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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
7 ポリス(都市国家)の衰退 ―クセノフォン―
2 ポリス(都市国家)の対立抗争
ペロポネソス戦争に敗れたアテネは、デロス同盟を解散され、城壁は破壊された。
このときスパルタの同盟市のなかには、アテネを徹底的に破壊することを主張したものもあったが、スパルタはペルシア戦争の際にアテネがギリシアの国難を救ったことを説いて、城壁の破壊だけにとどめた。
このためアクロポリスの諸神殿はその後の長い年月の諸変遷のため、損傷はこうむっているものの、その面影を残すことができた。
アテネにかわってスパルタがギリシアの覇権(はけん)を握ったが、ひじょうに皮肉なことには、これがかえってスパルタの衰亡の遠因をなした。
スパルタは諸市に「調停官(ハルモステス)」を派遣して、民主派をおさえて、寡頭政を強行させた。
アテネには「三十人僭主」が立ったが、けっきょくその支配は長くつづかず、民主政に帰ったことは、先に述べた。
他の市でもスパルタの強引さに反感を持つものがしだいにふえていった。
ことにテーベはトラシュブロスがアテネの民主政を再建したときもこれを助けているが、紀元前三九五年には、国境で起こった小さな紛争から、スパルタと戦いをはじめた。
テーベはアテネ、アルゴス、コリントと同盟していた。
このためテーベとスパルタの戦争は、スパルタと同盟の戦争で、この戦争は「コリント戦役」とよばれる。
この戦争のうしろにはペルシアがいた。
そのころペルシアはスパルタのギリシア支配を恐れはじめていた。
そこでアテネに経済的、軍事的援助をした。
アテネは城壁をこれによって再建したし、海軍を失っていたアテネは、ペルシア海軍を借りて、スパルタ海軍を破った。
トラシュブロスの率いるアテネ海軍はエーゲ海で活躍しはじめた。
しかしコリント戦争が長びき、アテネがスパルタを圧倒する勢いをしめしはじめると、ペルシアはアテネにも不安を感じはじめた。
スパルタはこれを利用して、アンタルキダスを使節としてペルシアの首都のスサに送り、大王にとりいった。
ギリシア諸市の使節がサルディスに呼び集められ、平和が議せられた。
平和会議でギリシア諸市はペルシア王の意向に従わさせられてしまった。
小アジアのイオニア諸市とキプロス島はふたたびペルシア領となり、この犠牲によってスパルタはギリシアの平和を手に入れた(紀元前三八六年)。
この和約は「アンタルキダスの和」ともよばれるが、ペルシア王がイニシアティブをとったので、「大王の和約」とよばれる。
ペロポネソス戦争敗戦直後には、ひじょうに衰微し、特に財政的に苦難の大きかったアテネは、このころまでにしだいに、その国力を回復し、また多くの諸市に頼られて、紀元前三七七年に「第二回アッティカ海上同盟」が結ばれた。
デロス同盟を第一回とかぞえて、この同盟を第二回とよぶのである。
アテネは先のデロス同盟の失敗にこり、また「大王の和約」では、ギリシア・ポリスの自治と独立を尊重することになっていたためもあり、アテネの専横な支配にならないように注意した。
そのため貢納金(こうのうきん)なども取り立てられなかった。
このころテーベでは民主派のエパミノンダスとペロピダスが協力して、寡頭派をおさえスパルタ勢力を国から追った。
そしてボイオティア地方を統一しようとした。
スパルタは、これをポリスの自治独立を尊重する「大王の和約」違反であるとして、クレオンブロトス王に一万人の重装歩兵と千人の騎兵を率いさせて、テーベを討たせた。
しかし無敵の陸軍と考えられていたスパルタ軍は、レウクトラにテーベ軍と戦って、大敗を喫した。
