西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

命の終着地

2008-01-29 | Weblog
人は地上に生を受けたときから命の終着地を目指して旅に出ます。

終着地までは様々でたいていは自分では見えません。

旅の途中は、いろいろな命と触れあって喜怒哀楽があったり、

命を宿す体に好調不調があったり、

生き甲斐をもって行く人もいれば、

もう行き場の無い絶望の中でも行く人もいるし、

ひたすら明日を夢見る人や、

ひたすら昨日を振り返る人もいて、

他の命をやり取りしながら、
命の旅をする人や、

明日食べる食料も無いのに、
赤ちゃんにお乳を飲ませる母もいる、

それでも、

命の旅は続くのです。

悲しいのは、

自己の命の終着地が他によって決められること、

もっと悲しいのは、

自己が他の命の終着地を決めること、

もっと、もっと悲しいのは、

自己の命の終着地を自己で決めること。

トーマス サンカラ国連演説訳文

2008-01-29 | Weblog
「わたしは、
 愛するブルキナファソの人々を
 代表するだけではなく、

 世界の片隅で、もがき苦しんでいる、
 すべての人々を代表して語りたい。


 黒い肌をしているだけで、
 あるいは文化が異なるというだけで
 ほとんど動物と変わらない扱いしか受けていない
 この数百万人のゲットーにいる人々を代表して
 わたしは語りたい。


 男性によって作り上げられた
 システムによって苦しんでいる、
 すべての女性を代表して、
 わたしは語りたい。


 マラリヤや下痢といった
 簡単に救う方法があるにもかかわらず、
 貧しさや、知識の不足から、
 子どもたちが死んでいくのを目の当たりにしている、
 すべての母親たちのために、
 わたしは語りたい。


 お金持ちの人々のショールームの
 武装された警備で守られている厚いガラス窓を、
 いつも、お腹を空かせて見ている貧しい子どもたちのために、
 わたしは語りたい。



 わが国は
 人類のすべての苦悩を統合したような
 苦しみに満ち溢れている。

 だが同時に、
 戦いの希望にも満ち溢れている。


 死の商人たちが独占している
 最新の科学技術、
 それをじっと見つめる
 不安げな病人たちに代わって
 わたしは打ち震えるのだ。


 そしてわたしは、
 自然破壊の犠牲となったすべての人々、
 飢餓という恐ろしい武器によって死に至っている
 年間3000万人の人々に思いを馳せている。


 世界中の国際会議で発言しようとしているすべての人々、
 彼らの声が届くように、
 そして真剣に問題を取り組むために、
 わたしはここに立ち上がる。


 この国連の会議の場で、
 わたしの前では多くの人々が発言してきた。

 そしてわたしの後にも発言者が続くであろう。


 しかし、建前上はみな平等の権利をもって
 会議に臨んでいるとしても
 実際の決定権を握っているのは
 ごく少数の人々だけである。


 だからこそわたしは、
 世界中の国際会議で
 発言しようとしているすべての人々の
 声が届くように、代弁者となろう。


 そう、わたしは
 世界で見捨てられているすべての人々のために語りたい。

 なぜなら
 わたしは人間であり、
 人間である限り、
 わたしと無関係ではないのだから


 わたしたちの望みは、
 他の人々を排除するような
 黒人の世界を作ることではない。

 黒人として、わたしたちは、皆さんに伝えたい。

 『どのように、お互いを愛するかということを』

 ("As black people,
  we want to teach other people how to love each other.")」。

ブルキナファソの武士

2008-01-28 | Weblog

ブルキナファソを語るには、現在国民的な英雄とされているトーマスサンカラを抜きにしては語れません。 彼はアフリカのチェ・ゲバラとして現在でも多くの人々が慕っています。彼の生涯を知るほどブルキナ親爺の故郷であります坂東市の武将[平将門]を彷彿させられます。<o:p></o:p>

トーマス・サンカラ Thomas Isidore Noel Sankara   
1949年12月21日~1987年10月15日 

        → Une Seule Nuit 《サンカラが書いた国歌》

 トーマス・サンカラはブルキナ・ファソ(かつてのオート・ヴォルタ)の1983年から1987年までの指導者で、1945年12月21日、ヤコで生まれ、1987年10月15日、ワガドゥグーで死んだ(暗殺された)。
 個人的カリスマ性とレーニン主義社会組織の有能な結合で彼の政府は腐敗との闘いと、教育、農業そして女性の地位改善のために大いなイニシアチブをとった。
 彼の革命的計画は伝統的指導者と国の数的には少数だが強力な中間階級から大きな反対を引き起こした。
 このことと統治軍事政権の急進的集団とより保守的集団の間の軋轢のため、彼は没落し、1987年10月15日の流血のクーデターで暗殺された。

