しばらくして帰るとまた再び若い看護婦に注射をされたらしく乱雑で非常に身に危険を感じたということでした。腕を見るとあざがたくさんあり、熱があるうえに何回も痛い思いをして本当にお気の毒なことです。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その15)

2016-01-05 | 奮闘記

NO.15[イミオグ村]

8月半ばに入り私も到着して1ヶ月たち、何と無くワガドゥグの環境にも慣れてきました。

Sさんは帰国の準備や日本からの物資輸送に係わる事柄、日本への民芸品の買い付けと慌しく動き回っております。

そのようなある日、マダム.ウエオドラオゴの紹介するイミオグという村を視察に行くことになりました。イミオグ村はワガドゥグより北に約100キロの所にあり隣の国マリの国境に近く、小高い丘の多い所でここでは金の採掘が盛んに行われています。村に行くと木陰で子供が一人寝ており、聞くとどうやらマラリアにかかっていたようで側には村の薬草で作られた薬が置いてあります。

この薬はアカシア、ニム、パパイヤ、エカルプトゥスの葉にゴヤーブの実を混ぜて擂り潰し水に溶かして飲んだり、鍋に入れ煮立て頭から大きな布をかぶり蒸気を吸って汗を出したりしますが、熱を下げ体力を回復させる効果があり、村では昔から使われているものだそうです。

マラリアというと私達にはとても重い病気のように思われますが、この国の人はインフルエンザ程度にしか思っていないようです。また、この村の飲料水は10メートル程の井戸で、この水はギニアウォームの混在する可能性があり飲料水には向いていません。

少し離れた所には赤ちゃんを産む分娩所が在り、土を固めたブロックの建物で6畳間くらいの広さでその中には同じ土で固めた一畳くらいの分娩台があり、薄暗く地面には雨水が溜まっており衛生的にはとても良くありません。

ここの人々は生まれた時からこんな苛酷な環境の元で生活しているのかと思うと5歳未満で死亡する割合が日本は100人中0.5人に対して16人、平均寿命が46歳ということも不思議ではない事と感じます。

同じ人間として生まれ、場所や時代により運不運があることは事実と思いますが、21世紀の今日でこれほどかけ離れた生活を見るのは衝撃に近い印象を覚えると共に、せめて産婦、乳児への1日も早い環境改善を切望して止みません。

また、この村ではエイズの感染者が多く、年に6,7人もの人がエイズで亡くなっているといいます、都会ならともかく人口の少ない村でこれだけの人が亡くなるということはこの国をこれから支えて行く若い人々にとって、とても深刻な社会問題でもあります。

私はこの村を視察してブルキナファソの縮図を見た様な気が致します。しかし子供達の笑い顔や炎天下の中で汗をかきながら、もくもくと働いている人々の姿を見るとアフリカの人々のダイナミックなエネルギーを感じます。

この様に過酷な環境でも逞しく生きていくことに自分を含め今の日本人には何かが欠けていることを教えられたようにも思えます。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その14)

2016-01-04 | 奮闘記

NO.14[ボホベレバ村]

ワガドゥグより西に400キロ離れた所にボホベレバ村があります。バニキディ村とはちょうど反対の方角になりDr・イヴがプロデュースされている村でバニキディ村同様、学校や診療所、深井戸の建設整備を始めスクール机や椅子、保険衛生教育や薬の配備、教科書、ノート、ペン、石鹸、などの配布活動を数年に渡り行っています。

 今回は、教科書とノートペンの補充と製粉施設建設の為、村の人達と打合せをするという事で訪問する事になりました。メンバーはDr・イヴ、Sさん、ドライバーと私の4人、自動車に教科書やノート、ペン、石鹸を積み早朝に出発しました。

Dr・イヴは大学教授なのでさぞかし難しい性格の方なのかと初めて会った時は思っておりましたが自宅へ迎えに行くと日本語で「オハヨウゴザイマス!ソウソウソウ」とおどけています。見た目とは違いかなり明るい方で少し安心しました。