エパミノンダス(紀元前四二〇年ごろ~三六二年)の考えだした斜陣法によって、スパルタは敗れたのだった。
厚い主力を左翼に置いて敵を破り、後方に配した薄い右翼でこれを包囲してせん滅するというのが、斜陣法だった。
エパミノンダスの親友のペロピダス(紀元前四一〇年ごろ~三六四年)は、三百人の「神聖隊」を率いて、駆け足で、スパルタ軍がくずれた陣型の立てなおしができないうちに、スパルタ軍にうってかかった。
スパルタ軍は潰走し、多数の戦死者が出た。「神聖隊」というのは、ゴルギダスというものが、特によりすぐった三百人を特別に訓練してつくった精鋭部隊だった。
しかし一説には、その三百人は同性愛者同士から選んだものだったともいわれる。
彼らが特に勇敢だったのは、年長者は年少の愛人の前で、年少者は年長の愛慕者の前で恥をかきたくないと勇敢に戦ったためだといわれ、また彼らは危険なときにも、互いに愛人のために必死に戦うので強く、敗れることがなかったのだといわれる。
レウクトラでスパルタ軍を破ったテーベ軍は、その勢いをかって、ペロポネソス半島に攻めこんだ。
アルゴス、アルカディア、エリスなどがぞくぞく味方し、七万の兵でスパルタに攻めこんだ。
七万のうちテーベ兵は十二分の一もいなかったという。
あの男まさりといわれるスパルタの女たちも、テーベ軍の来襲の報をきいて、恐れさわいだ。
だがテーペ軍はスパルタを占領することはできなかった。
しかしスパルタ人に征服されて国有奴隷化(ヘイロタイ)されていたメッセニア人がスパルタ人にそむいて独立した。
このためスパルタはこの後急激に衰えた。
テーベはその後はテッサリアに手をのばしたり、ペルシアと手を結んだりしたが、その支配は長くつづかなかった。
まずペロピダスがベライの僭主アレクサンドロスと戦って、戦いには勝ったが戦死した(紀元前三六四年)。
つづいてエパミノンダスも、マンティネイアで、スパルタ・アテネ同盟軍と戦って勝ったが、彼も戦死した(紀元前三六二年)。二人の親友の死後、テーペの覇権は長くつづかなかった。
7 ポリス(都市国家)の衰退 ―クセノフォン―
2 ポリス(都市国家)の対立抗争
ペロポネソス戦争に敗れたアテネは、デロス同盟を解散され、城壁は破壊された。
このときスパルタの同盟市のなかには、アテネを徹底的に破壊することを主張したものもあったが、スパルタはペルシア戦争の際にアテネがギリシアの国難を救ったことを説いて、城壁の破壊だけにとどめた。
このためアクロポリスの諸神殿はその後の長い年月の諸変遷のため、損傷はこうむっているものの、その面影を残すことができた。
アテネにかわってスパルタがギリシアの覇権(はけん)を握ったが、ひじょうに皮肉なことには、これがかえってスパルタの衰亡の遠因をなした。
スパルタは諸市に「調停官(ハルモステス)」を派遣して、民主派をおさえて、寡頭政を強行させた。
アテネには「三十人僭主」が立ったが、けっきょくその支配は長くつづかず、民主政に帰ったことは、先に述べた。
他の市でもスパルタの強引さに反感を持つものがしだいにふえていった。
ことにテーベはトラシュブロスがアテネの民主政を再建したときもこれを助けているが、紀元前三九五年には、国境で起こった小さな紛争から、スパルタと戦いをはじめた。
テーベはアテネ、アルゴス、コリントと同盟していた。
このためテーベとスパルタの戦争は、スパルタと同盟の戦争で、この戦争は「コリント戦役」とよばれる。
この戦争のうしろにはペルシアがいた。
そのころペルシアはスパルタのギリシア支配を恐れはじめていた。
そこでアテネに経済的、軍事的援助をした。
アテネは城壁をこれによって再建したし、海軍を失っていたアテネは、ペルシア海軍を借りて、スパルタ海軍を破った。
トラシュブロスの率いるアテネ海軍はエーゲ海で活躍しはじめた。
