『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
4 色目人の登用
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/5c/93686d6b72e9ca52dc514c4c776f972c.png)
元朝のもとにおいて、西方系の人々は「色目」とよばれた。
これは“諸色目”すなわち、さまざまの種類の人、という意味であったと解される。
そのなかでも、もっとも多数を占め、かつ大きな活躍をしめしたのは、ウイグル人をはじめとするトルコ族の人々であった。
いち早くカトリックに帰依したオングート部は、トルコ族に属した。
よって色目人のなかにはいる。
ペルシア人やアラブ人も、もちろん色目人であった。
マルコ・ポーロのようなヨーロッパ人も、また色目人である。
こうした色目人を、元朝は優遇し、重く用いた。彼らは古くから、東西をむすぶ貿易に従事してきた。
モンゴル人が大遠征をおこなうにあたっては、これに協力し、補給を受けもった。
大帝国の建設に、彼らの果たした役割は大きい。さらに、彼らはすぐれた文化をもっていた。
モンゴル文字も、ウイグル文字をもとにして、つくられたものである。
やがてモンゴルは中国を征服し、これを支配するにいたる。
しかし征服された中国の人々にくらべると、支配者たるモンゴル人の数は、一パーセントにも達しないほど少なかった。
文化の程度といったら、比較にもならない。
これでは満足な統治も、おぼつかないであろう。
中国人をおさえつけるためにも、色目人は有用であった。
さて世祖フビライの一代は、戦争に明け暮れた。それも勝った戦争ばかりではない。
国費をついやすこと、おびただしく、財政は苦しくなった。
さらに元朝は、モンゴル人の諸王や功臣たちのために、経済的援助をおこなっていた。
何としてもモンゴル人は、国家の中核である。その勢力を弱めるようなことが、あってはならない。
それやこれやで、歳出はふえるばかりであった。
このため元朝は、とくに財政に通じた者を起用し、歳入の増加をはかる。
まず財政を担当したのは、アーマド(阿合馬)である。
その名のしめすようにウイグル人、すなわち色目人であった。
アーマドは、フビライの信任をえて財政にたずさわること、じつに二十一年(一二六二~八二)、増税をはかって歳入をふやし、戸口の調査にも力をそそいで、脱税をふせいだ。
もちろん、税として取りたてる額には限度がある。そこで専売制を強化した。
塩や茶をはじめ、鉄や銀も薬剤も、かたはしから専売にして、利潤をおさめた。
ただ売るだけでなく、鉄などは農器具をつくって売りさばいたように、企業までも国家が独占した。
こうして、アーマドは、大いに辣腕(らつわん)をふるったのである。
財政家としてはすぐれていたが、それだけに人々のうらみを買った。モンゴル人からも、中国人からも、色目人からさえも、にくまれた。
きびしい政策によって豪農も豪商も、また官僚も、私腹をこやすことができないのである。
反対がつよくなると、彼は自分に同調する者を用いて、周囲をかためた。
そこでますます国政をほしいままにするものと、みられた。
ちょうどマルコ・ポーロが、フビライに仕えていたころであった。
マルコにも、悪評ばかり聞こえていた。そこで語っている。
アーマドは、ぬけ目なく、しかも才能のある男であった。
大汗には心から寵愛され、どんなわがままでもゆるされた。
これはアーマドが魔術をもって大汗をまどわし、大汗が絶対の信頼をおいて、何の注意もはらわぬように、しむけたからであった。
こうして、すきなことを思うままにふるまった。
自分がにくんでいる者を殺そうと思うと、大汗のもとにいって、その男の罪は死にあたると申しあげる。
大汗は「よきにはからえ」と申される。その男は、たちまち処刑されてしまうのである。
こうして大勢の人が、不当に殺されていった。
そのうえアーマドは、美しい女に思いをかけると、かならず手に入れた。
相手が未婚ならば妻にしてしまう。
そうでなくとも、何とか手をつくして、自分の意にしたがわせてしまう。
娘の場合には、その父親を役職につけてやると約束した。
娘をさしだすと、アーマドは大汗に申しあげる。
これこれの官職に、その男が適任であります。すると大汗は「よきにはからえ」と申される。
その男は、さっそく官職にありついた。
ついにアーマドは、至元十九年(一二八二)、中国人のために暗殺された。
その状況も、マルコはくわしく伝えている。
アーマドのあとをうけて財政を担当したのは、盧世栄(中国人)であった。
通貨の整理や、塩価の引きあげなど、次々に手をうって、国庫の充実に力をつくした。
しかも、たちまち周囲から反撃をうける。
私服をこやしていると弾劾され、フビライの信任をうしなって、翌年には死刑に処せられた。
事にあたろこと、わずかに半年であった。
ついで登用されたのが、ウイグル人のサンガ(桑哥)である。
至元二十四年から、財政の全権をにぎった。