 

〔幼少期〕

 トーマス・サンカラ、通称トム・サンクはローマン・カトリックの家庭に生まれ、民族的にはモシ族の女性と牧畜フラニ族(Silmisi)の男性との通婚によって形成された集団であるシルミ-モシ(Silmi-Mossi)族であった。
 シルミ-モシはモシ族のカーストのなかでは最も不利であった。
 (モシ族はブルキナ・ファソのワガドゥグーを中心に住む農耕民で、支配階級はムスリム。
 フラニ族は周辺のナイジェリア北部やセネガル・ギニア・マリに広がり、イスラム教徒で牧畜フラニと都市フラニに分かれる。)
 初等教育はガワの学校で受け、高校は国の第二の都市であるボボ=ディウラッソで受けた。

 彼の父もまた兵士で第二次世界大戦の間フランス軍に従軍しナチスに抑留された。
 サンカラの家族は彼がカトリック司祭になることを望んだ。
 彼はマルクス主義の確信にもかかわらず、決してカトリックの信仰を捨てなかったように思われる。
 ムスリム人口の大きい国にふさわしく、彼はコーランにも精通していた。

〔軍人経歴〕

 オート・ヴォルタは1960年8月5日、モーリス・ヤメオゴを大統領として独立した。
 ヤメオゴは野党を禁止し権威主義的姿勢をとったので大衆の不満を買い、1966年1月軍が介入し、ヤメオゴを辞任させ、サングウレ・ラミザナ中佐が政府を形成した。

 サンカラは1966年、ワガドゥグーの軍学校に入り1969年に卒業し、1970年士官訓練のためマダガスカルのアンチラベに送られ、そこで1971年と1972年の大衆暴動を目撃する。
 1972年オート・ヴォルタに戻り、そのあとフランスのポーへパラシュート訓練にいった。
 1974年、マリとの国境戦争に参戦する。

 彼は首都のワガドゥグーで有名な人物となった。
 彼が礼儀正しいギタリストで(“Tout-a-Coup Jazz突然ジャズ”という名のバンドで演奏していた)モーターバイクが好きだったということが彼のカリスマ性に寄与している可能性がある。

 1976年、彼はポーのコマンド訓練センターの指揮官になった。
 1978年にモロッコのラバトのパラシュート学校でブライセ・コンパオレと出合った。

 オート・ヴォルタはラミザナのもと1970年に民政化したが、1974年には再び軍政に戻り、1978年に再度民政化したが政情は安定せず1980年11月25日、サイエ・ゼルボ大佐による無血クーデターが起こった。

 サイエ・ゼルボ大佐の大統領期間中に若い士官集団は秘密組織”共産主義士官グループROC”を形成した。
 最も良く知られたメンバーはアンリ・ゾンゴ、ジャン・バプティスト・ブカリ・リンガニ、コンパオレとサンカラであった。

〔政府での地位〕

 サンカラは1981年9月、軍事政権で国の報道秘書官に任命され、最初の閣議にバイクで出かけた。
 しかし彼が見た体制の反労働者傾向に反対して、”大衆に猿轡をはめる人々に不幸を”と宣言して、1982年4月21日に辞職した。

 その後1982年11月7日のクーデターで大医師ジャン・バプティスト・ウエドラオゴが権力につき、1983年1月、サンカラは首相になった。
 1983年3月、ニューデリーの非同盟諸国会議でフィデル・カストロとサモラ・マシェル(後のモザンビークの大統領)、グレナダの首相モーリス・ビショップと出会う。
 しかし5月17日、フランス大統領の息子、アフリカ関係顧問ジャン・クリストフ・ミッテランの訪問のあと、解職され、自宅拘束化におかれた。
 ジャン・バプティスト・ブカリ・リンガニもまた拘束された。
 これにより大衆暴動が起こった。

〔大統領〕

 ブライセ・コンパオレにより組織されたクーデターにより民族革命評議会CNRが権力を握り1983年8月4日、33歳でサンカラは大統領に指名された。
 クーデターはリビアによって支援されていた。リビアは当時チャドでフランスと戦争の瀬戸際にあった。

 サンカラは自分自身を革命的とみなし、キューバとガーナの軍事指導者ジェリー・ローリングスの手本に鼓舞されていた。
 大統領として彼は”民主的・人民革命RDP”を推進した。

 1983年10月2日サンカラはCNRの名で革命の方向性の演説DOPを行い、革命イデオロギーは反帝国主義と定義された。

 彼の政策は腐敗との闘い、森林再生、食糧危機回避と教育と健康問題に対し最優先に向けられた。

 人民革命会議TPRが設立され1984年1月3日最初の大会が開催される。

〔国際関係〕

 1983年9月、ポーでサンカラはローリングスと会う。
 12月にはキューバと科学・経済・技術協力協定を結ぶ。
 12月にはまたアンゴラの大統領エドワルド・ドス・サントスがワガドゥグーを訪問する。