1時間程経過してDr・イヴが突然「ちょっと電話をかけたいのだけど止まって」と言ったのですが、周りは草原で電話ボックスは何処にも見当たりません。確か携帯電話を持っていたはずなのに、彼は外に出ると道路脇の草むらに歩いて行き小用を足してしております。間もなく戻ると「自然とのコミュニケーションをしていたのだよ。小はテレホン、大はファックスさ。紙を使うからね。」それを聞いて皆で大笑いです。

道中はDr・イヴの独壇場、おかげで村まで楽しく行くことが出来ました。

 村に着いたのは午後1時ごろ、村の人達が大勢で迎えてくれ一人一人挨拶をします。村では「ポー」というのが挨拶の言葉だと教わり「ポー」「ポー」と挨拶をしているうちに何と無く親近感が沸いてきました。

奥の家がDr・イヴの住まいと言う事で狭い通路を行くと土で作られたブロックを重ねてある塀や家が不規則に立っていてまるで迷路の様で、その一番奥まった所に家がありこの村の中では近代的な造りです。ひとまず荷物を降ろして一休みとソファに腰を掛け一時すると料理が運ばれてきました。

器の中から何とも言えない良い匂いがしますDr・イヴがふたを開けると鶏のソースとトーです、その後からはバケツに入ったチャパロ、彼はこれが大好きと見えて「トラディショナルビアー」と言いながらバケツからカリバスの器に並々と汲み取り皆に振舞います。そのとき初めてチャパロと言う物を飲んで、始めの内は独特の匂いがあり、なかなか喉を通りませんでしたが、酔いが廻るとだんだん慣れて来てビールの様に飲むことが出来ます。

ところがアルコール度数が高いのか後から一段と効いて来てカリバス2杯ばかり飲みますと完全に酔います、トーも少し酸味があり鶏のソースととても合っていて美味しく村の人達や風景に包まれながらひと時を堪能させて頂きました。おいしい食事が終わり診療所のドクターに案内され音楽室やクリニック、学校などを見学した後イヴの家の前にあるテラスに村の主な人達が集まり会議の始まりです。

Dr・イヴはさすがに教育者らしく少し速いテンポで話し、フランス語の解らない私も自然にうなずいてしまう様な歯切れの良い語り方で説明をしています。村の人達の色々な質問にも細かく答え90分程で終了しました、終わると徐にチャパロを出し「Sサン!イイダサン!トラディショナルビール!」とカリバスを渡されもう一杯、村の人達も帰り4人で椅子に腰かけているとボホベレバの草原の匂いと月の明りがとても心地よく感じられます。

「ここは私にとって一番落ち着く所です。」とDr・イヴが大きく深呼吸をして満足そうにまったりと椅子にもたれています、電気もなく土で作られた家は床も無く、コウモリや蚊は多いし何処に行くのも不便な村の生活は私にはとても困難ですが、彼の勤めているワガドゥグ大学は都会の中心ですから人も多いしバイクや車も沢山走っています。

その様な所で毎日忙しく仕事をしていると、自分の生まれ育った所が一番居心地の良い場所なのかなと感じました。夜も更けてチャパロの酔い心地も手伝い眠さが増して来ました。村に泊まるのは初めてなので少し戸惑いましたが、村の人が親切にバッテリーに蛍光灯を繋いでくれたりバケツにお湯を汲んでくれ、それで汗を流したりしてこれで何とか眠ることが出来そうです。

ボホベレバは雨量の多い所なので夜は涼しく、眠るのにはとてもよい環境ですが蚊も多く、防虫スプレーをつけていないと体中刺されてしまいます。しかし村の人達はその様な物はないし、どの様に過ごしているのかとても不思議です。朝になり部屋の外に行くと村の人達はもう働いていて、男の人は畑仕事で女の人は臼でとうもろこしを搗いたり、ポンプで井戸水を大きなたらいに汲み運んだりとても忙しそうです。

