『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
11 日の沈まない国――フェリペ二世のスペイン――
2 慎重王(エル・プルデンテ)フェリペ二世
神聖ローマ皇帝でハブスブルク家のカール五世は、カルロス一世(在位一五一六~五六)としてスペインの王位をかね、ドイツその他ヨーロッパ諸地域のみならず、新大陸をふくむ大帝国を支配した。
しかしこの帝国はまとまった統一体ではなかった。
世界帝国を夢みつつ、その統治に疲れたカール五世は、またフランス王、ドイツ・プロテスタント諸侯、教皇、トルコ(一五二〇年代に、スレイマン一世のトルコは中欧に進出し二九年にはウィーンを攻めた)との争いや妥協にあけくれた。
皇帝はオーストリアでもスペインでも愛されず、ついに一五五六年引退して修道院にはいり、まもなく世を去った。
あとをついだのは弟フェルジナントと皇子フェリペである。
前者は帝位とオーストリアを、後者はスペイン、ネーデルラント(低地の意味=オランダとベルギー)、ミラノ、ナポリ、シチリアなどをえた。
フェリペはまだ王子のとき、一五五四年、二度目の妃として十一歳年上のイギリス女王メアリー一世(在位一五五三~五八)と、政略結婚をしていた。
ただし夫は妻に無関心で、まもなくスペインに帰ってしまう。
この女王は、すでに宗教改革が行なわれていたイギリスで、短い在位期問ながら、カトリック復活政策をとって、プロテスタント多数を殺し、「血まみれ(ブラジ)」の異名をもらい、またスペインの対フランス戦争にまきこまれた。
このカール五世時代以来のスペインとフランスとの戦いは一五五九年に終わった。
フェリペ二世とフランス王アンリ二世は争いに疲れるとともに、発展してくるプロテスタント勢力に対処する必要を感じたのだ。
講和によって、フランスはイタリアに対する多年の野心をすて、半島におけるハブスブルク家の勢威は保持された。
しかし大陸におけるフランスの存在は、一面ではいわばハブスブルク帝国にくさびをうちこんでおり、ヨーロッパの勢力均衡のうえであなどりがたい力を持っていた。
フェリペ二世は一五五九年、フランス王家のエリザペートと三度目の結婚をし、両国の関係もやわらいだ。
フェリペ二世は慎重王(エル・ブルデンテ)とよばれた綿密な事務家で、大臣を秘書のように使い、用務について書いたり読んだりするのが大好きであり、こまかいことまで覚えていて油断をゆるさなかった。
広い領土を転々としていた父カール五世は手紙で王者の徳を教えたが、それはフェリペのなかに他人に対する不信を育てたらしい。
彼が示した人間らしい感情は王女に対する愛と、後述のエスコリアル宮殿を建てる喜びだけであったという。
長子ドン・カルロス(一五四六~六八)は、フェリペの最初の妃で、一五四三年に結婚したポルトガルのマリー(一五二六~四六)とのあいだに生まれた王子だが、その許嫁の女性は、けっきょく父王の三番目の妃となったフランスのエリザペート・ド・バロワだった。
精神状態の不安定な王子は、父王の政策に反対したり、エリザペートの件について復讐(ふくしゅう)するともらすありさまとなった。
謀叛(むほん)を恐れたフェリペは王子を逮捕し、獄死させた。
フェリペ二世のスペインは、地理上の発見や新大陸への植民の結果、中南米からフィリピン群島に進出し、またヨーロッパではネーデルラントを確保し、イタリア半島ににらみをきかせ、いわゆる「日の沈まない」大帝国を形成していた。
フェリペ二世はスペイン王として強力であっただけに、十五世紀末以来の中央集権の課題を強引に解決しようとした。
もともとスペインは、中央が乾燥した台地で、人口密度が低く、海岸に近い多くの川ごとに人口が集中し、地方差が大きく、古いまちまちな封建的権利がたくさん残っている。
それを個々に解決する行政力は一朝一夕には育たないので、むしろカトリック教会の大きな権威を利用して、国王への服従を組織する方法がとられた。
封建貴族を押えるためにも高級僧侶を重用し、そのためにローマ教皇への忠誠が政策につねに組みこまれ、また海外領土の所有権は、逆にスペイン王室を固くローマ教皇に結びつけた。
フェリペ二世は、こういう事情から、スペイン自体のカトリック的統一に熱心であり、勤労的な住民の逃亡という犠牲を意に介さないで、異教徒の弾圧を計画的に実行した。
そして国際的に、フェリペ二世がエリザベス一世のイギリスと争うにいたったのも、一つにはこのプロテスタント国となったイギリスと対決するという意味があったのである。
また王はフランス宗教戦争(一五六二年から九八年まで、カトリック・プロテスタント両教徒のあいだに内乱がおこった)に、カトリックの立場で三十年も干渉をつづけた。
これらはカトリック擁護者としての王の面目をたてたとしても、経済上の出費とか、政治エネルギーの分散とかで、マイナス面も少なくなかった。
収入、支出、いずれも巨大であったフェリペ二世は、広大な領土と勤勉な国民をもっていたのだから、やりかたによってはスペインをますます発展させえたかもしれない。
本人が慎重さで定評があっただけになおさらであるが、実はそうならなかった。
フェリペ二世時代のスペインはその最盛期であるとともに、没落が始まる時期でもあった。
カール五世の時代のスペインは、中南米貿易の交換物資として毛織物・絹織物業が奨励され、質量ともに第一級の水準を保っていた。
ところが中南米からの金・銀がスペインにドッと流入すると、スペインがヨーロッパでいちばん物価の高い国になり、スペイン商人はネーデルラントやイギリスから織物を密輸入して、スペイン製品のかわりにしはじめた。
フェリペ二世の時代になると、スペインの織物業は衰えはじめ、金・銀はネーデルラントのアントワープの商人たちのもとに流れこむこととなった。
金・銀こそはフェリペ二世ならずとも、もっとも大事なものである。
ここに厳重な重金主義政策がとられ、金・銀の国外流出をふせぎ、商人の利益を重税で吸いあげ、その政策を続行するためには、軍国主義をとるという悪循環が成立した。
産業の不振でスペイン農民は手工業的副業を失い、圧迫された商人は資本家として成長せず、一攫千金(いっかくせんきん)の投機熱や勤労を卑しめる貴族的な気風だけが増大するスペイン的な傾向が、これと並行した。
こうした状勢のなかでフェリペ二世は取引税の三倍増税などを行なった。
当時、直接税のとりかたはきわめて未発達で、増税は商取引を追いかけるほかなかったのである。
しかしこれはかえって本国商工業の衰えと、すでに起こっていたネーデルラントの反抗を刺激することとなった。