 1984年2月、ローリングスがワガドゥグーを公式訪問。
 3月、アルジェリア、モーリタニア、アラブ・サハラ民主共和国を訪問。
 6月、アフリカ公式旅行に出発し、エチオピア、アンゴラ、コンゴ、モザンビーク、ガボン、マダガスカルを訪問。
 9月、キューバ訪問。
 10月、サンカラは西アフリカ経済共同体の議長になる。
 10月4日、第39回国連総会で演説
 11月には中国を訪問。同月、アディス・アベベのOUAサミットに出席。

 1986年8月ニカラグァ大統領ダニエル・オルテガが訪れる。
  9月、ジンバウエのハラレの第8回非同盟サミットでサンカラが演説。
 10月、ソ連訪問。
 11月、キューバ、ニカラグァ訪問。

〔首長の無力化〕

 政府は義務労働や部族税を受け取る権利のような部族長の持っていた多くの権力を抑圧した。
 CDR(革命防衛委員会)が人民大衆組織として形成され武装された。
 いくつかの地域では彼らは暴漢集団に堕落した。
 サンカラの政府はSERNAPO(国家人民サービス)により徴兵制を始めた。
 両者は軍隊の力に釣り合うものであった。

 1984年、最初の記念日が近づき、彼は国名を国の主要な2言語のモシ語とディウラ語で”高潔な人の土地”と言う意味のブリキナ・ファソと変えた。
 彼はまた新しい国旗を制定し新しい国歌(Une Seule Nuit:たった一夜)を作詞した。

〔女性の権利〕

 サンカラの政府は多数の女性を含んでいた。
 女性の地位の改善はサンカラの明白な目標の一つであった。
 西アフリカでは先例のない政策優先であった。
 彼の政府は女性割礼を禁止し、一夫多妻制を非難し、避妊を推進した。
 ブリキナ・ファソ政府はまたエイズがアフリカにとって大きな脅威であることを公式に確認したアフリカ最初の政府であった。

 サンカラは宣伝の優れた感覚を持っていた:彼は見世物的率先を行い、それが彼の人気に寄与し、ブルキナ人革命への国際報道からの注目をもたらした。

 ・彼は政府のほとんどのメルセデスを売り、ルノー5(当時ブルキナ・ファソで売られていた最も安い車)を大臣の公用車とした。
 ・彼はすべて女性のモーターバイク個人護衛隊を作った。
 ・ワガドゥグーの軍の食糧店をすべての人に開かれた国有スーパーマーケットに変えた。 (国で最初のスーパーマーケット)

〔暗殺〕

 1987年10月15日、サンカラは他の12人の士官とともに彼の以前の同僚ブライセ・コンパオレにより組織された
クーデターにより殺された。
 周辺国との関係悪化がコンパオレによって与えられた理由のひとつであった。
 クーデターのあと、サンカラが死んだと知られたにもかかわらず、いくつかのCDRは軍と数日間武装抵抗に乗り出した。

 サンカラはすばやく目印のない墓に埋められた。
 彼の死の一週間前、サンカラは国民に演説し、”革命の間、人間を殺すことはできても思想を殺すことはできない”と語った。

〔エピソード〕

 ”世界の半分が餓えるのはなぜか”という著書で有名なスイスの大学教授で反グローバリズムの活動家であるジャン・ジグレール教授とゲバラ、サンカラのエピソードは著名である。
 若きジャン・ジグレールはキューバ革命にあこがれ、1964年、UNCTADでジュネーブに来ていたゲバラに逢い、キューバ革命への参加を希望する。
 それに対しゲバラはジャン・ジグレールに対し君の戦う相手は多国籍企業であると諭す。 時にゲバラ36歳、ジャン・ジグレール30歳。

 1987年、ジャン・ジグレールとサンカラはアディス・アベベで出会う。
 サンカラはジャン・ジグレールに問う。
 「チェ・ゲバラは殺されたとき、何歳でしたか」
 ジグレールは39歳と8カ月だと答える。サンカラは
 「そうですか。私はそれまで生きていられるでしょうか。」と答える。