「ボンジュールDr」とDr・イヴに挨拶をすると「イイダサン、オハヨウゴザイマス、ソウソウソウ」、とチャパロの入ったポリタンクを差し出します。「ノ、ノ、ノンメルシー」さすがに昨日の余韻が覚めやらぬところなのでお断りしました。朝食を頂き私達が学校へ行くと夏休み中でしたが先生達が待っていて、そこで車に積んできた教科書とノートやペン、石鹸を渡しブルキナファソの第二の都市ボボディュラソへと向かいました。

ボボディュラソは丘陵地であるせいか何と無くワガドゥグとは雰囲気が違います。昔はジュラ族の都として栄えた所でも在り、近くにはいくつかの河川が在り近隣の町バンフォラは水の都としてとても風光明媚な所です。また此処にはDr・イヴのセカンドハウスが在り、以前お父さんの住んでおられた家でお父さんがお亡くなりになり今約半分はボボディュラソで生活をしているそうです。

市内の入るとまず目に入るのがイスラム教の巨大なモスクで、土のブロックで作られたモスクは古くからの物でボボディュラソの象徴でもあるそうで、近くに行くと日本の神社仏閣のような霊験あらたかな心境になります。それからボボディュラソ駅(SITALAIL)も白い大きな建物で美しい造りです。しかし残念ながら隣のコートディボアールが内紛で国境閉鎖をしているため鉄道は不通になり今は使われておりません。(2015年現在は開通)

駅の近くには大きなマルシェ(市場)が在り、後楽園球場くらいの敷地に色々な店がぎっしりと並び、中に入ると間口3~4メートルくらいの店が軒を並べ上野のアメヤ横丁のような感じで、衣、食はもちろん電気製品、工具、薬、服の仕立屋その他あらゆる物が売られています。

私達は駅前のレストランで昼食を取ったのち今日はこの街のホテルに宿泊をすることになり、Dr・イヴのお勧めで繁華街の中ほどにあるホテルにチェックインし時間も余裕があったので彼の家に行くことになりました。

Dr・イヴの家は市街からはちょっと離れた所に在り、白い壁に囲まれた家はモダンな造りで中に入ると大きな居間には高級な家具、いかにもハイクラスな佇まいで、音楽が好きと見えてサイドボードの横にはコンポーネントステレオがあり、窓の外のガレージにはドイツ製の高級車、村の家とは相まってこちらは近代的な暮らしで、都会と田舎と郊外に3つも家があり、なんとも羨ましい限りです。

翌日、ボボディュラソの近くのクンセニという村に行き教科書やノート、ペン、石鹸を配布した後、Dr.・イヴがボボディュラソで組織している「SIDA  KA  TAA」というアソシエーションの事務局に行き色々とお話しを聞くと、「SIDA」はエイズのことで、「KA TAA」はジュラ語で「出て行け」という意味らしく世界中で深刻な病気もこの国では感染者が特に多いそうでボボディュラソで毎年コンサートを催し音楽を通してエイズの感染防止を呼びかけており、著名な会社、団体の協力や外国のミュージシャンも参加するなど年々大きなイベントになりつつあるようです。

この活動を通して感じたことですが、村では農民が毎日の生活の中での食べることだけで精一杯で居や住はとても質素です。日本も嘗てそうであった様にブルキナファソの農工商の内92.2%を占める農業就労者の生活向上がこの国を豊かにするきっかけのひとつと言っても過言ではないと考えます。

農民の暮らしが少しでも豊かになれば国も豊かになり学校や道路もよくなります。一日も早く村の人達が感染症やそれを治す医療処置はもとより学校に行けない子供達が一人でも少なくなるよう国の農業政策の進展が期待されてなりません。


次回をお楽しみに・・・・


迎春*中年派遣員奮闘記(その13)

2016-01-03 | 奮闘記

NO.13[ワガドゥグ独り歩き]

ブルキナファソに来て1週間ほど過ぎた頃、Sさんよりワガドゥグの街を早く知るのに一人で行動して見てはと言う提案があり、それまで何処に行くにしても道や場所が解からないので行く所へついて行くのが当たり前と思っていましたので、とても不安でしたが思い切って行動して見ようと決心し、ちょうど郵便局まで行く用事があったのでタクシーで行く事にしました。乗る場所と降りる場所の地名を聞いて身支度を整え、その時の心境は3~4歳の子供が初めてのお買い物に行く時の様です。

