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『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
15 イスラムとインド
3 イスラムの聖者
イスラム教徒だったトルコ人やアフガン人の政治的支配が、そのままインド人のイスラム教への改宗をうながした、とは言えない。
多くのインド人が、この新しい異民族の宗教に帰依するようになった大きな原因は、支配者による軍事的な強権によるよりは、じつは平和的なイスラムの宗教者たちによる、熱心な宗教活動の結果だったのである。
もっとも、宗教者とは言っても、スルタンや貴族たちにむすびついていた司法官や御用学者たちは、もっぱら自分たちイスラム教徒の世界のなかのことに忙しかった。
かれらが、イスラムの旗のもとに集めなければならなかった異教徒たるインド人のほうには、あまり目をむけなかった。
インド人、とくに都市の民衆や農民だちと接触して、これらの人びとにイスラムの教えを説いたのは、スーフィーと呼ばれて、イスラム教の神秘主義派に属する一群の人たちであった。
「スーフ」というのは、粗末な衣を意味するのだという説が有力である。
スーフィーの聖者たちは、ふつう、なりふりなどにはかまわずに、質素な庵(いおり)をむすんで、食事もろくなものを食べずに、ひたすら神の恩寵にすがるという、いわば祈りと暝想(めいそう)と修業の毎日をおくるのが常たった。
「妙な人がいる。ろくに言葉も通じない。でも、どうやらえらい人らしい。おれたちに教えてくれるバラモンの聖者に似ているが、あの人の神様は、ただ一人、アッラーというのだそうだ。」
そんな気持で、インド人は、これらのスーフィーの聖者たちに接し、関心を持ち、そしてしだいに、その教えと雰囲気とに影響されていたのかもしれない。
十二世紀の末から十三世紀にかけて、このようなスーフィーの聖者たちが、バグダードから、イランから、アフガニスタンの高原地方から、つぎからつぎへとインドの地へやってきて、各地に布教の庵をかまえたのである。
なかでも西北インドは、その中心で、とくにデリーには、すぐれた聖者があつまった。
いまでもニューデリーにいくと、インドやパキスタンばかりか、西アジアの人たちにも名を知られているスーフィー聖者たちの墓廟がいくつかあり、にぎわっている。
その周辺の地域には、デリーの王や貴族たちの墓や、かれらが寄進したモスク(礼拝所)などが、ぎっしりとたてこんでいる。
聖者にあやかりたいがために建てたものである。
ヒンズー教徒のなかからイスラム教に改宗する者がでた最大の要因は、このようにスーフィーの聖者の多年の努力によるものであった。
もともとイスラム教とヒンズー教は、一方は絶対的な唯一神教、他方はなんでもかでも神様にしてしまう傾向の多い多神教的な性格を、つよく持った宗教である。
一方は、ともかくも平等連帯の意識がつよく、どんなに人種や民族を異にしようとも、「アッサラーム・アライクム」(あなたに平安がありますように)という挨拶(あいさつ)で通じてしまう宗教である。
それなのに他方は、やれバラモンだ、やれバイシャだ、それに相手にさわれば身がけがれるという、悪名たかい不可触民の差別性まで強調する宗教だったのである。
だからインドにイスラム教の影響が根をおろしはじめると、カーストのひくいヒンズー教徒のなかには、身分的な枠から解放されたいがために、この新しい宗教に改宗する人たちがでてきたとしても、すこしも不思議ではなかったのである。
ところで、ヒンズー教徒の社会はどうだったであろうか。
仏教は、すでにずっと前におとろえてしまっている。
そこでは司祭者たるバラモンたちが、あいかわらず精神的な権威をふりかざして、政治権力をにぎっていた王だちと、たがいにじぶんたちの立場を利用しあいながら、民衆の心と生活とを、宗教の名において支配していた。
そのバラモン支配のたくみな社会的なしくみこそ、カースト制度だったのである。
「カースト」という言葉自体は、もとはポルトガル語の「血統」とか「種」を意味する語であった。
のちにインドにやってきたポルトガル人たちが、このヒンズー教徒の特異な身分制度を、このように呼んで以来、いまでは世界的に用いられるようになってしまった。
要するに、生まれが人間の一生をきめてしまうという、まったく前近代的な身分制度である。
イスラムは、それを変えるのにひと役買ったというわけであった。
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