<o:p></o:p>


HARMATTANという季節風

2008-01-25 | Weblog
ブルキナファソにも冬があるのです。
10月後半ごろから北のサハラ砂漠から乾いた風が砂埃を伴って吹いて来ます。
12月~1月は最も風が強くなる季節で、ちょっと窓を閉め忘れたりすると、もう机や椅子は埃だらけ、毎日拭き掃除をしなければなりません。ちょうどこの時期に脳脊髄膜炎が流行します。突然高熱を出して手遅れになると死に至り、重度の知覚障害を伴うとても怖い病気です。親爺は元来丈夫なので滅多に病気にはなりませんが、この時期だけはあまり外に出ないようにしています。ブルキナベはバイクに乗るときにアイマスクを使います。アイマスクといっても目に付けるのではなく、口につけるのです。もう見慣れましたが始めの頃はアイマスクが大きな唇に見えて見ただけで噴出していました。日本のように良く出来たマスクが無いのです。ある日、友達がバイクで来ると頭やまつげが埃で白くなっていまして、黒い肌と白い眉、まつげ、それに口には例のアイマスク、親爺は次々に湧き出すおかしさをこらえるのに思いっきり自分のお尻をつねっているわけでございます。
又、この時期はとても空気が乾燥して気温も下がります。朝方などは10度位まで下がり肌寒くなります。先日ある村人との話しで、この国は10月~11月に生まれる子供が多いそうな。ブルキナベはとても寒がりなので、この時期はあまり外に出たがらないそうで、とは言っても家の中に電気は無く、テレビも無いので夫婦であれば当然ながらする作業は必然的に決まってくるわけでございます。しかし、それでなくても子供が多いので部屋には子供がたくさん寝ていて普通は6畳くらいの大きさの部屋が2つしかありませんので1つの部屋に皆寝るわけでして、それまで寝ないで騒いでいた子供たちもお父さんとお母さんの殺気立った気配を感じ、ピタッと寝るそうでありまする。ま~あ、寝たふりをしているのでして、声を出さなければ部屋は真っ暗だし、肌も周りに溶け込んでいますので子供たちには何をしてるかわかりませんでしょうな。
日本は少子高齢化で子供が少なく、元気な老人が健康保険証をお守り代わりにしっかりと握り締めて健康センターとやらに屯しておりまするが、彼らは自分たちの余生を楽しむことに夢中で、もうこれからの子供たちに如何に逞しく、知恵を絞って世を渡っていくかというすべを教えることはしません。つまり、今の親といわれる方が如何に不甲斐ないか、本当に情けなくなるのであります。時々日本のニュースでスケベ親爺が出会いサイトで自分の子供と同じくらいの子供にお金をあげていかがわしいことをするなど持っての他でありまする。そのような親爺がいるから子供も益々ひねくれるのです。子供は子供らしく、大人は大人らしく、父親は父親らしく、母親は母親らしく、「らしく」生きることを今の人たちは忘れているのではないかと思います。ある母親などは、娘と同じような格好をしてテレビに出てくるタレントにキャ~キャ~。それも良いでしょうが「らしく」するときは「らしく」しなされ。きっとそれが若いことと履き違えているのかと思うのです。
「らしく」は容姿を型にはめることではなく、人の生き様の中で、どのような名人でもどのような偉人でも憧れる、理想の容姿を探求することでありまする。言い換えれば「らしく」を探求していくとやがて本物に限りなく近づいて行くのです。
ブルキナ親爺もブルキナ親爺らしく、これからもより探求していこうと思いまする。