大通りに出ると緑色のタクシーが沢山走っていて、いつもSさんが車を止める時の様に右手を出し車に合図をすると、当たり前の事ですが私の所に止まってしまいました。タクシーの運転手と乗っていた乗客がこちらを見ています。緊張していたのか恐る恐る運転手に「パームツリーホテル」と言うと、ちょっと時間が止まったかの様に無言の時間があり運転手は進行方向を向き行ってしまいました。

ちょっと発音がまずかったかと思い次のタクシーが来たので気を持ち直し何回か練習をしながら手を差し出し、タクシーが止まると今度は少しゆっくりと「パームトゥリーホテル」と言いますと,またしても運転手が首をかしげながら走り去ってしまうではありませんか。

自暴自棄になり、もし今度行かれたときは帰ろうと思いながらタクシーを待ち、もう1度手帳に書いた場所に目を通し、よく見ると「パームビーチホテル」だったのです。

やっとのことで車に乗ったのは良いのですが今度はパームビーチホテルの場所が解らないのです。こちらのタクシーは乗り合いなので決まったルートしか通らず料金もその範囲であれば200セファー(40円)でそこから外れると高くなり、日本のタクシーのようにその場所まで連れて行ってはもらえないので、その場所に行ったら運転手に声をかけて止めてもらいます。

その時タクシーには5人くらい乗っていましたので止まるたびに周りを見渡し注意深くホテルを探し「海がないのにパームビーチ、それはないだろう~。」などと呟きながら行くと繁華街の十字路の角のところにホテルはありました。

そこでからプレジデンス(大統領官邸)の近くの郵便局まではタクシーのルートが違いますので乗り継ぎます。ところが今度はプレジデンスの場所を知らないのでどちらの方向に行くタクシーに乗れば良いのか解かりません。

考えても仕方がないので十字路の所でそれぞれの方向に行くタクシーに声をかけまくり、やっと思いでプレジデンス方向のタクシーに乗りまた周りを注意しながら行きますと前に白い大きな建物が見え一段と豪華な建物なのですぐそれと解りました。

このあたりは政府の色々な機関が集まっており機関銃を持った警官が沢山いて、なんとなく繁華街とは異質の雰囲気で、タクシーの運転手はプレジデンスのちょっと手前で止まりました。

郵便局はプレジデンスの並びにあり500メートルほど歩いて行くのですが、道を歩いていると機関銃を持った警官がこちらを見ていてなんとなく不気味で、何も悪い事はしていないのにもかかわらず、もし職務質問でもされたら言葉を知らないので大変だと思い、あまり周りは見ない様にして歌を口ずさみながら自然と早足で歩きました。

郵便局に行くと奥の入り口の左側に私書箱があり、そのナンバーの所を鍵で開け郵便物を取り、これでひとまず用事は済みました。

 さて今度は帰り道です、郵便物を取り終えて表通りへ出て、また来た道を引き返し歩きましたが警官のいる所を通るのが何と無く嫌なので暫くタクシーの来るのを待っていましたが5分経っても10分経っても車は来ません。

仕方なく警官のいる所をまた通る事にしました。人間の心理状態というのは不思議な物で、一端その様に思い込むとなかなか払拭出来ないもので、警官の方は何とも思っていないのに、こちらの方で妙に意識過剰になり、前を通り過ぎる時にいかにも郵便局へ行って来たと解る様に封筒で扇子の様に扇ぎながら、警官の方を見ない様にと思っていると見てニコニコしてしまったり、後で思うと御目出度い東洋人に見えてしまったかも知れません。

機関銃と警官の姿が見えなくなるまで振り向かず歩いて行くとタクシーに乗ることをすっかり忘れ繁華街まで来てしまいました。

とにかく早く帰ろうと思いタクシーの運転手に暗記した手帳に書いてある地名をいうとまた通じません、地名はサマンデンヌゴグドロン、日本人にはどうも解釈のつかない発音です。(本当はサマンデン・ヌーボー・グドロン)