しかしコリント戦争が長びき、アテネがスパルタを圧倒する勢いをしめしはじめると、ペルシアはアテネにも不安を感じはじめた。
スパルタはこれを利用して、アンタルキダスを使節としてペルシアの首都のスサに送り、大王にとりいった。
ギリシア諸市の使節がサルディスに呼び集められ、平和が議せられた。
平和会議でギリシア諸市はペルシア王の意向に従わさせられてしまった。
小アジアのイオニア諸市とキプロス島はふたたびペルシア領となり、この犠牲によってスパルタはギリシアの平和を手に入れた(紀元前三八六年)。
この和約は「アンタルキダスの和」ともよばれるが、ペルシア王がイニシアティブをとったので、「大王の和約」とよばれる。
ペロポネソス戦争敗戦直後には、ひじょうに衰微し、特に財政的に苦難の大きかったアテネは、このころまでにしだいに、その国力を回復し、また多くの諸市に頼られて、紀元前三七七年に「第二回アッティカ海上同盟」が結ばれた。
デロス同盟を第一回とかぞえて、この同盟を第二回とよぶのである。
アテネは先のデロス同盟の失敗にこり、また「大王の和約」では、ギリシア・ポリスの自治と独立を尊重することになっていたためもあり、アテネの専横な支配にならないように注意した。
そのため貢納金(こうのうきん)なども取り立てられなかった。
このころテーベでは民主派のエパミノンダスとペロピダスが協力して、寡頭派をおさえスパルタ勢力を国から追った。
そしてボイオティア地方を統一しようとした。
スパルタは、これをポリスの自治独立を尊重する「大王の和約」違反であるとして、クレオンブロトス王に一万人の重装歩兵と千人の騎兵を率いさせて、テーベを討たせた。
しかし無敵の陸軍と考えられていたスパルタ軍は、レウクトラにテーベ軍と戦って、大敗を喫した。
エパミノンダス(紀元前四二〇年ごろ~三六二年)の考えだした斜陣法によって、スパルタは敗れたのだった。
厚い主力を左翼に置いて敵を破り、後方に配した薄い右翼でこれを包囲してせん滅するというのが、斜陣法だった。
エパミノンダスの親友のペロピダス(紀元前四一〇年ごろ~三六四年)は、三百人の「神聖隊」を率いて、駆け足で、スパルタ軍がくずれた陣型の立てなおしができないうちに、スパルタ軍にうってかかった。
スパルタ軍は潰走し、多数の戦死者が出た。「神聖隊」というのは、ゴルギダスというものが、特によりすぐった三百人を特別に訓練してつくった精鋭部隊だった。
しかし一説には、その三百人は同性愛者同士から選んだものだったともいわれる。
彼らが特に勇敢だったのは、年長者は年少の愛人の前で、年少者は年長の愛慕者の前で恥をかきたくないと勇敢に戦ったためだといわれ、また彼らは危険なときにも、互いに愛人のために必死に戦うので強く、敗れることがなかったのだといわれる。
レウクトラでスパルタ軍を破ったテーベ軍は、その勢いをかって、ペロポネソス半島に攻めこんだ。
アルゴス、アルカディア、エリスなどがぞくぞく味方し、七万の兵でスパルタに攻めこんだ。
七万のうちテーベ兵は十二分の一もいなかったという。
あの男まさりといわれるスパルタの女たちも、テーベ軍の来襲の報をきいて、恐れさわいだ。
だがテーペ軍はスパルタを占領することはできなかった。
しかしスパルタ人に征服されて国有奴隷化(ヘイロタイ)されていたメッセニア人がスパルタ人にそむいて独立した。
このためスパルタはこの後急激に衰えた。
テーベはその後はテッサリアに手をのばしたり、ペルシアと手を結んだりしたが、その支配は長くつづかなかった。
まずペロピダスがベライの僭主アレクサンドロスと戦って、戦いには勝ったが戦死した(紀元前三六四年)。
つづいてエパミノンダスも、マンティネイアで、スパルタ・アテネ同盟軍と戦って勝ったが、彼も戦死した(紀元前三六二年)。二人の親友の死後、テーペの覇権は長くつづかなかった。