ぶるきな親爺学

2008-01-19 | Weblog
世の中には物や事柄を表すのに価値という言葉があります。人間の価値や物の価値、そして偉業やシステムなどの目に見えない価値。良ければ価値があるといい、悪ければ価値がないという。又、生きる価値があるとか価値が無いとか生命の存在にまで及び使われますが、果たして価値とは何であるか、そして何を基準にしているのでしょうか。
たとえばオリンピックは参加することに意義があるといわれますが、入賞しなければ価値が無い。仕事はまじめだが結果が悪くては価値が無い。悪人は人間としての価値が無い。
広辞苑で調べてみると誰もが良いと承認すべき普遍的な性質、真、善、美、とか、人間の好悪の対象になる性質とあります。となると人間を基準にしているようにも捕らえられますが抽象的で何となくピンと来ませんし、人間にとって価値の無いものでも、他の物事、すなわち動物や環境に価値があるものもあるのではないか、ということも考えられます。
勿論人間に良いことなのか人間以外に良いのかは必然的に人間が考えることといえるのですが、他の動物の間でも本能的に価値の無いものには、きっと興味は示さないのでしょう。
 たとえば、「付加価値」や「価値を見出す」という言葉があります。これは一見なんでもない物事が、ひらめき、すなわちインスピレーションがあって価値のあるものごとへと変化することですが、いうなれば物であれ、人間であれ、それぞれが価値を見出し、そしてそれを創造したり具現化したりします。その「インスピレーション」が、ある種の「エネルギー」を伴っていると考えられるのです。
私はこれを略して「インスピルギー」と呼ぶことにします。
例えば、土に埋もれた落ち葉が長い間に自然の力が働き石になり、やがて山が風化し、それを山に暮らす凡人が見つけ珍しい石だと思い拾って家に放り投げて置き、ある日、偶然山小屋を訪れた鉱物学者が質のよいダイヤモンドだということを発見し、それをたまたま聞いた知り合いに悪人がいて、こっそり盗んで宝石業者に売り、宝石業者は腕の良い職人に頼み、素晴らしい出来のダイヤモンドには名前が付けられ、お金持ちに買われ、それを身に付けることによって周囲の人々からの憧れがいっそう強くなる。などというストーリーも無きにしもあらず。
 さて、このストーリーの中でインスピルギーが繰り返されているのを、皆さんはお解かりになることと思います。葉っぱが石(融合力)、山男(労力)、鉱物学者(知識力)、泥棒(労力)、宝石商(鑑定力)、宝石職人(技術力)、お金持ち(財力)により価値を見出されて身に付ける人も大勢の人から憧れのまなざしを集めるようなダイヤモンドとなったわけで、これらの物事には努力や運、善悪とは別の連続したインスピルギーが働いて、少なくとも価値の有無や上げたり下げたりすることに深くかかわっていることに違いないと思うのです。私たちに備わっているインスピルギーはどのように他と連携しているのか、又他のインスピルギーとどのように連携しているかということで価値がいろいろと変化してくるのです。「価値」はインスピルギーによりコントロール出来るのです。
 ではどのようにしてインスピルギーを高めるか、についてお話し致しましょう。
それはごく簡単なことで、心を素朴にして真直ぐにする事です。
一時でも、いわゆる子供のような「素直な心」になることです。
これによりあなたのインスピルギーは段々と高まっていき、何に価値があり何が無いかがわかると同時に価値のある物事につながっていくことができるようになります。
例えば先にあげたストーリーのキャストたちは皆、素直にその物事を遂行しています。全部一人で抱え込まず、それぞれが連携しているわけです。ですから価値があるのです。
これによって誰が一番良かったか悪かったかは別問題で価値が上がったのはダイヤモンド自身なのです。金は一過性のものだし命や技術も何時かは廃れてしまいます。まして、キャスト同士が争ったりしたら価値は無になるどころかマイナスになってしまいます。要するにインスピルギーがマイナスになってしまい全ての連携がうまく行かなくなって仕舞いには自分までもが消滅することになってしまうのです。
私は心理学者でも神学者でも宗教学者でもありませんが、敢えて言えば自然共存学の受講生です。勿論そのような学問は有りませんし生徒は私一人だけですが。
最後に、私の価値はあなたと私自身ですが、あなたの価値は何ですか。

ぶるきな親爺の小さなお友達

2008-01-16 | Weblog
今日はいつも親爺のところに遊びに来るかわいい二人のマドマゼルをご紹介します。

右側が名前はデニッサ今年3歳、私の家に勤めているお手伝いさんのサンドリンの一人娘で家が近いのでお母さんについて来ます。そして左側がジャミーラ今年2歳、サンドリンの家に間借りしている家族の娘です。


家に入るなりお腹が空いているらしく食べ物をねだるのでタイ米のご飯にソースをかけてあげると、お皿を床に置き二人で仲良く手を使って器用に食べ始めました。デニッサはお姉さん振りを発揮して、自分もこぼすのに、しきりにジャミーラにご飯をこぼさないように注意します。


デニッサは楽しいと見えていつものやんちゃ振りを発揮しジャミーラに食べさせてあげたり歌を歌ったりとても忙しそうに食べています。

ジャミーラも楽しそうに食べているのですがまだ2歳なのでどうしても食べ物をこぼしてしまいます。


デニッサがジャミーラの食べる様子を見て、あまり沢山こぼすので、とうとう怒りだしました。


怒られたじゃミーラは何でいつも怒られるのか不満そうにしていると。


デニッサはますます興奮して起こります。


とうとうジャミーラは泣きべそをかいてしまいました。


デニッサはジャミーラの泣きべそを見て、今度はお母さんのような態度でなんで泣くのと怒ります。部屋から大きな布を持ってきてジャミーラをおんぶしようとしますがデニッサもそれほど大きくないので、なかなかおんぶ出来ません。しばらくジャミーラを怒りながら頑張っていましたが、とうとうジャミーラがデニッサのしつこさに泣き出してしまいました。


Comsilga村の風景

2008-01-15 | Weblog
今日、親爺は村へ久しぶりに小旅行をしました。
村のシェフ(酋長)に会いに行くためです。
村には電気や電話は無く人々は農業や牧畜を営んで、とても素朴な暮らしをしています。
親爺の生まれたころの日本の田舎と似ているようで、何故か気分が落ち着きます。


