『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
5 巨星は落ちた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/0f/29a58e05e843ec0891a7f7a6f54fed76.png)
チンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。
さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。
そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。
しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。
その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。
左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。
あくまでも軍を進めることを命じたのである。
攻撃はつづけられた。
一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。
軍の進むところ、白骨が野に満つるというありさまであった。
ついに西夏の国王も、開城を申しいれた。
チンギス汗は夏の暑さを、甘粛の山中にさけていた。
そこへ西夏国王からの申しいれが伝えられたのである。
しかし、その目に落城を見ることなく、偉大なる大汗は病にたおれた。
いまや死期をさとったチンギス汗は、軍にしたがっていたツルイと、おもだった将軍たちをよびいれ、最後の命令をさずけた。
いかにして金の国をほろぼすか。
また西夏をたおしたのちには、国王とおもな役人たちを、すべて殺すべきこと。
そのときまで、チンギス汗の死は、かくしておくべきこと。
一二二七年の八月であった。
いかにも武人の最期らしく、遠征の陣中において、大汗はしずかに永遠の眠りについた。
その死は、わずかの親しい者たちのあいだにのみ告げられ、なきがらはひそかにモンゴルの故郷へはこぼれた。
その途中、葬列に出あったものは、人も、馬も、すべて殺された。チンギス汗の死後の生活に奉仕させるためであったという。こうして、なきがらは聖ならブルガン山のなか、土中ふかく埋められた。
モンゴルの習わしとして、地上には何のしるしも立てないから、その所在は今にいたるもわからない。
チンギス汗だけでなく、すべてのモンゴルの君主の墓が、今日まで一つも発見されていないのである。
西夏は、チンギス汗の遺命によって、国王とその一族が、ことごとく殺された。
ここに西夏は、建国してより十代、およそ二百年にしてほろびた。
さてチンギス汗の死後、国政をつかさどったのは、モンゴルの習慣にしたがって、末子のツルイであった。
二代目のカンをえらぶべきクリルタイ(集会)も、一二二九年の春、ツルイによって召集された。
クリルタイにおいては、ツルイ(四男)を推そうとする者も、少なくなかった。しかし最後は、やはりチンギス汗の遺志がおもんぜられた。
その生前の内定どおり、オゴタイ(三男)が推戴されたのである。
ときにオゴタイは四十歳であった。
即位の翌年(一二三〇)、オゴタイは金国へ大軍を進めた。
オゴタイも、ツルイも、それぞれ軍をひきいての親征であった。
いまや金国も、けんめいに守りをかためる。
黄河の線を死守してさかんな抵抗をこころみた。
さしものモンゴル軍も、にわかに進むことはできない。
しかし、北から西から、さらには大きく迂回して南からも攻め立てるモンゴル軍によって、金の城市は次々に落ちていった。
一二三三年のはじめには、国都の汴(べん)京(開封)も城をひらいて降った。
金の皇帝(哀宗)は南方へのがれた。
モンゴルは、南宋に使者をおくって、同盟を申しいれた。
北と南から、金をはさみ討ちにしよう、というのであった。
これを宋はうけいれ、兵を出す。いまやモンゴル軍は、破竹のいきおいであっだ。
南下をつづけて、金の皇帝がよった蔡(さい)州をかこんだ。
一二三四年、金の天興三年は、モンゴル軍の重囲のなかでおとずれた。
石州の城も、もはや最後のときが近づいている。
哀宗も、その運命をさとった。
よって帝位を、王族のひとりたる承麟(しょうりん)にゆずる。
しかし譲位の式が行われているとき、モンゴル罩は城内ふかく突入してきた。
哀宗は宮中の一室へはいって、みずから首をくくった。
皇帝になったばかりの承麟は、乱軍のなかで戦死した。
こうして金帝国も、ほろび去った。
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10 大モンゴル
5 巨星は落ちた
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チンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。
さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。
そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。
しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。
その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。
左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。
あくまでも軍を進めることを命じたのである。
攻撃はつづけられた。
一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。
軍の進むところ、白骨が野に満つるというありさまであった。
ついに西夏の国王も、開城を申しいれた。
チンギス汗は夏の暑さを、甘粛の山中にさけていた。
そこへ西夏国王からの申しいれが伝えられたのである。
しかし、その目に落城を見ることなく、偉大なる大汗は病にたおれた。
いまや死期をさとったチンギス汗は、軍にしたがっていたツルイと、おもだった将軍たちをよびいれ、最後の命令をさずけた。
いかにして金の国をほろぼすか。
また西夏をたおしたのちには、国王とおもな役人たちを、すべて殺すべきこと。
そのときまで、チンギス汗の死は、かくしておくべきこと。
一二二七年の八月であった。
いかにも武人の最期らしく、遠征の陣中において、大汗はしずかに永遠の眠りについた。
その死は、わずかの親しい者たちのあいだにのみ告げられ、なきがらはひそかにモンゴルの故郷へはこぼれた。
その途中、葬列に出あったものは、人も、馬も、すべて殺された。チンギス汗の死後の生活に奉仕させるためであったという。こうして、なきがらは聖ならブルガン山のなか、土中ふかく埋められた。
モンゴルの習わしとして、地上には何のしるしも立てないから、その所在は今にいたるもわからない。
チンギス汗だけでなく、すべてのモンゴルの君主の墓が、今日まで一つも発見されていないのである。
西夏は、チンギス汗の遺命によって、国王とその一族が、ことごとく殺された。
ここに西夏は、建国してより十代、およそ二百年にしてほろびた。
さてチンギス汗の死後、国政をつかさどったのは、モンゴルの習慣にしたがって、末子のツルイであった。
二代目のカンをえらぶべきクリルタイ(集会)も、一二二九年の春、ツルイによって召集された。
クリルタイにおいては、ツルイ(四男)を推そうとする者も、少なくなかった。しかし最後は、やはりチンギス汗の遺志がおもんぜられた。
その生前の内定どおり、オゴタイ(三男)が推戴されたのである。
ときにオゴタイは四十歳であった。
即位の翌年(一二三〇)、オゴタイは金国へ大軍を進めた。
オゴタイも、ツルイも、それぞれ軍をひきいての親征であった。
いまや金国も、けんめいに守りをかためる。
黄河の線を死守してさかんな抵抗をこころみた。
さしものモンゴル軍も、にわかに進むことはできない。
しかし、北から西から、さらには大きく迂回して南からも攻め立てるモンゴル軍によって、金の城市は次々に落ちていった。
一二三三年のはじめには、国都の汴(べん)京(開封)も城をひらいて降った。
金の皇帝(哀宗)は南方へのがれた。
モンゴルは、南宋に使者をおくって、同盟を申しいれた。
北と南から、金をはさみ討ちにしよう、というのであった。
これを宋はうけいれ、兵を出す。いまやモンゴル軍は、破竹のいきおいであっだ。
南下をつづけて、金の皇帝がよった蔡(さい)州をかこんだ。
一二三四年、金の天興三年は、モンゴル軍の重囲のなかでおとずれた。
石州の城も、もはや最後のときが近づいている。
哀宗も、その運命をさとった。
よって帝位を、王族のひとりたる承麟(しょうりん)にゆずる。
しかし譲位の式が行われているとき、モンゴル罩は城内ふかく突入してきた。
哀宗は宮中の一室へはいって、みずから首をくくった。
皇帝になったばかりの承麟は、乱軍のなかで戦死した。
こうして金帝国も、ほろび去った。
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