まず手をつけたのが、おりから高まりつつあったインフレの抑制であった。
元朝の通貨といえば紙幣である。「交紗(こうしょう)」とよばれた。
紙幣の発行は宋代におこり、金国でも行われた。これを元朝が引きついだわけである。
すでにオゴタイの代から、交紗は発行されている(一二三六)。木版印刷によるものであった。
フビライが即位すると、中統元年(一二六〇)に「中統元宝交紗」を発行した。
額面は十文から二貫文までの九種類で、銅銭の代用ということであった。
さらに二貫文は銀一両にあたるとされ、発行額に見あうだけの銀が国庫に用意された。
すなわち、いつでも兌換できるわけで、通貨としてはきわめて安定したものであった。
税にしても、交鈔でおさめることができる。
ヨーロッパでは、まだ紙幣は用いられていない(その使用は、十七世紀以後)。
そこでマルコ・ポーロも、驚きの目をもって、元朝の紙幣制度をくわしく語っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/21/25dc9e854d9eefa29012ddb90dd0013e.png)
「大汗こそ、まさに申しぶんのない錬金術師」というわけであった。
紙片が金銀とかわるのである。すべての支払いを、紙ですませることができるのである。
しかし国家の財政が膨張してゆくと、交鈔の発行も年ごとに多くなった。
ついには国庫にたくわえられている銀よりも、はるかに上まわった。
そうなると、交鈔の価値が下落する。悪性のインフレがおこってくる。
これに盧世栄も取りくんだが、失敗した。インフレは進むばかりであった。
そうしたときに、サンガが乗りだしたのである。
サンガは、あらたに「至元通行宝紗」を発行し、通貨の切下げを断行した。
いままでの中統紗五に対して、至元紗一の比率で通用させたのである。その発行額も制限した。
こうしてインフレは、ひとまずおさえられた。
しかも歳出は増大するばかりである。
サンガも、専売品の値上げと、増税にふみきらざるをえなかった。
またしても世間の非難は高まる。
そこでサンガも、反対派をしりぞけ、要職を自派でかためる。反撥はいよいよ強くなった。
ついに至元二十八年(一二九一)には、罷免され、ついで処刑されてしまったのである。
三人の財政家は、いずれも終わりをまっとうすることができなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/7d/2d21438e540409d15e699ee8911d3132.jpg)
12 元朝の支配
4 色目人の登用
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/5c/93686d6b72e9ca52dc514c4c776f972c.png)
元朝のもとにおいて、西方系の人々は「色目」とよばれた。
これは“諸色目”すなわち、さまざまの種類の人、という意味であったと解される。
そのなかでも、もっとも多数を占め、かつ大きな活躍をしめしたのは、ウイグル人をはじめとするトルコ族の人々であった。
いち早くカトリックに帰依したオングート部は、トルコ族に属した。
よって色目人のなかにはいる。
ペルシア人やアラブ人も、もちろん色目人であった。
マルコ・ポーロのようなヨーロッパ人も、また色目人である。
こうした色目人を、元朝は優遇し、重く用いた。彼らは古くから、東西をむすぶ貿易に従事してきた。
モンゴル人が大遠征をおこなうにあたっては、これに協力し、補給を受けもった。
大帝国の建設に、彼らの果たした役割は大きい。さらに、彼らはすぐれた文化をもっていた。
モンゴル文字も、ウイグル文字をもとにして、つくられたものである。
やがてモンゴルは中国を征服し、これを支配するにいたる。
しかし征服された中国の人々にくらべると、支配者たるモンゴル人の数は、一パーセントにも達しないほど少なかった。
文化の程度といったら、比較にもならない。
これでは満足な統治も、おぼつかないであろう。
中国人をおさえつけるためにも、色目人は有用であった。
さて世祖フビライの一代は、戦争に明け暮れた。それも勝った戦争ばかりではない。
国費をついやすこと、おびただしく、財政は苦しくなった。
さらに元朝は、モンゴル人の諸王や功臣たちのために、経済的援助をおこなっていた。
何としてもモンゴル人は、国家の中核である。その勢力を弱めるようなことが、あってはならない。
それやこれやで、歳出はふえるばかりであった。
このため元朝は、とくに財政に通じた者を起用し、歳入の増加をはかる。
まず財政を担当したのは、アーマド(阿合馬)である。
その名のしめすようにウイグル人、すなわち色目人であった。
アーマドは、フビライの信任をえて財政にたずさわること、じつに二十一年(一二六二~八二)、増税をはかって歳入をふやし、戸口の調査にも力をそそいで、脱税をふせいだ。
もちろん、税として取りたてる額には限度がある。そこで専売制を強化した。