ぶるきな親爺とcomsilga村のシェフ(酋長)の2ショットです。
村に入るときは必ずシェフに面会をしなければなりません。

村の人が酋長に挨拶をするときは地面に這いつくばって挨拶をします。

村の沼には大きな野生のワニがいます。
親爺も食べられては大変と恐る恐る写真を撮りました。

村の酒蔵です。ブルキナファソにはミレット(粟)で造るドロというお酒があります。

あなたと私

2008-01-12 | Weblog
あなたにとって小さいことでも、私にとっては大きなこと
私にとって小さいことでも、あなたにとっては大きなこと

あなたにとって嬉しいことでも、私にとっては悲しいこと
私にとって嬉しいことでも、あなたにとっては悲しいこと

あなたにとって幸福なことでも、私にとっては不幸なこと
私にとって幸福なことでも、あなたにとっては不幸なこと

あなたと私はどうしたら本当に分かり合えるのでしょう

ぶるきな親爺の人生談義

2008-01-11 | Weblog
親爺は早起きです。朝5時に目が覚めて、ヨ~シ。と言うのが口癖でして、この「ヨ~シ」が睡眠から覚めると言う現象の中で私の体へ伝達する始めの行為なのでありまする。それから今日も目覚める事が出来たということと、何処も痛いところが無く体が動くと言うこと、それに今日が終わり眠りに付くまで少し頑張ろうという意味も込められておりまする。
それから、ネスカフェとタバコを両手に持ち昨日の事や今日のすべき事を一人で作戦独議をします。
私は元来、調査委員でも研究員でも無いのでアフリカとかブルキナファソという国についてはあまり拘りがございません。この国と他の国のデータを比較検討したり、この国について調査研究したところで凡夫の親爺はブルキナファソのことを少しは知っているという自己満足と優越感に浸る以外は日本やこの国の人たちの現実に、実際問題どうこう出来るものでもないのであります。というよりは、逆にブルキナファソという国の中で、親爺自身は何が出来るのだろうと常に考えておりまして、アカデミックなことよりは、平凡な日々の暮らしの中に起こることを親爺の頭の中で浅知恵をめぐらし、いろいろと試行錯誤を繰り返しては新しい発見や体験があればそれは親爺にとって、いい事につけ悪い事につけ活力となっておるのです。
こうして親爺一人でブルキナファソに孤児支援施設を建設しているのもブルキナファソで見つけた自分の目標の一つでありまして他の方々に、どうこう言おうが言われようが連続する自己の現実という時空を環境に影響されながら、どの様に進んでいくか課程がまず重要で、孤児施設が完成した結果、自分が進化成長することができる、と同時に周りの人達がより良くなっていれば自分人生の一つの目標は達成される事になりまする。
人生は洞窟を探検するようなものでありまして、母親の洞窟から人生の洞窟へと入りますが、人生の洞窟は深く、長く、暗く、幾つにも分かれていて、それぞれ用に宛がわれた1本の命の灯明を携え、人生の目標を探しながら、周りを明るく照らしながら、人生の目的へと向かって、始めは親という案内人に先導してもらい、時には人と助け合いながら、そして時には一人で進み行かねばならない時があっても命の灯明が消えるまで、ひたすら深く、長く、暗い人生の洞窟を探検するのでありまする。
一度限りの人生、洞窟探検の心得は、出来るだけ明るく楽しく行きましょう。

