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6-10-5 巨星は落ちた

2023-07-27 17:47:15 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
5 巨星は落ちた

 チンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。
 さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。
 そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。
 しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。
 その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。
 左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。
 あくまでも軍を進めることを命じたのである。
 攻撃はつづけられた。
 一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。
 軍の進むところ、白骨が野に満つるというありさまであった。
 ついに西夏の国王も、開城を申しいれた。
 チンギス汗は夏の暑さを、甘粛の山中にさけていた。
 そこへ西夏国王からの申しいれが伝えられたのである。
 しかし、その目に落城を見ることなく、偉大なる大汗は病にたおれた。
 いまや死期をさとったチンギス汗は、軍にしたがっていたツルイと、おもだった将軍たちをよびいれ、最後の命令をさずけた。
 いかにして金の国をほろぼすか。
 また西夏をたおしたのちには、国王とおもな役人たちを、すべて殺すべきこと。
 そのときまで、チンギス汗の死は、かくしておくべきこと。
 一二二七年の八月であった。
 いかにも武人の最期らしく、遠征の陣中において、大汗はしずかに永遠の眠りについた。
 その死は、わずかの親しい者たちのあいだにのみ告げられ、なきがらはひそかにモンゴルの故郷へはこぼれた。
 その途中、葬列に出あったものは、人も、馬も、すべて殺された。チンギス汗の死後の生活に奉仕させるためであったという。こうして、なきがらは聖ならブルガン山のなか、土中ふかく埋められた。
 モンゴルの習わしとして、地上には何のしるしも立てないから、その所在は今にいたるもわからない。
 チンギス汗だけでなく、すべてのモンゴルの君主の墓が、今日まで一つも発見されていないのである。
 西夏は、チンギス汗の遺命によって、国王とその一族が、ことごとく殺された。
 ここに西夏は、建国してより十代、およそ二百年にしてほろびた。
 さてチンギス汗の死後、国政をつかさどったのは、モンゴルの習慣にしたがって、末子のツルイであった。
 二代目のカンをえらぶべきクリルタイ(集会)も、一二二九年の春、ツルイによって召集された。
 クリルタイにおいては、ツルイ(四男)を推そうとする者も、少なくなかった。しかし最後は、やはりチンギス汗の遺志がおもんぜられた。
 その生前の内定どおり、オゴタイ(三男)が推戴されたのである。
 ときにオゴタイは四十歳であった。
 即位の翌年(一二三〇)、オゴタイは金国へ大軍を進めた。
 オゴタイも、ツルイも、それぞれ軍をひきいての親征であった。
 いまや金国も、けんめいに守りをかためる。
 黄河の線を死守してさかんな抵抗をこころみた。
 さしものモンゴル軍も、にわかに進むことはできない。
 しかし、北から西から、さらには大きく迂回して南からも攻め立てるモンゴル軍によって、金の城市は次々に落ちていった。
 一二三三年のはじめには、国都の汴(べん)京(開封)も城をひらいて降った。
 金の皇帝(哀宗)は南方へのがれた。
 モンゴルは、南宋に使者をおくって、同盟を申しいれた。
 北と南から、金をはさみ討ちにしよう、というのであった。
 これを宋はうけいれ、兵を出す。いまやモンゴル軍は、破竹のいきおいであっだ。
 南下をつづけて、金の皇帝がよった蔡(さい)州をかこんだ。

 一二三四年、金の天興三年は、モンゴル軍の重囲のなかでおとずれた。
 石州の城も、もはや最後のときが近づいている。
 哀宗も、その運命をさとった。
 よって帝位を、王族のひとりたる承麟(しょうりん)にゆずる。
 しかし譲位の式が行われているとき、モンゴル罩は城内ふかく突入してきた。
 哀宗は宮中の一室へはいって、みずから首をくくった。
 皇帝になったばかりの承麟は、乱軍のなかで戦死した。
 こうして金帝国も、ほろび去った。





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