塩や茶をはじめ、鉄や銀も薬剤も、かたはしから専売にして、利潤をおさめた。
ただ売るだけでなく、鉄などは農器具をつくって売りさばいたように、企業までも国家が独占した。
こうして、アーマドは、大いに辣腕(らつわん)をふるったのである。
財政家としてはすぐれていたが、それだけに人々のうらみを買った。モンゴル人からも、中国人からも、色目人からさえも、にくまれた。
きびしい政策によって豪農も豪商も、また官僚も、私腹をこやすことができないのである。
反対がつよくなると、彼は自分に同調する者を用いて、周囲をかためた。
そこでますます国政をほしいままにするものと、みられた。
ちょうどマルコ・ポーロが、フビライに仕えていたころであった。
マルコにも、悪評ばかり聞こえていた。そこで語っている。
アーマドは、ぬけ目なく、しかも才能のある男であった。
大汗には心から寵愛され、どんなわがままでもゆるされた。
これはアーマドが魔術をもって大汗をまどわし、大汗が絶対の信頼をおいて、何の注意もはらわぬように、しむけたからであった。
こうして、すきなことを思うままにふるまった。
自分がにくんでいる者を殺そうと思うと、大汗のもとにいって、その男の罪は死にあたると申しあげる。
大汗は「よきにはからえ」と申される。その男は、たちまち処刑されてしまうのである。
こうして大勢の人が、不当に殺されていった。
そのうえアーマドは、美しい女に思いをかけると、かならず手に入れた。
相手が未婚ならば妻にしてしまう。
そうでなくとも、何とか手をつくして、自分の意にしたがわせてしまう。
娘の場合には、その父親を役職につけてやると約束した。
娘をさしだすと、アーマドは大汗に申しあげる。
これこれの官職に、その男が適任であります。すると大汗は「よきにはからえ」と申される。
その男は、さっそく官職にありついた。
ついにアーマドは、至元十九年(一二八二)、中国人のために暗殺された。
その状況も、マルコはくわしく伝えている。
アーマドのあとをうけて財政を担当したのは、盧世栄(中国人)であった。
通貨の整理や、塩価の引きあげなど、次々に手をうって、国庫の充実に力をつくした。
しかも、たちまち周囲から反撃をうける。
私服をこやしていると弾劾され、フビライの信任をうしなって、翌年には死刑に処せられた。
事にあたろこと、わずかに半年であった。
ついで登用されたのが、ウイグル人のサンガ(桑哥)である。
至元二十四年から、財政の全権をにぎった。
まず手をつけたのが、おりから高まりつつあったインフレの抑制であった。
元朝の通貨といえば紙幣である。「交紗(こうしょう)」とよばれた。
紙幣の発行は宋代におこり、金国でも行われた。これを元朝が引きついだわけである。
すでにオゴタイの代から、交紗は発行されている(一二三六)。木版印刷によるものであった。
フビライが即位すると、中統元年(一二六〇)に「中統元宝交紗」を発行した。
額面は十文から二貫文までの九種類で、銅銭の代用ということであった。
さらに二貫文は銀一両にあたるとされ、発行額に見あうだけの銀が国庫に用意された。
すなわち、いつでも兌換できるわけで、通貨としてはきわめて安定したものであった。
税にしても、交鈔でおさめることができる。
ヨーロッパでは、まだ紙幣は用いられていない(その使用は、十七世紀以後)。
そこでマルコ・ポーロも、驚きの目をもって、元朝の紙幣制度をくわしく語っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/21/25dc9e854d9eefa29012ddb90dd0013e.png)
「大汗こそ、まさに申しぶんのない錬金術師」というわけであった。
紙片が金銀とかわるのである。すべての支払いを、紙ですませることができるのである。
しかし国家の財政が膨張してゆくと、交鈔の発行も年ごとに多くなった。
ついには国庫にたくわえられている銀よりも、はるかに上まわった。
そうなると、交鈔の価値が下落する。悪性のインフレがおこってくる。
これに盧世栄も取りくんだが、失敗した。インフレは進むばかりであった。
そうしたときに、サンガが乗りだしたのである。
サンガは、あらたに「至元通行宝紗」を発行し、通貨の切下げを断行した。
いままでの中統紗五に対して、至元紗一の比率で通用させたのである。その発行額も制限した。
こうしてインフレは、ひとまずおさえられた。
しかも歳出は増大するばかりである。
サンガも、専売品の値上げと、増税にふみきらざるをえなかった。
またしても世間の非難は高まる。
そこでサンガも、反対派をしりぞけ、要職を自派でかためる。反撥はいよいよ強くなった。
ついに至元二十八年(一二九一)には、罷免され、ついで処刑されてしまったのである。
三人の財政家は、いずれも終わりをまっとうすることができなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/7d/2d21438e540409d15e699ee8911d3132.jpg)