人生は標多く、的一つ、人生は洞窟を進むが如し

なみだ

2008-01-09 | Weblog
悲しい涙
嬉しい涙
悔しい涙
感動の涙
同情の涙
激励の涙
爆笑の涙
激憤の涙
感謝の涙

人はよく涙を流す
こころの淵から溢れたものが涙となって

ある日
何でもないのにふと、涙がとまらない

きっと
太古の昔から受け継がれてきた、この命
伝えてくれた祖先達の涙かも知れないな

生という現象

2008-01-08 | Weblog
最近日本の報道をインターネットで見ていると若い人の自殺が多いですな~。親爺も若かりしころは片思いの人に振られてア~死にたい、などと思った事があったね~。でも良く考えてみると自殺をする人はそうは思わないのかも知れないな、きっと生きたいと思わないから自殺するのかもね。よく一緒に飲みに行く溶接屋がこの前、家に遊びに来たのですが、たいそうの派手好き女好きで、そいつの話によると、仕事を独立したてのころ作業場に置いてあった組み立てた窓やドアなどが何者かに盗まれたそうな、翌日には建築現場に納めなくてはならないものだったらしい。彼は途方に暮れ、いままで小さいときから溶接屋の見習いとして給料もなしに働いてきて、やっとの思いで独立したらこのような有様、もう生きる望みがなくなった~、と言って作業場の柱にロープをかけて死のうとしてるところに父親が来て、この馬鹿たれが~、と言ったかどうかは解からぬが、こう言ったそうな、泥棒はお前の命までは持っていかなかったのに何でお前は死のうとするのだと。その言葉に、そうだ、命と腕があれば又やり直せる、と又一心不乱にチャレンジしたそうな。そのおかげで溶接屋は繁盛し、何人もの使用人を使い、昼間から飲んでは女を口説き、今に至っておりまする。
ところで、親爺の好きな人生訓の一つに人生如水と言う言葉がありまする。水は何処にあるかというと水道の蛇口ではなくコンビニでもないわけで、川あるいは井戸から来るのであるが、水を人生に喩えた言葉でありまして、空に雲が沢山集まりますと雨や雪になり地上に降って落ちると水と成りなりまして、山の上に落ちた雨や雪は清水となり渓流と成り大河となりて、やがて海に至るまで万物に大いなる恵みを与えてその使命を終える。が、しかし、人生はこのように奇麗事では済まされないのです。山に落ちない雨や雪も沢山ありまして、それはそれで万物には多大なる恵みを与えているのでしょうが、泥沼などに降った雨などは悲惨で、やがて腐ってボウフラや伝染病を媒介しますし、大雨などは洪水を起こして大きな被害を引き起こします。もし、親爺が水だったとしたら水としての存在は短かくてもアフリカの干ばつ地帯に降って人や家畜、作物の命の源になりたい。などとかっこいい事を言いながら今こうしてブルキナファソで家の庭の生垣にバケツで水を注いでおりまする。その生垣にも沢山の害虫が付くのですが、その虫の憎たらしい事といったらないのです。指でつぶそうとして近づくと駆け足で逃げるのです。親爺はその時ふと、こんな小さな虫でも殺されるのは嫌なのだ、死ぬのが嫌だから逃げるという事を知っているのです。ということは~、頭脳が発達している人間だけが自殺をする訳でして、ほかの動物は何かの弾みで感覚が狂って死ぬ事はあっても自殺などしないのです。そこで、
日本の若者の諸君に親爺は声を大にして言いたい、勉強は程ほどに、頭でっかちになるな、いい人ぶるな、格好つけるな、頭や顔など少々不細工でいいから今生きているという現実をよ~く実感し、生き詰った時、少し勇気を出して自分の殻を脱いで見るのもいいのではないのかな。
世は、現象で成り立ち、全てのもの、目的が無くなれば、それは、それで、お仕舞い。

ぶるきな親爺の寝言

2008-01-06 | Weblog
自分の中の自分 その中の自分
自分の外の自分 その外の自分

命の中の命 その中の命
命の外の命 その外の命

世の中の世 その中の世
世の外の世 その外の世

宇宙の中の宇宙 その中の宇宙
宇宙の外の宇宙 その外の宇宙

外も中も己の基点から成る

著・ぶるきな親爺

サバンナの風

2008-01-06 | Weblog
肌を焦がす灼熱の太陽が褐色の土に容赦なく照りつける
大自然の厳しさが漂う枯れた大地
何処からとも無く聞こえてくる声
少女は歌う 
臼を突きながら
私の愛しい人 何処へ行ったの
私はこうして毎日あなたを待っているのに
サバンナの風よ
お願いだから私を連れて行って
あの人のもとへ

井戸の水も枯れ少女は遥か遠くに水を汲む
どれだけ歩いたことか載せた桶が重く頭にのしかかる
家には沢山の弟や妹が待ちわびている
少女は歌う 
もつれた足で歩きながら
私の愛しい人 早く帰って
あなたが帰る日まで私は毎日歌を歌う
サバンナの風よ
お願いだから私の歌を聞かせて
あのひとに