ここでも何台か行かれた後やっと解かった様でとりあえず乗り込みましたが町並みが皆同じに見えて何処で降りたら良いのか解からず、運転手が後ろを振り向き盛んに聞くのですが一向に解かりません。

だんだん焦りも出て来てあまり遠くに行く迄に降りた方が良いと考え、お釣りを受け取るのも忘れ、とりあえず周りを見ても同じような店や屋台の形で何処が事務所か見当がつかず、きっと運転手は自分の言った場所と違う場所に来てしまったのだ。と思うと急に不安に陥り、もしこのまま夜になったらどうしようと思うと居ても立ってもいられず緊張し喉が異常に渇いたので、ミネラルウォータを買ってそれを飲みながら一目散に無我夢中で歩き出しました。

途中何回か聞きながら事務所を探したのですが全然見当たらず、3時間くらい同じ道を行ったり来たりしているうちに暑い事もあり疲れも出て来ました。冷静に冷静にと自分に言い聞かせ、少しずつ距離を伸ばして行くと何時も行く店のお兄さんが立っていたので、そこでやっと解かりました。何時もの道を反対の方向から来たので解からなかったのです。

何しろ初めての道で見当もつかず何処も同じ所に見え、パニック状態でまるで迷路に入った時の様な状態でした。

私はやっとの思いで事務所に戻り、Sさんに「いや~思ったより簡単にすんなり行けましたよ。」と苦笑しながら封筒を渡すと、郵便局の私書箱は共同で使っていて他の人の封筒も持って来てしまった様です。

また翌日返しに行く事態になり、顔もこわばり身も心も疲れ果てた私にとって、気の遠くなるような心境でしたが、とりあえず明日に備え早く寝る事にしました。


次回をお楽しみに・・・・


中年派遣員奮闘記(その12)

2016-01-02 | 奮闘記

NO.12[バニキディ村]

ワガドゥグから北東約300キロの所にバニキディという村があります、そこはDr.ディアノウがプロデュースされている所で、私の派遣団体では学校や診療所、井戸、などを作るほか、保健衛生教育や、教育面で教科書やノート、ペン、石鹸などを配布するなど数年に渡り係わっており、今回の訪問は離乳食と学校給食を作る施設建設の事で村の人達との事前の話し合いをすると言う活動です。

どんなに日本から色々な施設や物を与えても、それを使う人達の意見や意思、意識がなければ何もならないと言うSさんの話しを聞き、確かにブルキナファソは、まだ電気や清潔な飲み水も無い所が多く、また貧困の為病気になっても病院にかかれない人や学校へ行けない子供も沢山いて日本で考えるよりも実際に苛酷な環境の中で生活をしております。

それゆえにどんなに便利な物でもそれを使えるだけの知識や技術、維持するための最低の財力が無いと使い物にならないか、使えても維持管理が出来なくては宝の持ち腐れとなってしまいます。それにはまず村の人達との話し合いを充分にした上で村に人達が主体となって恒久的に使えるようにしなければ意味がないという事です。

ワガドゥグを出発したのは7時頃で、5人乗りのトラックにはドライバーとタプソバさんそしてDr.ディアノウと息子のマリオ君、そして清水さんと私の6人で乗り込みましたがトラックは少し後部座席が狭くかなりの鮨詰め状態です。ワガドゥグから数十キロ行った所からは舗装道路からラテライト道路になり、おまけに雨季なので雨が降るたびに道路が傷みます。

トラックはあまり乗り心地のことは考えて造られてはいない様でガタン!ガタン!と体に伝わる衝撃は予想したよりも激しく、道の壊れた所を縫うようにトラックは走ります。

約150㌔行った所で昼食を取る事になり、ブルキナ風ドライブインとでも言えましょうか広い敷地に屋根のあるテラスが5つ6つ在りとても良い雰囲気の所です。

私は朝から何も食べていませんのでビールとライスにピーナッツソースをかけたものを頂きました。鶏をピーナッツバターとコンソメスープで煮込んであるソースでこれが日本ではちょっと味わえない風味です。皆お腹もふくれ休息をして再び苦痛の道のりです。

