カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

黙想『基督信者宝鑑』

2021-02-01 04:11:46 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

5 黙想

5-1
黙想の必要とその利益

 朝の祈祷の後、しばらくの間黙想することにいたしなさい。
 黙想は救霊のために極めて肝要であって、かねがね黙想しない人で、罪を怖れ、主を愛し、永く聖寵を保持って行くというのは、ナカナカおぼつかないのである。

 聖書にも、
「地は荒れに荒れた。心に想う人が無いものだから」(エレミヤ12-2)
とあるが、世の中に徳の光が次第に薄れ行って、罪の暗はいよいよ深くたちこめるようになるのは、実に永遠の大理を黙想する人がないからである。

 死去だの、審判だの、天国、地獄だの、いうことについて始終まじめに黙想していると、どうしても罪なんて犯されはせぬはずである。
 こころみに、今、地獄で泣いている霊魂に向かって、
「どうしてこんな所へ来たのだ」
と尋ねてごらん。
「地獄を想わなかったからですよ」
と大概のは答えるでございましょう。

 黙想は実に心の闇を照らす光明である。永遠の旅路に輝く太陽である。
したがって、黙想しない人は、闇夜にちょうちんを持たぬで、知らぬ土地を旅行する愚か者といわなければならぬ。
 救霊の大切なる、罪の憎むべき、地獄の怖るべきことなども、いっこうに見えないものだから、つまづいて、転んで、倒れるのは、不思議ではない。
 だから聖テレジアは、
「黙想になまける霊魂は、悪魔の手を借りないでも、自分で地獄へ飛び込むよ」
とおっしゃったくらいであります。

 世には、ロザリオなどを怠らずとなえながらも、罪悪と手を握り合っている人が無いわけではないが、平生熱心に黙想しながら、罪悪に親しんでいるという人を見たことはない。黙想と罪悪は、ふたつとも並び立って行けるものではない。黙想を病めなければ必ず罪悪を棄てるものであります。

 黙想は、ただ罪を避けるのに助けとなるのみならず、善を行うのにも、また、極めて肝要である。聖人といわれる御方は、いずれも黙想によって聖人となられたのだ。鏡にむかってこそ顔の汚点も見られる。お化粧もされる。
 黙想は心を照らす明鏡だ。不足も過失も、罪の汚点も、鮮やかにこれに映るので、とてもはずかしくてじっとしておられない。一日も早くその汚点を洗い落として、身分相応に徳のお化粧を施したくなってくるのであります。

 そのうえ、黙想をすれば、永遠だの、天国だの、地獄だのというような大切な思想が始終頭に浮かんでいるので、おのずから罪を怖れ、徳を愛する気になる。イエズス様、聖マリア様、諸天使、諸聖人等とも親しく交わり、いわば、共に道連れとなっていただいて、天国の旅行をするようなものであるから、なぐさめてももらえる、励ましてももらえる、注意してももらえる、倒れてもすぐに手をとって引き起こしてもらえるのだ。

これほど安全な旅行があるでございましょうか。



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。