作・・・ぶるきな親爺

ぶるきな親爺のささやかな楽しみ

2008-01-05 | Weblog
現在、首都ワガドゥグの朝方の気温は12度、ブルキナファソにも冬があるのです。一般的にアフリカと言えば暑いというイメージですが、いえいえそうではないのです。人々は朝の5時には起床し、まずは体を洗いますが、このときは熱いお湯を沸かしてバケツに入れ、水で埋めて使うのです。人々は寒がりなのか、このくらいの気温でもダウンジャケットを着て毛糸の帽子をかぶっていて親爺からすると少し大げさじゃ~ないのかと思うくらいです。この国にいて少し疑問に思うのはスープ、いわゆる味噌汁のような熱い飲み物が無いのです。ですから熱い飲み物を飲む時には直接うつわに口を付けて飲む事はあまり無くてスプーンなどで少しずつスプーンを使って飲むか、冷ましてから飲みます。あるとき親爺は日本茶が大好きなので、日本から持ってきたお茶を沸かして友達に振舞いましたところ、とても熱そうで茶碗に口を付ける事ができません、そこでさっそく飲み方を教えます、まず茶碗はお湯のある水位より上を持つか、茶碗の底を中指と薬指、上の縁を親指で挟んで持つ、そしてゆっくりと口のところに持って行き、口が茶碗につく直前に口を細くして静かに息を吸い込む、息を吸い込むと同時にお茶を一緒に吸い込む。ほーら、やってみなされ、といて促しては見たものの友達は口がやけどをするのではないかという恐怖感に駆られてなかなか茶碗を口に近付ける事ができず、約1センチ間隔のところで口を細めて深呼吸をしているのでありまする。親爺はそれを見て噴出しそうになりましたが、あまりにも真剣な、そして恐怖におののいた気配が伝わってきましたのでこみ上げる笑いをグ~ッとこらえ、強張った表情をしてもう一度手本を示しますと目を丸くして友達が君の口は大丈夫かなどと聞くものですから親爺もますます調子に乗って熱~いお茶を吸い込んだ後に口で器用に転がして見せますると友達は親爺を尊敬のまなざしで見るのでありまする。日本人は猫舌の人を省いては熱いものを食べたり飲んだりするのが好きで、真夏でも、そばやラーメンなんか、少しぬるいものなどが来ると文句を言ったりしますし、出すほうでも冷めない内にどうぞなどと言いますが、習慣の違いが、このような所であるのです。親爺は勿論日本人ですから熱いものは熱いときに飲んだり食べたりするほうが美味いのです。さて、友達ですが、何度も繰り返し練習をしているうちにだんだんお茶も冷めてきたのか茶碗に口を近付けてズルズル~とお茶を飲む事が出来まして、飲んだ後顔をゆがめて何を言うのかと思ったら、苦いので砂糖をくれと言うのでありまする。この戯け者めガ!日本茶に砂糖を入れるとは何たる不届きな事か、などと心で叫びながら、日本茶と言うものには砂糖は使わないのだよ。と説明するも、苦味には弱いらしく顔をゆがめてはニコ~ッとしますので親爺は親爺心で砂糖を持ってきてあげました。
それからというもの誰かブルキナの人が来ると日本の食べ物をご馳走するのが楽しみになり、梅干やかつおの塩から、ワサビの利いた海苔巻き寿司、ワカメの味噌汁、大根の味噌漬けなどを出し、相手の反応を見ては密かに喜んでいる親爺でござりまする。

ぶるきな親爺のつぶやき

2008-01-03 | Weblog
ブルキナファソの首都ワガドゥグ、昨年は12月に多く行事があり独立記念日が11日、イスラムのタバスキが19日、カトリックのノエルが25日、そして年末年始と続きました。お祭り好きのブルキナファソの人々は家族や友達と共に一晩中エキサイティングに騒ぎダンスを踊り楽しみます。日ごろは黙々と暮らし、この時にここぞとばかりに楽しみ奮発しますが、年を越し1月3日ともなると、それと相まって人々は現実の世界へと覚醒し、その姿には何となく疲労感のようなものが漂っています。日本のようにパチンコやカラオケボックスや遊園地などの大衆的な趣味や娯楽が少ないのは皆余分なお金が無いからなのかもしれませんが逆に生活にメリハリがあって良いような気もいたしまする。
親爺がガキンチョのころ、昭和30年代初期は遊園地といえば浅草花屋敷か谷津遊園、観光旅行といえば日光、それも年一回の子ども会の旅行もしくは町内会の旅行のみ、やっとテレビが普及し始めたころですので普段は街頭テレビでプロレスを見て力道山の強さにあこがれたものです。ですからクリスマスやお正月がとても待ちどうしく、それこそ指を折って後何日と数えていたものです。あるクリスマスの晩に、サンタクロースに会おうと弟と一緒に企てをしてサンタクロースがきたら目を覚ますような仕掛けを作りました。仕掛けといっても簡単なもので靴下のところに糸を付けてサンタクロースがそこにプレゼントを入れると鈴がなるようにしたものです。ところが朝になって眼を覚ますと靴下の中ではなく枕元にプレゼントが置いてありましたので、とても悔しい思いをしたのを思い出します。
そのような事をいまの若い方々に言っても実感として解からないかも知れませんが、少なくともブルキナファソには、そのような懐古的なものが存在しておりまする。
いや~だんだんと年を取るに付けて現実に押し流されているせいか夢も膨らんでこなくなって来るものでありまして、今もって子供のころは良かったな、と思う次第でござりまするが、親爺はこれからも純粋かつ屈託の無い心すなわち童心を忘れないよう心がける事を今年の目標として奮闘して行こうと思いまする。