しばらく車に揺られておりますとなんとなく込上げる物があり汗が出て、このまま我慢しようと堪えましたが車の振動が激しく、とう とう耐えかねて車を止めてもらい先ほど食べた物を全部出してしまいました。日本ではこんな事は無かったので、これから先は長いしとても不安にかられます。

20分程休息してどうにか気分も落ち着いて来たのでどうにか続行となりました。どこまでも続く悪路、揺れる車の中で「これがアフリカだ」と思いました。

バニキディ村に着いたのは夕方6時頃、もう日も暮れかかっていてDr.ディアノウが村の主な人達を紹介してくれ一通り挨拶が済むと診療所の前に行き一時たつと徐々に人が集まりだして、大人子供を含め約40人程度男性と女性のグループに分かれDr.ディアノウの進行で会議が始まりました。

議題は離乳食と学校給食を作る施設建設に付いてです。Dr.ディアノウが施設に付いてまず説明し、後に質疑応答デスカッション、会議は約1時間、最後はみんなで拍手をして滞りなく終了です。

会議も無事終了しボガンデと言う近郊の町に宿泊する事になり、街のレストランにて食事をしましたが初めての旅の疲れか体調も思わしくなく食欲も無いのでコーラを頂きましたが他の方々は美味しそうに鳥の料理を食べています。

Dr.ディアノウが「食べないと元気が出ないよ。」と言ってくれるのですが匂いだけでもまた気分が悪くなりとても食べる状態ではありません。ホテルは一戸建てで5部屋位あり一番奥が私の部屋です。

中を見ますと薄暗い部屋にベッドが在り、1日の汗を流そうとシャワルームに行くとタオルと石鹸が有りません、それまで日本のホテルの感覚でいましたので備わっているだろうと思っていたのは間違いでした。

疲れていて借りにいくのも面倒なのでとりあえず水で汗を流してハンカチで体を拭きベッドに倒れこみました。しかしそれからが大変、蚊は沢山いるしカヤがないので刺されないようにまた服を着て寝ると今度は暑苦しくてどうしようもないので扇風機を最大にして寝る事にしました。

ところが夜中の2時頃、雷の音で目が覚め間もなく停電に見舞われ、真っ暗の中で何も見えず暑くて体は汗でびっしょり、また「これもアフリカだ」と思い知らされました。

朝になり体は重くだるいので気分転換でも図ろうと外に出ますとマリオ君が居て、一緒にあたりを散歩していると沢山のアリがいます。そのアリが日本のアリに比べると3倍位あってあまり大きいので驚きます。アリの通り道を辿って行くと小さなアリを捕まえ自分の巣へ運んでいる様です。

そこでちょっといたずらをしてアリの通り道に大きな石を置いて見ると一瞬パニック状態になりますが又何も無かった様にもくもくと作業を続けます。「アリの世界も弱肉強食なんだな」などとちょっと複雑な心境に陥り、しばらく見とれていると出発の呼び声がして慌てて部屋に引き返し荷物をまとめ車に乗り込みました。

また帰りは過酷な道のりで、昨日の事も有り朝食は軽めに済ませワガドゥグへと車は走ります。

約半分の所で一休憩と言うことで車を止め固まった体をほぐしまた出発です。後部座席が窮屈なのでタプソバさんが荷台に乗り20キロくらい走った頃突然タプソバさんが大声で運転手に何か話をしています。

車が停止して話を聞くとどうやら財布を落としてしまったらしく、免許証や身分証明書なども一緒に入っていた為これは一大事と言う事で、又来た道を引き返す事になりました。道路ですれ違う人一人一人聞きながら戻ったのですが見当たらず、荷台に乗り移った所まで引き返しても有りません。

諦めて又引き返すと10キロほど行った所で財布が見つかりましたが、残念ながらお金と免許証が無くなってしまった様です。とても気の毒で何とも言えない心境でした。日本では荷台に乗って悪路を何十キロも行くと言う事は今では有り得ない事ですし、お金はともかく免許証は戻るはずです。

また「これがアフリカだ」と感じました。


次回をお楽しみに・・・・