カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

6-10-4 大帝国の建設

2023-07-26 00:39:08 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
4 大帝国の建設

 一二一九年六月、いよいよ大軍は進発した。
 総勢は十五万から二十万にも達した、と考えられる。
 チンギス汗も、その四子も、すべて軍陣につらなった。
 むかえ討つホレズムの軍は、数のうえではモンゴル軍よりも優勢である。
 しかし統制力に欠けていた。
 そこを突いて、モンゴルの騎馬部隊は、一糸みだれぬ軍律のもとに、風のごとくホレズムの領内に駆けていった。
 まずオトラルの城を攻める。
 オトラルの攻防は、はげしかった。モンゴルにとっては、うらみの町である。
 城兵も必死にたたかった。
 こうして数ヵ月、オトラルでは矢がつき、石や瓦を投げてふせいだ。
 司令官は捕えられ、かってモンゴルの隊商をみなごろしにした報復として、とかした銀塊を目と耳とにそそぎこまれた。抵抗した住民は、ことごとく殺された。
 この間に、モンゴル本軍はホレズムの首都、サマルカンドにむかっていた。
 その通りみちの城市は、かたはしから攻めたてられた。
 降伏すると、着のみ着のままで城外に去ることを命ぜられた。
 城内にとどまった者は殺され、あらゆる財物は掠奪された。
 出征してから一年、わずか五日間の攻撃でサマルカンドは陥落した。
 巨大なイスラムの寺院や、豪壮な宮殿、そして邸宅の建ちならんだ美しい町であった。
 しかしモンゴル軍にとっては何の価値もみとめられない。家は焼かれ、財宝は奪われた。
 すでに国王ムハマンドは、国都から逃げだしている。
 領内を転々としたが、人民の信頼はうしなわれ、モンゴル軍の追撃も急であった。
 ついに身のおきどころもなくなって、カスピ海上の小島にのがれ、ここで憂悶のうちに、さびしく死んだ(一二二〇年の末という)。
 しかもモンゴル軍の進撃は、おわることを知らぬように、つづけられた。
 一隊はイランに、一隊は南ロシアをめざして進み、そしてチンギス汗の本隊はアフガニスタンに進んだ。
 西征は一二一九牛から五年間の長きにわたる。
 その間、モンゴル軍は至るところの城市を占領し、そこの財宝を掠奪すると、すべて灰にした。
 てむかった城市の住民は、ことごとく殺された。
 遠征の道すじにあたった人々は、モンゴル軍を悪魔のようにおそれた。
 こうしたことから、モンゴルの「残虐(ざんぎゃく)」と「蛮行」とが、ひろくとなえられてきた。
 たしかに今日の目から見るならば、モンゴル軍は残虐であったし、蛮行のかぎりをつくした、といえるであろう。
 しかし、モンゴル軍のような騎馬部隊の遠征においては、後方をみだされることが、何よりもおそろしかった。
 といって、降伏したものを、捕虜としてやしなう余力もない。
 疾風のような遠征を成功せるためには、てむかう力のある住民をみなごろしにすることが、ただ一つの手段であった。
 現代の戦争におけるような住民のみなごろしとは、質がちがうのである。
 今日行われている焦上戦術と、いっしょに考えることは、まちがっている。
 モンゴル軍は、征服したもののなかでも、技術をもった者は、殺さなかった。
 サマルカンドでも、三万人もの工芸家や職人が、いのちを助けられて、モンゴル本上におくられている。
 その技術をおもんじ、これを活用したのである。
 有能な者は、すべて用いるというのが、チンギス汗の方針であった。
 それゆえに、遠征にあたっては、イスラムの商人たちが、協力を惜しまなかった。
 いや、イスラム商人とむすんだことが、ながい遠征を成功させた原動力とも言えるであろう。
 攻城のときには、新しい火砲を用い、石油までも使っているが、それらもイスラムの商人を通じてもたらされたものに違いなかった。
 インドへの遠征をおわった後、チンギス汗は一二二三年の夏から冬を、サマルカンドで過ごした。
 そして二四年の春、いよいよ東方へ帰還の途につく。
 こうして一二二五年二月、チンギス汗はモンゴルの本営に帰りついた。

 四人の子のうち、三人は父とともに帰ったが、長男のジュチは南ロシアのキプチャク草原にとどまった。
 大遠征がおわると、チンギス汗は新しい領土を、その子どもたちにあたえた。
 こうして建てられたのが、ジュチの国(ジュチ・ウルス)、チャガタイの国(チャガタイ・ウルス)、オゴタイの国(オゴタイ・ウルス)である。
 モンゴルの本土は末子ツルイのために残された。
 モンゴルでは末子相続の習わしであり、チンギス汗の所領はツルイがつぐべきもの、と考えられたのである。
 ジュチは、そのまま所領にいてモンゴルには帰らず、まもなく死んだ(一二二六年とも二七年ともいう)。
 ジュチのあとは、その長子のバツ(抜都)がついだ。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。